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私の勉強遍歴と「難しいからやめなよ」と言う人は、「生きるの難しいから死ね」と言っているのと同じではないのかという話

※3391文字


私は低学歴、低収入、低血糖の社不女30歳です。
偏差値35くらいの高校を卒業して、気分の赴くままにフリーターになり、たいして稼いだこともないままぬるぬると生きています。

そんな私でも最近『勉強』にハマってます。とはいえそもそもどう言ったものが『勉強』と定義されるのかよくわからないので自分が「知らなかった」とか「良い気付きがあった」と思えば『勉強』ということにしています。
なので世間的な『勉強』よりは難易度が低かったり、解釈の基準が低かったりするかもしれません。

『勉強』の中身と歴

今は哲学の『消去主義』について、理解を深めようと奮闘中です。
消去主義にたどり着くまでは心理学と脳科学について調べていました。

3年くらい前に心理について調べるようになり、
2年ほど前からはどんな心理について調べても
「どうしてそのような感情が湧くのか」
「その感情は脳がどのような反応をしているのか」
「なぜその反応が必要なのか」
「必要ということは生存に必要なものだったのではないか」
「その反応により人間関係に不協和を引き起こす場合も多いのに、そういった思考回路が淘汰されずに受け継がれているのはなぜなのか」
などの疑問が次々に湧いて、心理学だけでは私の疑問を解消できなかったので脳科学も並行して調べるようになりました。

そうこうしているうちに、身の回りで起こることも相まって「理性の正体ってなに?」というところに行きつき、哲学に出会い、今に至ります。

理性について、しばらくは心理学や脳科学ベースで調べていたのですが、私の疑問を解消できるバイアスやホルモンを見つけることが出来ず、行き詰まったところで『理性とは』でググったらサブジェクトに『理性 哲学』とでたので「なんだ。哲学だったのかあ〜」と思って哲学を調べ始めました。

ある側面を軸にして人間の言動を観察したときに、バイアスやホルモンが無意識に人間の本能や防衛機制を誘発している『プラスの機能』と定義した場合、理性は本能を抑える『マイナスの機能』だと思いました。なので「理性ってなんのホルモンが作用してるの?」「バイアスで言ったらどれなの?」「私が理性を発揮しているとき(ほとんどないけど)は、脳や身体でどんなことが起こってるの?」「今まで加害してきた男性たちは理性が足りないように見えたけど、それはどのホルモンが足りなくてそうなったの?」という疑問が溢れて『理性』というものへの興味が抑えられなくなりました。
この正体について少しでも理解が深まれば、さまざまな事象への解像度があがるかもしれない。私は自分のことを『客観性がまわりの人に比べて足りない部類の人間』だと思っていて、それをコンプレックスに感じていることがあるので『理性』は私にとってとても魅力的な性質でした。

理性や哲学の面白さについても書いてしまいたいのですが、今回のテーマとは逸れるのでこんど別の記事にしよう・・・と今まさに『理性』を働かせているところです。ここまで読んで下さっているある意味変態な人には良ければその記事も読んでほしいです。きっと良いともだちになれます。ともだちは一生の宝です。犯罪を起こさないために必要なのは良いともだちと少しの筋トレです。犯罪心理学と裁判の傍聴経験から私が考察してみつけた法則なのでそこそこ間違いないと思います。なので、ここまで読んでくれている方、是非ともだちになりましょう。(必死)

これからの楽しみ

消去主義について少し理解が深まったら・・・というか今読んでいる本『脳がつくる倫理』のまとめ作業が完了したら、今度は法律について学ぼうと思っています。本も何冊か用意していて、ポケット六法もあります。準備万端。

消去主義を学ぶことで『文化的道徳のなりたち』や『脳の進化』についての理解が深まり「どうしてその法律ができたのか」「その法律は人間のどんな性質を抑える作用があるのか」「そもそもその法律は自己保存行動の役に立っているのか」などの視点も踏まえてたのしく学べるのではないかと思うと気持ちが高まります。楽しみが抑えられない・・・!

心理学もやりたいテーマがまだたくさんあるので、楽しみは尽きません。

『法律について学びたい』という発言への反応

前述の経緯で私は法律について学ぶことをとても楽しみにしているわけですが、私の『勉強好き』に見える性質はけっこうギャップがあるようで、まわりの人からかなりつっこまれます。めちゃくちゃびっくりされて、結構褒められます。
でも私の『勉強』はみんなが経験から学んできたことを経験から汲み取れなかったから、今更言語化して自分に落としこもうとしているだけで、世間的にいう立派な勉強とはちがい『補習』のようなものです。なので「勉強してるの?スゴイ」とかいわれると全然違うって思います。自分ですごくないってちゃんと理解してます。資格もなんにも持ってないし。
だからそんな大層な行いはしてないってちゃんとわかってる。

それなのに時々「法律?難しいからやめなよ」「哲学?お金になるの?」「心理学?資格とるの?」「仕事にしないの?」と言われます。
私、法律のこと「簡単そうだからやろう」って思ったこと1秒もない。
心理学も脳科学も哲学も、自分にとって必要だからやっただけで、お金にしようとか、簡単そうだからやろうとか、そんなこと考えたことなかったのでそう言うことを言われると毎回びっくりしたり、相手に落胆してしまう。(ごめんなさい)

そもそも、どんな勉強も私にとっては難しい。
それに「難しいからやめなよ」という人は「おまえには難しいよ」と暗に私を見下してる。私に難しいのは間違いない。でも、私は難易度で勉強を選んでないし、今まで学んできたことは人に言われてやってきたことじゃない。自分で選びとってきたものだから、私の『勉強』に関する抱負の断片だけを聞いてきて、勝手な助言をするのはまさに『理性』が足りない。乱暴な助言は理性の足りない人間がするものなんだ、きっと。

私はメンヘラなので『曲解』も得意。
そういう視点で見れば「難しいからやめなよ」と言う人にとって『生きること』って容易いことなのだろうか?私にそう言ってきた人たちは総じて「仕事辛い」「つまらない」「さみしい」「何か面白いことないかな」が口癖だった。「早死にして構わない」と言う人もいた。
その人たちはなぜ、生きるのを難しいと認識しているのにやめないのだろうか。
私に「難しいからやめろ」というならその人たちは「生きるの難しいから死ぬ」ということにはならないだろうか。
ちなみに私も、生きるのは難しいと思ってる。でも、楽しい。
私、楽しいのに、生きるのやめないとダメ?難しいからってそんなことできる?今の私には、それはできない。

人に「難しいからやめなよ」と言うのって、いったいどんなメリットがあって発されているんだろう。他者の挑戦がどの程度の難易度であろうと、自分には関係ないのに「やめなよ」と言う人ってどういう考え方なのだろう。
わりと時間をかけて説得してくる人もいる。そう言う人にとって私に説教をする自分は正義のヒーローやまともな大人や、そういう類の良い存在であるとおもっているに違いない。だって、人を止めるのってすごい手間だもん。その手間を惜しんで赤の他人の私をとめるということは、自分を正当化して気持ちよくなるというメリットがなければ出来ないと思う。
私はその説教を聞かされている瞬間も哲学のまとめ作業をすすめたいし、法律について学ぶ楽しみは減ってない。ただ、その発言のせいで不快な気持ちと時間の無駄と、その発言の経緯に関する疑問が少しわいただけ。
いったいどうして『良いこと』のように「難しいからやめなよ」と言えたのか。

自分の気持ちよさのためだけに人の楽しみを邪魔したり、奪おうとするのって、やっぱり理性が足りない。

まとめ

気持ちよくなることと引き換えに「理性が足りない」と判断されるのはベッドの上だけでありたいと私は思う。

これからも勉強をたのしみながら、自分のふるまいについて考えていきたいです。

私も理性が足りないほうなので
そういうわけのわからないこと、言っているんだろうな・・・
人への反感だけはよく覚えていて根に持つんだよなあ・・・
というわけで自分も気をつけようとおもいました。


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