ないない様 3話

「お母さん、怪我しちゃったの? そりゃ大変だ」
 コンビニ弁当をもそもそと食べながら、ワンルームの狭い室内に、日名子と玲の姿はあった。
「はい。怪我をしちゃったのはちょっと前なんですけど……」
 玲が日名子の部屋に遊びにくるようになって、数日が過ぎようとしていた。これまでエレベーターホールの前にいたり、いなかったりした玲だったが、一度日名子がいつでも来ていい、と告げて以来、毎日そこで日名子の帰宅を待つようになったのだ。はじめは、こんなことをして教育上よくないのではないかと、玲を家に上げることをためらったが、一度玲の分の食事を用意してからというもの、それをおいしそうにたいらげる彼の姿を見たら、たまらなくなった。自分のしたことで、誰かが喜んでくれる。それだけで、日々疎ましがられるための電話をかけるという仕事をしている日名子にとってはうれしいものだった。
(きっとこういうのを庇護欲っていうのかな)
 帰りを待つ人がいるというだけで、日名子のアロマキャンドルの衝動買い癖は大幅な減少を見せていた。
 本来ならば、こんな風に他人の家庭の事情に首を突っ込むことは正しい行いだとは思っていない。けれど一度、いつでも来ていいと言ってしまった手前、追い返すわけにはいかない。
 日名子は大人だ。成人をしてかれこれ十年近くたとうとしている。そんな大人が、未成年――それも小学生を家に連れ込んでいるだなんて、傍目から見れば醜聞でしかないかもしれない。だが、実際にしていることといえば、晩ごはんにありつけない可能性を持つ少年とこうして一緒にごはんを食べているだけだし、二十二時には家に帰すようにしていた。それ以外、やましい行いは一切していない。児童保護の観点から見たとき、これのどこが、罪になるというのだろう。
 とはいえ、いずれしかるべきときに、玲と玲の母親の不和を相談しなくてはならない日がくるだろうとは思っていたが……。
「お母さんが怪我をしてから、家の中がぐちゃぐちゃなんです。それで僕、お母さんってすごいんだなあって思って」
「なんで?」
「だって、家がいつもきちんときれいだったのは、お母さんがきれいにしてくれていたからなんですよね。お母さんが足を怪我しちゃったってそれだけで、家がごちゃごちゃしちゃうなんて、もっとお母さんに感謝しなくちゃなって……」
「もー、玲くん! いい子すぎ!」
 握っていた箸をおいて、玲の頭をぐしゃぐしゃっと撫でる。玲は「わー」と言いながらも、まんざらでもなさそうにほんのりと頬を赤く染めていた。
(でも実際、いい子だ。この子は本当に無害な子)
 日名子が玲に振舞う夕食は、手作りのときもあれば出来合いのもののときもあった。そのどちらも、玲はとても喜んでくれる。食事を取り終えれば特にすることもないので、玲の宿題を見たり、サブスクで選んだ映画を観たりしてすごした。なにをするのにも、玲はいちいち新鮮な反応を見せ、今までこの子が置かれてきた環境がいかに劣悪なものだったかを都度、痛感しなくてはならなかった。
(目に見える虐待はしてないみたいだけど、この子のお母さん、完全にネグレクトじゃん。やっぱり、いつかどこかに報告したほうがいいかも……)
 こんなにいい子を、どうして母親はそこまで疎むのだろうか。
 百歩譲って、看護師の仕事が忙しいからだとしよう。しかし玲の待遇は、それでもやはりかわいそうとしか表現できないものがあった。
「日名子さん。今日の宿題は図画工作のチュウショウガなんです」
「抽象画? へえ、そんなことやるんだ」
 食べ終わったコンビニ弁当のプラスチック容器を洗わずにゴミ箱に突っ込み、お茶のしたくをしながら、日名子は答えた。小学六年生にコーヒーなど出していいものか、しばし逡巡して結局買い置きしておいたコーラを出すことにした。日名子はコーラ中毒なのだ。
 玲はと見れば、学校で与えられたらしい大きなスケッチブックを取り出して、ぱらぱらと空きページをたどっている。日名子は改めて、鉛筆を持ってランドセルの横にちょこんと座る玲の姿に見とれずにはいられなかった。なにをしていても、玲はいちいち動作が美しい。美とは得だと常々思う。
「チュウショウガって、どんなものを描いたらいいのかなあ……」
「そうだねえ……。私も美術の成績はあんまり良くなかったからなあ……」
「このアロマキャンドルを描くんじゃ、だめなんですよね」
「そうだね、それだと抽象画にならないからね」
「ないない様は抽象的なものかなあ……」
「え?」
 コーラの入ったコップを二つ、先ほどまで弁当を食べていたテーブルに置いて、日名子は玲のスケッチブックを覗き込んだ。白紙だ。まだなにも描かれていない。
「ないないさま? なにそれ?」
「ないない様は、ないない様です。いらないね、ないないしようね、っていう」
「どういうこと?」
「ええっと、こういう……」
 玲はスケッチブックに鉛筆を走らせた。
 すらすらと描き出されていくそれは、人のかたちをしていた。ただし、髪はなく色が黒い。そして目のあるべき場所だけがぽっかりと白い。
「目のところが白く光ってるんです、ないない様」
「な、なにこれ?」
「僕が小さいころから一緒だから、小さい僕にあわせて、いらない、のことを、ないない、って言うようになったと思うんです。だから、ないない様」
「玲くん?」
「僕を守ってくれようとしてるんですよ」
 よくわからない話の矛先に、日名子はなぜか胸のざわつきを感じた。
「ないない様、最近お母さんのことをいらないねって言うんです。日名子さんがいるからもういいじゃない、って」
 でも……。玲は首をかしげる。
「でもお母さん、頑張ってくれてるのに。家の中をきれいにしたり、ときどき怒るけどいつもは優しくしてくれたり。そんなお母さんをないないしちゃうのは……ちょっとかわいそうだと思うなあ」
 ぞくりとした。玲の言うないない様がどんなものだかはわからないが、なぜだか自分は聞いてはいけないことを聞いてしまっているような気がしたのだ。かわいいと思ってばかりいた玲に、はじめて得体の知れない感覚を抱く。
「けど、しかたがないんです。ないない様は僕を守るためにやってくれているんだか――」
「玲くん、あのさ!」
 話題を変えたくて、日名子は半ば強引に玲の言葉をさえぎった。
「あ、あのさ……、そうだ、今日泊まっていかない? 明日は学校休みだよね?」
「――いいんですかっ?」
 玲の瞳が、きらきらと効果音がつくほどに輝いた。
「僕、誰かの家にお泊りってしたことないんです。でも、いいんですか? 日名子さんの邪魔になりませんか?」
 話題が変わったことに、日名子は深い安堵をおぼえる。どうして自分がこのような感情をおぼえるのかわからなかった。
「全然かまわないよ。狭い部屋だけど、友達が泊まりきたとき用の布団はあるんだ。あ、でもさすがに泊まりならお母さんに連絡しないといけないね」
「えっ……」
「大丈夫だよ、私がうまいこと伝えておくから。だから玲くん、お母さんの電話番号わかる?」
「わかります。わあ、うれしいな。あのっ、寝る前にアロマキャンドルのあかりだけにしてみてもいいですか?」
「もちろんだよ! そういえば玲くんとはまだやってなかったね。私はひとりのとき、たまにやるんだ。今夜やろう、一緒にやろう」
 笑顔で答えた反面、なぜ自分があんなにも話題を変えたかったのか理解できなかった。玲の口からどんなかたちでも、母親に対する文句を聞きたくなかったのかもしれない。かと言って、宿泊の提案をしたことは日名子にとっても予想外なことだった。いざこの子のネグレクト問題をしかるべき場所へ報告したとき、ごはんを食べさせるだけならなんとでも言い訳できるが、家に泊めたとなるとなんらかの追求は受けるかもしれない。しかし、今はそれでもかまわないと思っていた。ないない様の話から話題をそらせるのなら。

   **

「――まあ、玲を?」
 玲の友人の母親を名乗る女は、今日、玲を家に泊めたいと申し出てきた。これまでかつて一度もそんな電話を受けたことのなかった由紀は、驚きを禁じえない。
「本当にうちの子なんですか?」
 変な質問だと思ったが、そう問いかけずにはいられなかった。そのくらい、由紀が認識している範囲で玲には友達が少なかったからだ。
『はい、玲くんです。お宅は張間さんのお家ですよね?』
「そうです、張間です……」
『もしかしてお泊めせず、お返ししたほうがよろしいでしょうか?』
「いえ……。あの、ご迷惑でなければ」
『わかりました。明日の夕方までにはお返ししますので』
「そ、そんなにおあずけしていいんですか?」
 明日の夕方ともなれば、今夜の食事はもちろん、翌日の昼食、朝食まで世話になることになってしまう。自分が逆の立場だったら、他人の子ははやく家に帰したいだろうと思った。
『あっ、なにかご予定がありますか?』
「いえ、ないんですが……。そんなにご厄介になっていいのかしらと思って」
『うちは大歓迎ですよ』
「そうですか……。では、お言葉に甘えて……」
『ありがとうございます。もしなにかご心配ごとがありましたら今おかけしている電話番号にご連絡ください。堺と申します』
「は、はい。ありがとうございます。よろしくお願いします」
 電話を切ってから、玲の友人の名前すら聞かずに会話を終わらせてしまったことに気がついた。
(あの子に友達なんて……。珍しい。でもよかった)
 友達の家にお泊りだなんて、なんだかまるで普通の子みたいだ。
 玲は心根の優しい子ではあるが、いかんせん男の子にしては気が弱すぎて、世渡りが下手だった。子ども独特のネットワークでなにか鼻につくところでもあるのか、いつもガキ大将格の子に目をつけられて、持ち物を隠されたり、壊されたりしていた。だからかどうか、玲の周りにはいつも同世代の友達はおらず、学校行事以外でかかわることもないように見えていた。
 その玲に、友達ができた。いい傾向だ。これでもうないない様だなんて不気味なことを口走らないようになってくれればいいのだが……。
「よい、しょっ……」
 声をかけなければ椅子から立ち上がることさえままならない。そんな自分に苦いものがこみ上げてくる。
 由紀の左足と、右腕は硬いギプスに覆われて、腕のほうは首からさげた包帯によってつられていた。
 先日、業務の最中に怪我をしたのだ。
 体重の重い患者がストレッチャーに乗せられて運ばれてきたときのことだった。ボールペンを落としてしまい、拾おうと右手をストレッチャーの下にもぐりこませたとき、なにかの弾みで螺子が外れてしまったのだ。ちょうどストレッチャーの足が交差する場所に右手を差し込んでいた由紀の腕は、ものの見事に患者の体重とてこの原理によって骨を粉砕された。といってもひびが入る程度の軽症だが――このところ連続する怪我に、由紀は薄ら寒いものを感じていた。
 今だって、手と足を包帯で巻かれている満身創痍なこの状況は、どう見ても異常だ。
(あれ以来、あの子の部屋から変な声が聞こえてくることはなくなったけど……)
 しかしいまだに、由紀はこわくて玲の部屋に入ることができなくなってしまっていた。もともとそれほど部屋を汚す子ではないので、掃除の心配はなかったが、家の中で心の許せない場所があるということはなかなかに気疲れするものだった。
(いつまで続くのかしら、私の怪我……)
 そんなことあるはずがないとわかっていても、由紀はどうしても自分の怪我を玲のいうないない様とつなげて考えずにはいられなかった。
(玲に聞いてみればわかるのかしら。私の怪我が、ないない様のせいなのか、どうか)
 ――ないない様について、改めて考えてみる。
 ないない様なんてありえない。ありえないという意見は揺らがないが、それでももし、仮に、仮にありえたとしたら。
(ないない様はたぶん、玲を守っているんだわ。だからあの子をいじめる子どもを、どんどん怪我させていった……)
 では、自分は? どうして自分は今、こんなにも怪我が連続しているのだろう。
(私のことが疎ましくなった? でも、あの子に冷たくあたってしまうのは、今に始まったことじゃないわ。昔から……、あの子が不気味なことを言うたび、私はかっとなって、あの子を……)
 自己嫌悪で吐きそうになった。が、気を紛らわせるように首を横に振って、由紀はふらりとリビングを出る。
(でも、こんな風に怪我が続くようになったのはこれがはじめて)
 ふらふらした足取りのまま、風呂でも沸かそうと浴室まで向かった。玲が戻ってこないのなら、今日は昨日の残り湯の追い炊きでいいかとぼんやり思う。
(私は悪い母親だけど、毎日悪い母親だったわけではないわ。玲と普通に接していた日だってあった。あの子がおかしなことを言わない限り)
 そういえば今朝、洗濯に残り湯を使ったっけ? ど忘れしてしまい、由紀は浴室の風呂のふたを開けていった。
「よかった、お湯、残ってる……」
 言い終わるより先に、かくんと膝から力が抜けた。
「えっ」
 背後から、何者かに後頭部をわしづかみにされた。そのままぐんっと前方に力をこめられ、由紀の顔は浴槽の残り湯の中へと沈められる。
「うぐぅっ!」
 誰かが背後から由紀の頭を押さえつけている。すごい力だ。反発して手足をじたばたと動かしてみるが、まったく歯が立たない。こちらは手をギプスで固定されているのだ。
 そもそもなにが起きているのかよく把握できていない。家の中には自分以外人はいなかったはずだ。それなのに、確かになにかが由紀を押さえつけて浴槽に押し込んでいる。
(い、息が)
 息ができない。背後から襲い掛かる謎の腕はものすごい力でぐいぐいと由紀を水中に沈めようとしてくる。容赦のない腕力に、由紀もまた必死に抵抗せざるを得なかった。
「う、うう、うぐうう……っ!」
 なんとかして浴槽のふちに手を置く。腕の痛みを無視して力をこめる。
「ぷはぁっ!」
 やっと水面から顔があがった。と思ったら、またぐいぐいと謎の手が由紀の後頭部を水の中に押し戻そうとする。
「や、やめっ……」
 やめてと言ったところで、突然人の頭を水中に押し込むような相手だ、話が通じるとは思えなかった。それでも、叫ばずにはいられない。
「やめてっ!」
 ばっと腕を振り回し、なんとかして背後へと体の向きを変える。
 そのとき、由紀の目に異質なものが飛び込んできた。
「――――」
 それは人のかたちをしたなにかだった。
 頭があり、首があり、胴があり、手足がある。けれどそのすべてがぽっかりと闇に通じるかのように黒い。ただ目がある場所だけが白かった。
(これ、は)
 なに?
「きゃあ、ああぁっ」
 黒い手が再び自分へと襲い掛かってきた。腕は由紀の顔面をがっしりとつかみ、そのままぐっと彼女を背中から浴槽へと沈めた。
「がぼっ、ごぼぼっ……」
 水中でも瞳を閉じることができなかった。今、自分を襲っているこのなにか。これはいったいなんなのだろう。
(私、今、死にそうになってる?)
 どうして?
(まさか)
 まさか、これは、まさか――。
(ないない様……?)

#創作大賞2024 #ホラー小説部門

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