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ベーシックインカムを望む理由

不機嫌な人が減ると思うから。
ベーシックインカムを望む理由は一つしかない。

1.機嫌の悪い社会だと疲れる

この社会で生活していると、本当に余裕のある人が少ないと思う。なぜ余裕がないのか考える。

平日の朝の東京。大手町駅を降りてオフィス街に向かう人は、苛立ちをむき出しにしているし、会社についても、他人のミスを必要以上に責めたり、たいして忙しくもないのにやたらセカセカしている人がいる。

場面は変わって昼休み。ここでも、レストランで会計がちょっとでももたつくと貧乏ゆすりをする人がいる。

午後はどうだろう。銀行の窓口に行くとクレームを声高に撒き散らす人が数人。窓口の奥にいる人も上司に叱責されている。

夕方。今日は金曜日。明日のことを考えず土日を迎えるワクワクした人や安堵した人が多い…と思いきや、電車内で乗客トラブル。繁華街では、酔っ払いの喧嘩、最寄り駅から自宅を目指す人、携帯で家族と電話しているけれど、何やら口論になっているような物言いが聞こえてくる。

ニュースでは経済的に困窮する一般世帯の実態を憂う報道、低賃金労働に人が集まらないから、やりがいをPRするなど、コメンテーターが得意げに話す。

それを見て、機械化・自動化された社会で無理に人間が全員、これまで通りに働こうとすることに無理があって、椅子取りゲームを生まれてから死ぬまでやらされているようなものだと私が言うと、稀有なものを見るかのような親族の目線。一生懸命昭和の人生を循環させることを美徳とする人たちだからこそ、ここまでの経済力と子孫繁栄を絶やさずに来られたと納得する22時前。

コンビニが自動化された今、人間に残された仕事は何だろう。運よく平均賃金よりも高い報酬をもらえている今の私でさえも、中身のある有意義な労働ではなく、上司への忖度やどうでもいい根回し、組織の存在意義を捏造するための労働が多い。

マクロを組んでおけば人間がやる必要がない仕事をして、仕事をしたフリをするために、私に賃金を払う会社。もはや人間自身が働くわけではなく、パソコンを動かしているだけなので、ミスが起こりえないから、しょうもないところで揚げ足を取ることに躍起になる上司。それがヒートアップして人格攻撃になり、パワハラになり、休職者と補充採用が繰り返される。

水をわざわざこぼして拭くだけのような仕事は少なくないと思う。人間が働けなくなるから極度の自動化は望ましくないという人も多いし、他にケチのつけようがないから、マナーを次々と作り出して、人にケチをつけるチャンスを量産している。

クレーム処理の仕事はあふれている。クレーム処理の仕事なら、誰でも即仕事が決まる。感情のぶつかりあい、感情の受け皿を低賃金でやるのが人間の「会社労働」の大半になってきていると、10年働いて思う。

不機嫌になる人の「精神的お気持ち介護」をするのが今の多くの働き方になっている。それを立派な仕事だと誇っていいの?そう自問する毎日。世の中はこういうもんなんだよと開き直るなら、そもそも生まれてくる意味はないのではないか?とも思う。

2.反出生主義なのか?

これだと反出生主義になってアンチを呼びそうだが、おそらくこういう志向なのも私が子供を望まない理由だろう。自分が生まれてきた意味や意義をあまり感じていないし、あくまでも、何かの間違いでこの世に生まれてしまったからには存分に楽しんでやるという貪欲さがあるだけだ。

皮肉なのはこれだけ貪欲に楽しんでいるのに、子孫繁栄は望んでいないという話であることだ。なぜなら私はただ運が良かっただけで、不自由な環境や親ガチャ失敗人生だったら、生まれてきたくないと思うからだ。

3.対等に人とかかわることはできないの?

人は対等な関係に見えていても、いつの間にか強弱関係に陥っていることがある。上司と部下、先輩と後輩、教師と生徒、男と女、親戚や友達でさえも上下関係があることがある。食事の席で、身内や友達なのに、注文を取らなきゃと焦る人がいる。遅刻やドタキャンをしてきたのは相手なのに、自分の予定を変えてまでその人に合わせてしまう。結果的に、それがいつの間にか身分の差のように固定化してしまう。だから私は人からもてなしや気配りをされるのが苦手で、誰の上にも立ちたくないし、対等以外の関係を必要としていない。

この構造を増殖させるのはなんだろう。私は学校がその始まりだと思う。対等なはずなのに、声が大きな人間や気の強い人間がなぜか場を仕切り、他人に何かを強制したり従わせることをはじめ、それを空気が黙認する。これに味をしめる人間は成人以降もこの行動で他人を支配できることを学習するし、そういう振る舞いをしている人を周りに確認すると、小学校で猿山に上っていた連中の延長上なのだと感じる。

対等な関係などほぼないのかもしれない。お客様は神様、クレーマーの罵声、おもてなしという名の課金制ワガママごっこ、これらはすべて「対等」と真逆にある世界観であり、誰かの前では弱者な人が、別の誰かの前で強者になりたがり、それに快楽を覚える。弱者や攻撃を受ける側は、鬱憤を別の弱者に向ける。

誰のせいでもない不機嫌や嫌悪の矛先になる人が一定数いる。私もそうだった。他人や社会に期待しない人間だから、平坦な人間に見えるのか、愚痴を言ってくる人や八つ当たりをしてくる人が周りに集まってきたり、よくわからないけど、私だけに意地悪をするような人もいた。不機嫌を私だけに当てるような感覚だ。よくわからないけど、こうしたはけ口になりやすいのが私で、だから友達も、結局は愚痴の掃き出し口として利用されるだけだから、それをしなくなった途端に相手も離れていく。そしてまた新しい人が寄ってくる。

亡くなった親友は、不幸の多い人間だったが、彼の愚痴はほとんど聞いたことがなく、趣味や料理など面白い話題を出してくれたり、私の話も聞いてくれたりしていた。彼もまた、社会や他人に期待していなかったのかもしれない。社会に期待せずの長い長い余生を送っているのが私であり、失望して蒸発してしまったのが友人である。その違いだけなのだろう。

人の機嫌をとらなきゃいけない。なぜなら、それをしないと自分が攻撃されるから。攻撃されると会社にいづらくなり、会社にいづらくなり辞めると所得がなくなる。再チャレンジできないから失職すると食べていけなくなる。だから生きるためには隣人の顔色を窺って人生を犠牲にしなければならない。要するに、生活を生贄にして消耗戦を繰り返しているのが、労働から離れられない人間の生きざまなのだろう。

逆に言えば、この構造さえなくなれば、誰も何かに怯えたりカリカリしなくて済むようになるのではと思うし、既得権を持ったり資本を持っている人間が楽をして他人を奴隷のように使うことを肯定しているから、それ以外の人間が死ぬまで苦しむんじゃないだろうか。葬式費用を死ぬ前に気にして生命保険に入るような人生、やる必要ある?

4.みんなが勤勉な社会よりちょっとくらい怠け者がいる方がよくない?

ベーシックインカムと生活保護に関する議論は不可分だと思う。生活保護バッシングはなぜ起こるのか?ちなみに私は生活保護を受給する人の存在をまったく疎ましいと思わないし、自分の税金が貧困化にある人にばらまかれたとしても、特になんとも思わない。

4-1.働かない人がいることが問題なの?

シンプルにこれなのである。子供や老人は働いていない。働かない人が社会に存在するのはごく当たり前で、経済的に弱い人たちがそのグループに加わるだけなのに、それを血眼になって否定する人や叱責する人は、いったい何に怒っているのだろうかと思う。

もっと問題を分解すると、金をもらって遊んで暮らしている人が、具体的に、自分にどう迷惑をかけているのだろうか?朝起きて夜寝るまでに、そういう人とかかわることや、そういう人によって不愉快な気持ちになることはあるだろうか?結局、上司や友達や通行人など、そうじゃない人から受けたストレスを、社会的に貧しい生活保護受給者に向けてるだけなんじゃないの?としか思えない。

一緒にするのはどうかとも思うが、外国人へのヘイトに対しても、同じことを思う。確かに外国人のマナーや振る舞い、国際情勢からくる負の印象は理解できなくもないが、たとえば、五月蠅い外国人と同じくらい日本人の部活帰りの学生はうるさいし、言語が理解できる分、余計に騒がしいと感じるから、結局、外国人を排除しても、公共の場が五月蠅いことには変わらない。国籍ではなく、「うるさい人間」「うるさくない人間」に区別するならわかるが、外国人が五月蠅いから特別に憎しみがわくというのは、あまりに他人に影響されすぎじゃないかと思う。

話がそれたが、直接何もデメリットがないものなんだから、生活保護受給者よりも、厄介な親戚や知人友人関係、会社の人間関係の方がよほど害であり、それは我慢できて、なぜ赤の他人の生きざまに腹を立ててしまうのだろうか。

4-2.今働けない人が、これから働けるの?

現実的な問題として、働くべきだ!とムキになる人は、その人たちにどんな仕事をさせたいのか。仕事は需要があるからやるものであり、学校の組体操とは違い、仕事をすることが目的ではない。機械化で人がいらなくなって溢れているから無職になっているのに、その人たちに「さあ働け」といったところで、何の仕事ができるのだろう。私だって、自分の仕事は全部エクセルマクロでできるのに、無理矢理雇用されているだけで、私なんかよりもロボットの方が安くて有能だから、貯金ができたらさっさと退職するつもりだ。

4-3.人を働かせるコストは考えないの?

生活保護を否定する人は「仕事は選ばなければいくらでもある!」と言って低賃金でも働かせたいのだろうか。コンビニの自動化を上にも書いたが、コンビニに店員がいる意味って何だろう。低賃金でやる気のないバイトに接客されるくらいなら、セルフレジのほうがいいし、人間に接客されることでかえって気分が悪くなることもある。

だとすれば、コストをかけて人間を雇う意味は何だろう。これがあらゆる場面についていえるとすれば、人が働くことがむしろ社会の富を浪費する可能性もあると思う。

小学校の運動会だって、勝ちたいなら、運動神経がいい人だけを参加させればいいだけで、強制的に全員参加にして、運動音痴な人を責めたり非難する不合理な全員参加制度がとられていた。労働もそれで、無理矢理全員参加させることがいかに害悪であるかがまったく議論されていない。子供や老人が労働を免除されているのに、生産年齢人口だとだめなのだろうか?

現金を配って、金融教育して、毎日最低限以上の安心した生活をする権利が全員にある方が、凶悪事件が減るかもしれない。凶悪事件が減れば、私の人生における死ぬリスクや家族を失うリスクも減る。

貧乏人を無理矢理労働させ、自棄になるように仕向ければ、そのリスクが増えるかもしれない。全員が働いたところで、富の総数は目減りするだけ。だとすれば、どっちが自分にとって得かがわかる。自分が楽になることよりも、他人に楽をさせないことを選択することは愚かだと思う。

4-4.他人が働かないのが気に入らないなら、自分も働くのをやめたらいいのに

BIの議論では「そんなことをしたらみんなが働かなくなってしまう」という謎の懸念が起こる。その事実ではなく、気になるのは、「自分自身が働かなくなること」ではなく「みんなが働かなくなってしまう」ことに注意が向いていることだ。自分がどうするかよりも、みんながどうするかが気になるのだろうか。

他人が一人働かなくなったところで、その人の人生に影響があるのかな?迷惑電話をかけてくるセールスや、未成年が営業妨害する飲食店がなくなったところで、私の人生には何の関係もない。むしろ、そういう人たちが仕事から解放されて、そういう悪い仕事が淘汰される社会のほうがいい。

誰かがパチ屋に朝から並んでいるのを見たとしても、その人がブラック企業から解放されるのであれば、そのほうがいいと思える。苦労しないのが許せないと考える人は、自分も苦労するのをやめたらいいのに、と思う。

いい大学を出るのも、いい会社に入るのも、結婚するのも、子供を育てるのも、出世するのも、別に誰も頼んでないし、あなたが勝手にやっていることでしょう。楽をしている人を恨めしく思う程度のことなら、そんなこだわりやプライド、持っているだけ無駄なんじゃないですかね、と思ってしまう。

5.結局、そんなに他人のことを見てるんですか?って話

必要な仕事だけがあり、それによりベースの生活があったうえで、もっと稼ぎたい人が前向きに稼いでいく社会が健全だと思う。今は相互に自由を制限をして、不機嫌を交換するビジネスで死に待ち人生を送るモデルが多すぎる。こんな人生なら、子供も産み落とされただけ迷惑だと思う場合があるだろう。

自由競争と生活保障は別に考えないと、不遇な生い立ちの人間が死やドロップアウト、無敵の人を選ぶしかなくなり、それが社会にとってどれほど損失か、それを思えば、一定数の人が遊び歩いていることに目くじらを立てる必要はまったくないことが感じられるわけだが、どうやら普通の人は「他人の自由を制限する」ことに快楽を覚えているから、それがBI黎明期にどのような障害になるか、ちょっと恐ろしい。

人が不自由にしているのを見るのが快感だから、厳かな式典や会議をやりたがるわけだろうし。不機嫌であること自体に快楽を覚えている人がいるのかもしれない。不機嫌を正当化するのが今の社会なら、AIとBIの相互作用でこれを一掃してほしいと願うばかりだ。


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