小説 食べる夜 鬼之庄で
「食べる夜、っていう意味なんだって」
妻の夜香は、少し恥ずかしそうにクスッと笑って言った。
「24年に一度の、うちの村のお祭り、セックイエーっていうの。変な名前でしょ」
夜香の故郷は、中部地方の山深い奥地にある。鉄道からも高速道路からもとてつもなく遠く、ヤワな車では上るのに苦労する山道を延々と走らないとたどり着けないらしい。両側にそびえる山の斜面の角度がおかしいんじゃないかと感じるほどの急な谷あいを抜け、峠をいくつも越えるそうだ。もちろん観光客なんてほとんど来ない、まぎれもない秘境だ。
僕らが住む東京から行くとなると、途中で1泊しないと厳しい。あまりにも時間的距離が遠いのと、夜香のご両親と祖父はすでに他界し、膝を痛めた祖母しか実家にいないのと、例のコロナ禍とで、結婚の挨拶にも行っていない。僕の方も、両親も祖父母もすでにおらず、親戚とも疎遠で、両家顔合わせなどの必要も感じない状況だった。
ようやくコロナも僕らの仕事も落ち着いてきたタイミングで、ちょうどセックイエーが24年ぶりに行われることになり、いい機会なので2人で結婚の挨拶をしに夜香の実家を訪ねることになったのだった。
夜香とは、イラストレーターのSNSコミュニティのオフ会で出会った。僕らフリーランスのイラストレーターは、うっかりするととても孤独になってしまう。製作は基本的に1人でパソコンに向かって作業するし、クライアントとのやり取りもメールかオンライン会議でたいてい用が済む。誰ともリアルに話さずに1週間を過ごすなんてざらだ。
そこで、立場が弱いフリーランスの零細業者どうし、つながって情報交換や交流の場を持とうじゃないか、そして声帯を使おうじゃないか、という趣旨の飲み会を、ときどき開催している。
なのに夜香も僕も人見知りする方で、盛り上がりの輪に入りきれずにテーブルの端と端で「ぼっち」になっていた。
やることがなく、ひたすら皿に残った料理を平らげていた僕を見て、夜香がクスッと笑ったのが始まりだった。
目があったとき、夜香は白い肌にお酒でほんのり目元が赤らんで、艶やかな黒いストレートのロングヘアーの影になった切れ長の目がルビーのように赤く輝いたように見えて、僕は目を離せなくなってしまった。
その日はそれで終わったけれど、それから何度か、気分転換に訪れたファミレスでふと隣のボックス席を見ると夜香がタブレットでラフ画を描いていたり、ターミナル駅で乗り換えの暇を潰そうと書店に入ったら夜香が発売されたばかりのコミックを手にとって真剣な顔で立ち尽くしていたりと、偶然の出会いがあって、いつの間にか結婚まで至った。
夜香が「秘境」の出身だというのは、結婚間際に初めて聞いた。
「秘境も秘境、本当に今どきそんな村あるのかっていうくらい秘境なの」と、夜香は顔を赤らめた。「壬申の乱とか、平家とか、南北朝とか、もう思い付く限りの落人伝説がてんこ盛りで。うちなんて、先祖をたどると古墳時代の渡来人なんだって。ウケるよね」
行政区の名前とは別に、地元の人たちが集落を呼ぶ名前は「鬼之庄」。落人伝説がある地域では、よそ者を嫌うため「鬼」の名前を地名にすることがあるそうだ。鬼之庄も、つい数十年前まで他の地域との接触を極端に絶ってきたのだという。読み方は「おにのしょう」か「きのしょう」かと思ったら、文字に起こすのが極めて難しい謎の発音だった。様々な地方から隠れ住むためにやってきた人たちの言葉が混ざって、独特の方言が生まれたようだ。しいて言えば「へんのじゅわ」……いや、何か違う。やはり文字にするのは限界がある。
「私が東京でデザインを勉強したのなんて、村始まって以来じゃないかな。東京に来た最初は、標準語を話しているつもりなのに、私の言ってることを誰も聞き取ってくれなくて、訛りを直すのが本当に大変だった」
夜香の作品が、どこかミステリアスで、かわいい中にも闇を感じさせるのがうまいのは、隔絶された秘境の雰囲気がにじみ出ているためかもしれない。僕は、夜香の作品のそういうところがとても好きだ。
夜香は、物欲がほとんどないけれど、こだわりが強い。婚約指輪はダイヤでなくルビーがいいと強く主張した。「赤い石は、うちの一族のお守りなの」だそうだ。それだけでなく、とにかくルビーが大好きなんだろう。
「ルビーはサファイアと同じ種類の石だけど、本当に赤い石だけがルビーになれるの。ちょっとでも赤が薄いとピンクサファイアになっちゃう。最高に質がいいルビーはピジョンブラッド、鳩の血の色って言われて、暗めの赤の澄んだ輝きがたまらないの。あ、でももちろん、ピジョンブラッドなんて私たちが買える値段じゃないから、普通のでいいよ。でもピンクサファイアでなくルビー、絶対ルビー」
頬を赤く染めて、珍しく身振り手振りを交えつつ、ものすごい早口で語られた。僕はジュエリーショップの店員に、少ない予算で限りなく質がいいルビーが欲しいとわがままを言って困らせた。
指輪を渡したときの夜香の嬉しそうな顔ときたら、子供のようだった。薬指に嵌めて、レストランの照明にかざして、うっとりとキラキラ輝くルビーを見つめるうちに、目元に赤みがさしてきて、瞳の色までルビーに近づいたように見えた。僕は、そんな夜香に見とれて、自分のほほが赤くなるのを感じた。
物欲だけでなく、食欲も夜香はない。料理は得意で、仕事がテンパってない夜は、まるで和食のコースみたいな夕食を作ってくれる。でも、前菜、椀もの、煮物、焼き物と、次々に出来立てを運んでくれて、夜香自身はほとんど食べない。
「自分が食べるより、おいしいおいしいって豪快に食べてくれるのを見る方がずっと好き」なのだそうで、最初は僕も気を使ってしまったが、次第に慣れて遠慮なく豪快な食べっぷりを披露するようになった。そもそも最初に飲み会で僕を見ていたのは、ワシワシとすごいスピードで平らげる僕の様子がツボにはまったかららしい。
「私はどっちかっていうと、食べるより飲む方でカロリー取ってるかも」と、酒はクイクイ飲む。食事は和食派なのに、アルコールはなぜか赤ワイン好きだ。つくづく、赤が好きなのだろう。そこで、誕生日に、赤い江戸切子のグラスをプレゼントしたら、泣いて喜んでくれた。
さて、セックイエーの里帰り。一泊した名古屋で、山道に強い4WDのレンタカーを借り、朝イチで出発して、僕らは夜香の故郷の鬼之庄を目指す。高速道路のインターを下り、幹線道路を外れるあたりから、運転は夜香に任せた。「ナビとか当てにならないし、地元民じゃないと危ない道もあるから」と、ハンドルを握った夜香の運転は頼もしかった。確かに、ガードレールもなく対向車が来たら僕ならどうにもならないような道の連続で、道に流れる水を渡る「洗い越し」なんかもたびたびあり、知らないと怖い。
道路の舗装がなくなってから2時間ほど走って、ようやく、集落が見えてきた。昔話から抜け出してきたかのような藁葺き屋根の平屋ばかりだ。それでもスマホの電波は通じている。
「集落は電波届くけど、Wi-Fiはないから。あと、祭りのメインイベントで上るお山は、マジで電波ないから、気をつけてね」と、夜香は笑って説明する。
集落の入り口の駐車場……というか空き地に、夜香は車を止めた。「やっと着いた~。長旅お疲れ様」と、太陽みたいに明るい笑顔になった。僕は、車から降り、力一杯伸びをして、凝り固まった背中や腰をほぐした。いや遠かった。もう日が沈む。
夜香の実家は、集落でもひときわ大きなかやぶき屋根の建物だった。足の悪いおばあさまが玄関で出迎えてくれ、立派な囲炉裏の傍らに席を用意してくれた。見上げると、とてつもなく太い梁から堅牢な鎖で、囲炉裏にかかった大鍋がつられている。こんな風景がまだ現役で残っているとは。暗い部屋を照らす囲炉裏の赤い炭火の光。磨きこまれた床板の黒い輝き。イラストレーターの感性がびんびんに研ぎ澄まされる。
集落の若者たちが、おばあ様を助けて料理や配膳に立ち働いている。彼らと懐かし気に話す夜香の言葉は、残念ながらまったく聞き取れない。おばあ様は標準語で話してくださるが、かなり訛りが強いため、夜香の通訳が必要だった。
その日の朝、山でとれたイノシシと山菜を煮た鍋は、集落で作られる味噌の味が染みてたいそうおいしかった。僕の食べっぷりに、囲炉裏を囲んだ全員が目を輝かせて笑顔になった。
翌日はセックイエーの初日で、夜明けとともに起こされた。夜香の夫として、集落の若者衆とともに祭りに参加するのだ。セックイエーの舞台になる「お山」は、いつもは禁足の地で、信仰の対象になっている。夜香によると「誰だかもうわからないけど、すごく昔の偉い人のお墓があるとか聞いたことがある」そうだ。まあ、どちらかといえば山岳信仰の一種なのではないかと僕は思った。
よく研いだ日本刀のような鉈を渡され、集落の北東にある「お山」に祭りのための道を切り開く。スタート地点は、集落の端の神社だ。本殿の裏が「お山」への入り口となっている。神主のお祓いを受け、鉈を持って歌いながら山を登る。あ~~の~~す~も~~りよ~~~……意味は全く分からないが、「お山」の神に赦しを乞う歌らしい。僕もとぎれとぎれに唱和して、鉈で下映えの藪を払って道を切り開く。この作業を山頂まで続ける。
しかし、悲しいかな、都会育ちの軟弱さで、昼前には動けなくなり、僕はリタイアした。夜香の家の囲炉裏端で横になると、おばあ様が(たぶん)ねぎらいの言葉をかけてくれ、うちわであおいでくれた。爆睡して目が覚めたら、もう囲炉裏に鍋が沸いていた。
日が落ちて、夜香が僕を外に連れ出す。集落の家々には、暗い赤に塗られたランタンが掲げられ、ろうそくの火で赤い輝きがゆらめいている。子供たちがきゃあきゃあ叫びながら花火を振り回して走り回る。集落の中心の広場には火がたかれ、老人たちが祝詞のような歌を歌いながら、墨で不思議な模様を描いた赤い紙を次々と投げ入れる。街灯など一つもない闇の中で、炎の赤い輝きが、集落を妖しく照らし出す。
ここは今、僕が知っている日本じゃない。いや、もしかすると、この光景こそが日本であって、僕が知っている日本が異形の姿なのかもしれない。
「明日は祭りの本番よ。24年ぶりだから、みんな張り切ってる。あなたも大切な役割があるから、頑張ってね」と、夜香が耳元でささやく。
「大切な役割って、何だろう? 僕みたいに何も知らない人間にもできること?」と聞くと、夜香はにっこり笑って僕のほほをなでた。
「もちろんよ。全然難しくないから大丈夫。新しく私たちの集落に来てくれたあなたを、神様に紹介する儀式よ。今回のセックイエーは、あなたが主役なの」
夜香の甘い香りが僕を包む。瞳が焚火に照らされて、またルビーのように赤くゆらめく。黒髪がつややかに輝き、白い肌は闇の中でも明るい。この幻想的な夜の中で、夜香は本来の姿に戻りつつある……そんな気がして、妖しい美しさに僕は見とれた。
翌日、僕は、「お山」のふもとに連れていかれ、しめ縄が張られた小さな滝つぼで身を清めることになった。今晩、神様にご挨拶をするためだ。夜香が白い単衣の着物姿で、僕の体を白い麻布で丁寧にぬぐってくれる。周囲では村の若い男衆が、手を合わせて祝詞を歌い上げる。大勢の前で裸になるのは抵抗があったが、荘厳な雰囲気の中で、いつしか気にならなくなった。
日が落ちるころ、早めの食事が用意された。またも鍋だが、今回は「お山」で採れた神聖なキノコや山菜が主役だ。僕は神様にご挨拶をするため特別な塗りの椀いっぱいに取り分けられた、見たこともない大きなキノコと山菜をゆっくりと味わった……つもりだが、おいしくて、またいつものようにワシワシと大食漢ぶりを発揮してしまった。
お腹がいっぱいになって、眠くなる。おばあさまがにこにこと何か言葉をかけてくれ、夜香が「本番は夜だから、ひと眠りしておいでって」と通訳してくれた。ありがたく受け入れて、隣の部屋に夜香が敷いてくれた布団に横たわると、一瞬で寝落ちした。
あ~~~の~~す~~も~~りよ~~~………神に赦しを乞う歌が聞こえる。遠く、近く、大勢の人が唱和している。
闇に沈んだ世界に、暗赤色のランタンが揺らめき、浮き上がり、ゆらりゆらりと漂う。ろうそくの炎が揺れる。闇の中で、赤い光が尾を引いて、ゆらゆらと………
夢から覚めると、傍らに、白い着物をまとった夜香が立っていた。手に掲げた暗赤色のランタンが白い顔を照らす。
いや、これは夜香なのだろうか。いつもの屈託のない笑顔じゃない。切れ長の目が鳩の血のようなルビー色にきらめいている。白い肌に、赤い唇のつややかさがなまめかしい。唇は三日月のように弧を描いて、妖しい微笑をたたえている。
黒いつややかな髪の間から、額に小さな角のようなものが突き出しているのが見えた。祭りの装束だろうか?
横たわった僕と、立っている夜香の周囲を、集落の人たちが祝詞を唱えながらゆっくりと円を描いて歩いている。みな白い着物をまとい、手にはよく研いだ鉈を掲げ、額に角をつけている。祝詞はときに高くなり、また低く沈み、途切れることなく続く。
僕は慌てて起き上がり「夜香、僕、寝過ごしたかな」と言いかけ……気づいた。
体が動かない。しゃべったつもりなのに口も動かなかった。体中、どこにも感覚がない。横たわっているのが布団なのか、あるいは違うのか、それすらわからない。
夜香が僕に顔を寄せてささやいた。「立派にお務めを果たしてくれて、ありがとう。素晴らしいセックイエーになるわ。みんな、あなたを楽しみにしている」
血のように赤く輝く夜香の瞳から、僕は目を離せない。ランタンに照らされているからじゃない。夜香の瞳そのものが、赤いのだ。
ほほ笑んだ赤い唇から、小さな牙のようなものがみえる。夜香は八重歯だったっけ? そんな記憶はないが……それに、その角は、自然に生えているように見えるけれど、どんな特殊メイクなんだい? いろいろ聞きたいのに、僕の口はぴくりとも動かない。
祝詞がひときわ高まると、僕の手足が徐々に上に差し伸べられた。僕の意志じゃない。勝手に持ち上げられていく……
いや、釣り上げられていく。手首と足首に鉄の輪がはめられ、鎖でつられているのがわかった。闇夜に沈んで見えなかったが、僕の真上に頑丈そうな木の棒が渡してあり、僕はそれに向かって釣り上げられていくのだ。どうやら僕は何も身にまとっていない。
首に力が入らないので、がくっと仰向けになり、世界が上下逆になる。
夜香が、一歩、僕に近づく。右手に何か握っている。
見事な細工を施した黄金の柄を、夜香の白い手が包んでいる。柄から伸びるのは、白銀に輝く一筋の………
アイスピックのような太く鋭い針だ。
祝詞がさらに高まる。
夜香は、優雅にアイスピックを構え、僕の首に側面を当てた。冷たい滑らかな感触が、ゆっくりと首を撫でていく。
夜香、何をしているんだい。これじゃ、まるで……
夜香が僕の耳に唇を寄せた。甘い香りが僕を包む。僕の大好きな夜香の香りだ。
「安心して。苦しませると、肉の味が落ちるから、一瞬で終わらせるわ。24年ぶりの食事ですもの、血の一滴だって無駄にしない。大切に味わうわ」
夜香が何を言っているのか、僕にはさっぱりわからない。首をゆっくりと這う、金属の冷たさ。
夜香の額の角が、桃色にそまり、白い肌にとても映えてなまめかしい。
鬼之庄………ここは本当に、落人伝説の村なのだろうか。
食が細い夜香。赤ワインが好きな夜香。鳩の血の色のルビーが好きな夜香。
血の色の瞳を持つ夜香。額に角を抱く夜香。
僕の大好きな夜香。
君は一体、何者なんだ。
セックイエー……「食べる夜」の祭り……その主役である僕の大切な役割は……
首を、ちくりと何か鋭利なものがつつく。
夜香が、血の色の瞳で僕を見つめ、甘い声で囁く。
「愛してるわ」
次の瞬間、首に強烈な衝撃が走った。
目の前に、赤い閃光が走って、ぼくは
(完)
今週も #シロクマ文芸部 に参加させていただきました!
今回は、ホラー展開に挑戦してみました! 最後まで読んでくださった皆様、ありがとうございます!
小牧さま、今回も素敵な言葉をありがとうございます! 楽しかったです!
往生際が悪い性分なので宣伝しますが、 #創作大賞2023 に参加しています。夢がない香奈恵ちゃんが、ミステリー風味の事件に巻き込まれ、自分の殻を破っていく、肩の凝らないお話です。よろしかったらこちらも読んでみてくださいませ。
↓↓↓
タイトル画像はcarlos様によるPixabayからの画像を使わせていただいております。ありがとうございます!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?