【社長偉人伝】大転換時代を生き抜いた渋沢栄一の”尻軽”人生
おはこんばんちは~٩(ˊロˋ*)و
社長勇退ドットコムのイソムラタカシでございます。
2024年7月、新紙幣が発行され、お札の顔が一新されました。福沢諭吉さんに代わって登場したのは、「#日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一さんです。
なんとも渋い人選ですよね!鎖国・幕府の腐敗・強固な身分制度という三重苦のせいで、欧米列強から遅れをとっていた日本を、たった半世紀で近代国家へと押し上げた渋沢さん。
NHK大河ドラマ「#青天を衝け」でも描かれていましたが、渋沢さんの人生は、実に奇想天外です。一見、”尻軽”とも思えるありえないキャリアチェンジを次々と繰り返しているのです。その人生を紐解いていくと、驚くべき変遷と深い思想に出会うことになりますよ。
さて今回は、稀代の尻軽男「#渋沢栄一」について、探っていきたいと思います(๑•̀ㅂ•́)و✧
起:農民の少年から倒幕の志士へ
1840年、渋沢さんは埼玉の豪農の家に生まれました。経済的に不自由ではありませんが、かと言って、決して平坦なものではありませんでした。16歳の時、渋沢さんは人生を大きく変える出来事に遭遇します。
それは、悪代官による不当な追加徴税。この出来事は、若き渋沢さんの心に深い傷を残しました。「なぜ、きちんと税金を納めているのに、さらに搾取されなければならないのか?」。この疑問が、渋沢さんの心の中で沸々と燃え上がり、反骨精神の火種となっていったのです。
想像してみてください。ある日突然、政府のお役人が「娘の結婚式があるから」と言って、追加で税金を取り立てに来たら、いかがでしょうか。普通に、腹が立ちますよね!怒りや無力感、そして社会への不信感。若き渋沢さんの胸中は、まさにそんな感情で満ちていたと思います。
この経験が、渋沢さんを「#倒幕の志士」へと駆り立てることになります。渋沢さんが23歳の時、外国人居留地を焼き払う計画まで立てるほどの過激派となっていました。しかし、ここで渋沢さんの人生に、思わぬ転機が訪れるのです。
承:幕臣への転身と西洋との出会い
驚くべきことに、渋沢さんは幕府の中心人物である一橋慶喜公に仕えることになります。さすが、稀代の尻軽男です。攘夷思想に燃えていた青年が、なぜ敵対していた幕府の側にキャリアチェンジすることになったのでしょうか。
これこそが、渋沢さんの持つ驚くべき能力、柔軟性と洞察力の表れです。渋沢さんは「農民ではダメだ!」「武士にならなければ、世の中は変えられない!」と冷静に判断し、自らの立場を大胆にチェンジしていったのです。
例えば、あなたが同じ立場に立った時、自分の信念と反する立場に身を置くことができるでしょうか?周囲の人が「#裏切り者」と罵るかもしれません。思わず、尻込みしてしまうような状況です。しかし、渋沢さんはより大きな目標のために、自分の立場を柔軟に変える勇気を持っていたのです。
この転身により、渋沢さんはパリ万博の視察という、当時の日本人にとっては夢のような経験をすることになります。西洋の進んだ技術と文化に触れた渋沢さんは、さらに大きく開眼していったのです。
転:明治維新と新たな挑戦
1868年(明治元年)、時代は大きく動き、明治維新が起こります。260年も続いた江戸幕府は終焉を迎えました。ここでも、渋沢さんは驚くべきキャリアチェンジをします。かつての主君である第15代将軍徳川慶喜を打倒した新政府に仕えるのです。
一見すると、「#節操のない行動」に見えるかもしれません。しかし、渋沢さんの心の中には常に「日本を強く豊かな国に発展させたい!」という強い思いがありました。時代の流れを読んだ渋沢さんは、常にその時々で最適な選択をしていったのです。
大きな目標を掲げ実践しているあなたも、この先きっと「#人生の岐路」に立たされることがあるでしょう。その時、自分の信念を貫くべきか、それとも現実に適応すべきか。大いに悩まされることがあると思います。渋沢さんの生き方は、そんな私たちに大きなヒントを与えてくれますね。
結:「論語と算盤」の哲学と現代への示唆
渋沢さんが残した最大の功績は、政府を退官した後の実業家としての活動です。渋沢さんは、500社近くの会社の設立に関わっています。まさに、「#日本資本主義の父」と呼ぶにふさわしい働きです。
こんな偉業もさることながら、渋沢さんの真の偉大さは、その経営哲学にあります。76歳で著した「#論語と算盤」には、現代にも通じる深い洞察が込められています。
この言葉には、渋沢さんの絶妙なバランス感覚が表れています。ロマン(論語)とソロバン(算盤)は、一見相反するものに見えます。しかし、渋沢さんはこの二つが密接に結びついていることを強く主張したのです。
渋沢さんの哲学は、現代のビジネスパーソンにも大きな気づきを与えてくれます。最近、SDGsやサステナビリティという言葉をよく耳にします。しかし、この概念は決して新しいものではありません。
渋沢さんは、今から100年以上も前に、「#持続可能な社会」や「#利他の大切さ」を実践していたのです。
◎渋沢栄一と岩崎弥太郎との経営スタイルの比較
渋沢さんの哲学は、三菱財閥を築き上げた岩崎弥太郎さんと比較するとよくわかります。すべての権力を自分に集中させる岩崎さんに対して、多くの人で資金を出し合い、利益を分配する「合本(がっぽん)主義」を用いた渋沢さん。西洋で学んだこの考え方で、新たな日本の未来を思い描いたのでした。
結果として、渋沢さんは生涯のうちに約500社もの企業を興し、近代日本の発展に力を尽くしました。現存している企業は167 社、そのうち上場企業は99 社と過半数を占めています。百年企業がこんなにも残っているなんて、本当に凄いことだと思います。
ちなみに、渋沢さんは1878年(明治11年)に、東京証券取引所の前身である東京株式取引所を設立。広く株式を売買できる市場を作り、日本の近代化に大きく貢献しました。
渋沢さんは、ソロバンをもってロマンを実現できるという「道徳経済合一主義」を身をもって証明してみせたのです。
終:渋沢栄一に学ぶ 大転換期の生き方
私たちは今、大きな時代の転換期にいます。新型コロナウイルスの流行は、私たちの生活様式を大きく変えてしまいました。生成AIの技術の発展は、仕事のあり方を根本から変えようとしています。
混沌としているこんな時代だからこそ、「渋沢栄一の生き方」から学ぶべきことがあります。
柔軟性を持つこと:渋沢さんは農民から志士、幕臣、そして実業家へと、時代とともに自らの立場を柔軟に変えていきました。私たちも、固定観念にとらわれず、変化を恐れない勇気を持つことが大切です。
大局観を持つこと:渋沢さんは常に「日本のため」という大きな視点を持っていました。私たちも、目の前の利益だけでなく、より大きな視点で物事を捉える力を養う必要があります。
ロマンとソロバンのバランスを取ること:渋沢さんの「論語と算盤」の哲学は、現代のビジネスにも通じるものです。利益を追求しつつも、社会的責任を忘れない。そんなバランス感覚が、これからの時代には求められています。
渋沢栄一。彼の名前と顔は、これから長く私たちの財布の中に存在することになります。一万円札を手に取るたび、その思想と生き方に思いを馳せ、自分の人生とリンクさせてみてはいかがでしょうか。
渋沢栄一の生き様は、私たちに大きな勇気と希望を与え、人生の岐路において新たな視点をもたらしてくれることでしょう。
〈勇退川柳〉
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「転換期 尻軽こそが 生きる道!」
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