見出し画像

「真実はいつもひとつ」とは限らない。

数年前から特にですが、
世の中の情報の何が正しくて何がフェイクなのか
わからなくなってきています。
みなさんはそんなことないですか?

コミュニケーションや情報伝達の仕事をしてることもあり
情報に関しては慎重になるのですが、
よくよく考えれば、情報や印象はコントロールできる
そんな気すらしています。

例えば、数年前からマスコミ各所で報道の
コロナ関連のニュース。
不確かな情報、不安定な状況であったのは理解できますが、
やはりそこでむやみに煽ったり、騒ぎ立てる報道があったり
逆に、陰謀論的なものも出てきていて、
ワクチンに対しても、賛成反対、
しかもその賛成の意見もさまざまで、
反対の意見も様々です。

そして、今色々がわかってきて
「どうやら、あの時のあの情報は間違っていたのかも」
という感じも受けるのですが、
そこはうまいこと、その当時名言を避けていたからか
「間違い」とは言わない風潮にあります。

また、今はロシアとウクライナの関連。
いろんな見方はあるのだと思いますが、
片方はもう片方をフェイクだと言います。

情報を扱う仕事をしているからなんとなくわかるのですが、
フェイクは簡単に真実になる。とも思うのです。

一瞬でいいので
自分自身の価値観をわざと逆側に振ってみてください。
思いのほか、これまで敵と見なしていた側の意見も
フラットにみた時に間違いだとはなかなか言えない。
そんな気になりませんでしょうか?


仮に相手のことを考えること
相手のことを認めることを多様性というのなら、
こういう事態の多様性というのは、
平和につながる考え方であると同時に
正しさが見つかりにくくなるような気さえしますね。

さて、先ほどの「フェイクは真実になる」という言葉。

名探偵コナンは「真実はいつもひとつ」と言いますが、
果たしてそうでしょうか?
「フェイクが真実になる」のが情報戦であり、
いやそもそも情報とはそういうものなのかも
しれません。

ちょっと最近、真実はどうでもいいような
気がしてきました。
だって、フェイクな真実かもしれないんだもの。

今僕が本当に知りたいのは事実かもしれません。
事実は起こったこと、起こっていることの本当です。
まぎれもないものです。

真実はもしかしたら、目をくらませたり
真実はもしかしたら、思考停止を招くのかもしれません。

僕らは考えなければならない。

思考停止をさけるためには、事実を求め
そして事実から学び、考え、行動する
ということが一番なのでしょう。

今全人類発信ができる時代。

真実を伝えているものよりも
事実を伝えているもののほうが真実味があるような
気がしています。

もし気に入ってもらえたら嬉しいです。情報の発信とコミュニケーションについていろんなチャレンジをしていきます。どうぞよろしくお願いします!