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vol.1 A面: 映画の誕生とHollywood、野心的な4人の兄弟集団「ワーナー・ブラザース」

MY NOTE RULES

1. “noteを書こうとPCを開いたその日付” に関連する出来事をランダムにピックアップし、それについて綴っていく。

2. カセットテープのようにA面・B面(前編・後編)に分けた二部制スタイルで投稿する。

前回定めたルールより

Today is…
4月4日は、グレゴリオ暦で年始から94日目(閏年では95日目)にあたり、年末まであと271日ある。

できごと
1923年4月4日 - ハリー、アルバート、サム、ジャックのワーナー4兄弟がワーナー・ブラザースを設立。


1923年4月4日 - ハリー、アルバート、サム、ジャックのワーナー4兄弟がワーナー・ブラザースを設立

知らない人はほぼいないと言っても過言ではない、ロゴを見ればすぐピンとくるワーナー・ブラザーズ、通称WB。アメリカ・カリフォルニア州バーバンクに本社を置く、アメリカの多国籍マスメディアとエンターテインメントの複合企業である。

ワーナー・ブラザーズといえば小さい頃、10分ほどある予告編の上映が終わり、スクリーンにWBのロゴがバーンと登場するのを見ると「いよいよ始まるぞ…!」という気持ちになりとてもワクワクしたものだ。
というわけで、今日4月4日はこのワーナー・ブラザーズの設立話に焦点を当てていきたい。

オープニングでお馴染みの現行のワーナーロゴ
ワーナーロゴの変遷。
9thロゴは映画「JOKER」の冒頭に出たことでも有名

野心を抱き、映画の道を突き進んだワーナー兄弟

ー ハリウッドの礎はユダヤ系移民によって築かれた

今や「映画の都」であり、すべての映画人が目標とする夢の土地・Hollywood。映画を作る街として20世紀に誕生した人口の街である。

誰もが一度は目にしたことのあるハリウッドの看板


日本ではユニバーサル・スタジオ:ジャパンでもお馴染みの「Universal」、山のロゴが可愛い「Paramount」、『或る夜の出来事』で窮地を脱した「Columbia」、そしてロゴがスクリーンに映るとWBと同じくらいテンションが上がる「20th Century-Fox」など、ハリウッドの礎を築いた老舗映画会社の多くはユダヤ系移民によって作られたものだった。

パラマウントの山ロゴ。
元のロゴには☆が24個あったという
パラマウントロゴの変遷。確かに初期は☆が24個ある
20世紀フォックス:サーチライトのロゴ

ー 靴修理屋を手伝いながら、兄弟で夢見た映画の世界

1880年から1924年にかけて、ロシア及び東欧諸国ではポグロムと呼ばれるユダヤ系に対する迫害が盛んに行われ、数百万人ものユダヤ系がアメリカに逃れてきた。その多くは東部に定住し、低賃金の肉体労働に従事していた。

ハリー、アルバート、サム、ジャックのワーナー4兄弟も、まさにポーランドから来た東欧系ユダヤ人移民労働者であったが、彼らには人一倍の野心があった。19世紀末、両親とともにドイツ・ハンブルクを経て、アメリカ大陸に渡りカナダのオンタリオ州ロンドンに移住。貧困の中、8人の兄弟姉妹が父の経営する靴修理屋を手伝いながら生活していたという。貧困ながらも好奇心旺盛だった兄弟たち。長男のハリー(1881-1958)は20世紀初頭の映画創生時、映画の魅力に取り憑かれ映写技師になった。

1903年には兄弟たちと興行会社を組み、歌手を志していたジャックのパフォーマンス付きで映画興行業を開始。劇場をオープンしたり配給会社を設立するなどして軌道に乗り始め、のちのハリウッド進出へと繋がっていく。

ワーナー・ブラザーズ設立に携わった4人の兄弟

■映画の誕生/ハリウッドがカリフォルニアに建設された理由

ー フランスの「シネマトグラフ」、アメリカの「キネトスコープ」

ハリウッドがカリフォルニアに建設された理由は、映画誕生の歴史へと遡る。映画誕生の日とされている1895年12月28日、フランス・パリではリュミエール兄弟が映画の原形ともいうべき「シネマトグラフ」を発明し、パリのカフェで映画の上映会を開催。その同時代、アメリカではトーマス・エジソンが小さな穴から動画をのぞく ”動く映像” の装置「キネトスコープ」を発明。徐々にアメリカでも小さな映画館が出来始め、野心を持ったユダヤ系の人々が映画ビジネスへ参入し始める。

シネマトグラフ(右側の装置)で映写をしている様子
エジソンが発明した「キネトスコープ」

ー 両国の価値観の違いが生んだ、映画産業の”明と暗”

リュミエール兄弟は発明家であると同時に写真乾板製造工場の持ち主でもあり、精神的にも起業家的な側面を持っていた。フランスをはじめとしてヨーロッパは、演劇やオペラなど劇場を中心とした文化が元々強く根付いていたため、劇場で大勢の観客の前で上映するのはごく自然な発想だったともいえる。

しかし、さすが芸術大国フランス。リュミエール兄弟は映画を「産業品」として捉えるのではなく、手作りの「工芸品」として捉える傾向にあった。安価なコストで大量に作って利益を得る、いわば大量生産的な発想を持ち合わせていなかったため、それによって市場規模が急速に拡大するということはなかったのである。

一方、アメリカにおけるユダヤ系移民の急激な増加は、それだけでも映画の市場拡大につながったが、世界各国からやってきた異なる言語を話す移民たちにとって、映画=「動く映像」というわかりやすい娯楽が需要と供給のバランスにドンピシャだったのだろう。こうして、ヨーロッパのように芸術という伝統文化を持たない寄せ集め民族集団のアメリカでは、誰もが楽しめる共通の娯楽として映画が広まっていき、その更なる発展のために映画業界の再構築が求められていったのだった。

ー ユダヤ系映画会社「ワーナー・ブラザーズ」の台頭

しかし、アメリカにもユダヤ系への差別は存在していた。東部でユダヤ系映画会社の締め出しが行われた結果、大陸を横断して南カリフォルニアに移動するユダヤ系映画会社が相次いで出てきた。その中の一つがまさに今回テーマに掲げた「ワーナー・ブラザーズ」なのだ。

ー トーマス・エジソンによる大打撃 業界撤退の危機

しかし1908年、かの有名な発明王トーマス・エジソンが、映画配給を独占するトラスト「MPPC(Motion Picture Patents Company)」(別名エジソン・トラスト)を設立したことで映画館は大きな打撃を受ける。

MPPCの当時のロゴ。いかにも悪そうで笑う

エジソンは保有する多数の映画関係の特許を盾にし、新会社の映画製作を妨害。トラスト参加各社の作る映画を上映する度に映画館から料金を徴収した。そしてそれに対抗していたのが、ユダヤ系のプロデューサーを中心としたインディペンデント系映画会社たちのグループだった。トラストの圧力によって多くの映画業者が配給網を絶たれ、ワーナー・ブラザーズも一度は業界から手を引くことになる。

インディペンデントとトラストの対立を描いた
とてもわかりやすい風刺画

ー ニューヨークからカリフォルニアへ!逃げ逃げ大作戦

そんな状況から脱するために考えられた方法が、ニューヨークを遥かに離れた土地、西部カリフォルニアへの移住だった。当時の首都・ロサンゼルスの人口はわずか1万人。しかし1年のうち350日は晴れるという気候条件は映画を撮るには最適で、人件費も大幅に安く抑えられたことから1918年の第一次世界大戦終了時には、世界で製作されている映画の80%近くがハリウッド製になっていたという。

1922年頃のハリウッドのスタジオ群

ワーナー・ブラザーズはというと、ハリーたちは資金調達や配給のためにニューヨークに留まったが、サムとジャックは映画製作の現場を指揮するためハリウッドへと旅立ち、1918年にハリウッドに映画スタジオを構えた。そして1923年4月4日、ワーナー兄弟はワーナー・ブラザース・ピクチャーズを会社登記し、「ワーナーブラザーズ・スタジオ」として正式に設立。同年7月13日にはハリウッドの顔とも言えるあの「HOLLYWOOD」の看板が設置されたのである。

ニューヨークに設立されたワーナーズ・シアター
(1926年)
ワーナー・ブラザーズの初期ロゴ
(1923-1925)
ワーナー映画の予告編に登場する
ハリウッドのワーナースタジオ(1936年)


今からちょうど100年前の今日、ワーナー・ブラザーズがこの世に誕生し、100年経った今も私たちの映画体験を豊かに支えてくれていることに感謝しつつ、100周年という素晴らしい節目に立ち会えたことを喜び、心から祝福を送りたい。

B面では、好きなワーナー作品をピックアップし、一言コメントを入れていく形式でやれたらと思っている。先ほど一覧化したリストにザッと目を通してみたが、「え、これ配給ワーナーだったの?」という作品が結構あったので面白い試みかもしれない。


B面へ続く


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