ないない様 2話

 最近、アロマキャンドルに暴走しているな、と我ながら思う。ここのところ軽い買い物依存症に、日名子は悩まされていた。
 仕事を終え家に帰宅する途中、職場が新宿という場所柄買い物には事欠かない。帰り道にふらりと立ち寄った雑貨屋で、日名子はほとんど毎日のようにアロマキャンドルを爆買いしていた。ひとつひとつの単価が高くないからなんとかなってはいるものの、これが服や靴だったら大出費だ。とはいえ単価の低いアロマキャンドルさえ、日に六、七個買っているので出費は馬鹿にはできないのだが。
 昔からアロマキャンドルは好きだったが、こんな風に見境なく買いあさるようになったのは、かつて付き合っていた彼氏と別れてからだ。
 好きな人ができたと言ってふられ、同棲を解消して今の部屋に引っ越してすぐ、一人暮らしの寂しさに耐えられなくなった。そのせいでもともと好きだったアロマキャンドルの爆買いという、あまり健全ではない趣味に走り出してしまったのだ。
 日名子の業務は、残高不足で口座から引き落とされなかったカードローンの、お支払日のご相談の電話だ。と言えば聞こえはいいが、言ってしまえば借金の督促電話である。ストレスがたまることは多かった。今日も今日とて、カードローンは口座から引き落とされたはずだと言ってきかない客と小一時間討論するはめになった。
 どんなに疲れて帰ってもキャンドルに火をともして香りを楽しんでいる間は、日々のいやなことを忘れることができる。
 そう思っていたはずなのだが。
(寂しい……)
 アロマキャンドルを五つ、同じかたちで香り違いのものを買ったショップバッグを提げながら、帰途につきつつ日名子は思う。
(最近はキャンドルしてても、ひとりってことが余計に寂しく感じるようになった……!)
 以前付き合っていた彼氏は、アロマキャンドルがあまり好きではなかった。そもそもアロマ自体にあまり興味がなかったのだ。キャンドルを炊いていると、またかよ、ニオイきつい、等々文句を言われていたものである。
 独り身になったことによって、誰からも文句を言われることがなくなった。本来なら清々するはずのことなのだが、そのことが余計にひとりであることを際立たせてしまうようになった。大好きなアロマキャンドルに頼れなくなったら、自分はなにを心のよりどころにすればいいのだろう。そもそも、キャンドルに飽きたら今度は自分はなにを買うのだろう。もっと値段の高いものに入れ込んで、爆買いしてしまったら破綻してしまう。
 そんな不安を抱きながらマンションまでたどり着き、オートロックを解除してエレベーターに乗り込んだ。
 目的階までついたとき、エレベーターが開いてはっとした。
 玲が、自宅の扉の前で立ち尽くしていたのだ。
(また……!)
 今朝が今朝だけに声をかけるかどうか躊躇した。が、玲のほうが日名子に気づいて、礼儀正しくぺこりと頭を下げる。背負ったままのランドセルの中身が重たげに上下する音がした。
「こんばんは」
「こ、こんばんは。……ひとり?」
 見ればわかることを聞いてから後悔した。これではぎこちなさ満載だ。
「はい。お姉さんは、今帰りですか?」
「うん、そうなの。……また鍵、忘れちゃったの?」
「いいえ。今日は……」
 そのまま言葉を濁す玲を前に、日名子はやはりそれ以上追及することができなくなってしまった。が、意に相違して玲のほうから言葉を続ける。
「今日はお母さん、夜勤明けで疲れてるから。僕がいるとあまり休めないみたいだから」
「夜勤って?」
「看護師なんです、お母さん」
「じゃあ、お父さんが帰ってくるまでそこで待ってるつもり?」
「お父さんは帰ってきません。単身赴任中だから」
「そ、そうなんだ……」
 父親が帰ってこない。なぜだか聞いてはいけないことを聞いてしまったような感覚に陥った。父親がいないのなら、家の中はいつも玲と母親のふたりきりということになる。その光景は、考えただけで気詰まりだ。
「でも、それならなおのこと、いつまでそこにいるつもりなの?」
 アロマキャンドルを買うという寄り道をしたにしても、日名子の帰宅は十九時そこそこだ。
「ずっとはいません。お母さんが寝る少し前くらいに家に入ろうかなって……」
「それって、何時くらいなの?」
「九時とか、十時とか、そのくらい……」
「それまでずっとそこで待ってるつもりなの?」
 素っ頓狂な声を出した日名子に、玲がびくりと身をすくめる。あわてて口元を押さえる日名子だったが、このまま何事もなかったように自分の家へ帰って行くわけにはいかなかった。
「ごはんはどうするの?」
「わかりません。あるときとないときがあるので……」
「そんな……」
 わずかな逡巡の後、日名子は言った。
「じゃあ、うちにおいで」
 はじめて玲と接触したとき、日名子は酔っていた。けれど、今は違う。完全な素面だ。
「うちで時間をつぶしてから家に帰ればいいじゃない。このままここで立ってるよりずっと建設的だよ」
 頭の片隅では、こんな小さい子を自宅へ招き入れるだなんて、犯罪になりやしないか、ご近所トラブルのきっかけになりやしないかとも思ったが、これから何時間も立ち尽くすつもりの玲を、ほうってはおけなかった。
「ごはん、コンビニのおにぎりだけど、よければ一緒に食べよう」
 日名子の突然の提案に、玲は瞳をぱちくりさせて驚いていた。それでも日名子が手招きすると、小動物かなにかのように、ととと、とこちらへ近づいてきた。

(勢いで連れて来ちゃったけど……、もし私がかかわったことで、お母さんの逆鱗に触れちゃったらどうしよう)
 だとしたら、玲には自分の家に来たことは黙っていてもらうべきだろうか。しかし家に招いておきながら口止めをするという行為は、なんだか矛盾しているように思えた。
 どうしようかと日名子が悩んでいる間も、玲は部屋の中をきょときょとと見渡している。
「これ、お菓子ですか?」
「え?」
 玲が指し示したのは、マカロンを模したアロマキャンドルだった。
「ああ、違うよ。これはね、キャンドル。蝋燭なんだよ」
「蝋燭? こんな色なのに?」
「そう。それににいい香りもするんだよ。つけてみる?」
「いいんですか?」
 玲が瞳を輝かせた。予想外の食いつきのよさに、日名子は気をよくした。
「もちろん。こうやってね……」
 メタリックピンクのライターでそっとキャンドルに火をつける。このライターは吸いもしない煙草を、付属品のライター目当てで買ったものだ。
 キャンドルにゆらゆらと火がともり、やがてふわりと甘ったるい香りが漂いはじめた。その香りに、玲がぴくんと猫が辺りの空気をうかがうように背筋を正す。
「甘いにおいがします」
「でしょ。これ、私の趣味でね。こういうアロマキャンドルを集めるのが好きなの。ほら、あれもこれも、それもみんな蝋燭なんだよ」
「これ、全部蝋燭なんですか?」
「そうだよー」
「すごい!」
 小学六年生の男児が、アロマキャンドルひとつでこんなにも生き生きした表情を見せるとは、日名子にとって予想外のことだった。彼氏と付き合っていたときだって、この趣味は煙たがられてばかりいたのだ。同じ好きを共有できることに、日名子は嬉しくなる。
「――さ。ほら、おにぎり食べて。みっつも買っちゃって多いなあって思ってたところだから」
「でも……」
「……もし玲くんが今おなかを空かせていて、お母さんは玲くんがどこでなにを食べてきたのか気にしないなら、ここでおにぎり、食べていってほしいな」
「でも、悪いし……」
「悪くない! 子どもはそういうの、気にしなくていいの!」
 コンビニのおにぎりひとつ程度なら、先ほど火をともしたアロマキャンドルのほうがよほど高値である。
 はい、と鮭おにぎりを突きつけると、玲はしばし迷った顔をしたのち、静かにそれを受け取った。
「ありがとうございます。……お姉さん、どうして僕の名前を知っているんですか?」
「前に君とお母さんが話すのを聞いたからだよ。名前だけじゃなくて学年も知ってるよ。六年生でしょう?」
「そうです、すごい」
「えっとね、私の名前は日名子って言うの。境日名子。お姉さんじゃなくて日名子って呼んで」
「じゃあ……日名子さん。日名子さんはどうして僕を気にしてくれるんですか?」
「だって……、玲くん、エレベーターホールの前にいすぎだよ。あれで気にするななんて無理」
「すみません」
「君が謝ることじゃないって! でも、代わりに玲くんのこと、いろいろ教えてくれたら嬉しいな」
(変なの、私。普段ならこんなこと絶対しないのに。それなのに、全然話したことない子どものためになにかしたいと思うなんて……)
 日名子の言葉に、玲は疑いを持たずに自分のことを話し始めた。名前、年齢、血液型、母親の職業、父親の職業、学校の成績、担任の名前、得意科目と苦手科目……。聞いているうちに友人の名前が出てこないことに違和感をおぼえたが、そこを突っ込んでもしかたがない。それ以前に、自分のことを語る玲はとても楽しそうだった。止めることなどできない。
 しかしこんなに自分のことをぺらぺらと語るだなんて、もしも日名子が悪人だったらどうするつもりなのだろう。
(この子はまだなにもわかっていない、守られていなくちゃいけない子どもなんだ。誰かが守ってあげなくちゃいけないはずなのに……)
 それなのに、一番の保護者であるべき母親は、玲をネグレクト気味に追い込んでいる。
 ――この子は私が助けてあげなくてはならない。
「玲くん。もしまたお母さんに締め出されたり、寂しくなったりしたらいつでもおいで」
 日名子と玲のふたりだけの時間は、マカロンのアロマキャンドルが溶けてもなお続いた。

   **

 玲の不在が目立つようになって、由紀はようやく玲を締め出していた罪悪感から解放されるようになっていた。玲に用事があって、そのせいで家に寄り付かなくなるのなら、それは由紀にとっても玲にとっても良いことだ。
 しかし果たして、友達の少ない玲が、いったいどこで時間をつぶしているのか。由紀には知る由もない話だが、そのことをあえて玲に問いただそうとは思わなかった。聞いたら、そんなところで時間をつぶさせるだなんて、自分はなんてだめな母親だろうと、自責の念に苛まれることになるとわかっていたからだ。
 自分はなんてだめな母親。玲を産んでから何度そう思ったことだろう。
 本当は息子を家から追い出したいわけなどない。できることなら、学校から帰ってすぐ遊びにいくわが子の帰宅を、あたたかい食事を作って待っていたかった。けれど現実は、息子は友達のひとりもいない――優しいけれど――いじめられっ子だし、自分はわが子の帰宅が遅くとも心配ひとつせず、むしろほっとしている最低な母親だ。
 由紀は玲を外に締め出している間中ずっと、胸をかきむしって、やり場のないつらさを声に出して叫びたくなっている。自分はなんて最低な母親なのだ、と。
(どうしてこんなことになってしまったのかしら)
 由紀とて、これが異常な状況であるということはわかっていた。自分は母親失格だ。一秒でも早く児童相談所に報告をして、玲をあずかるなり引き取るなりしてもらわなくてはならないとわかっているのに、どうしてもまだ息子と楽しい親子関係が築きなおせると、一縷の望みを捨てられずにいる。
 こうなったきっかけは、とても根深い。玲がないない様のことを口走るようになったのはあの子がうんと幼いころからだったし、ないない様の話をされてかっとなってしまう自分の感情に、由紀は自分でも納得のいく説明ができないからだ。
(……ないない様ってなんなのかしら……)
 玲がないない様について口走るようになったきっかけの出来事はおぼえていても、由紀はなぜだかないない様についての詳細を、無意識的に玲から聞きたくないと思っていた。そのため、玲の言うないない様がなんなのか、その全貌は明らかにされていない。わかっているのは、玲が怪我をすると予知した相手が怪我をすることと、ないない様との間になんらかのつながりがあるということだけだ。
(でも、自業自得だなんてひどいことを言ったのは今朝がはじめてだったわ)
 そこまでぼんやり考えてから、ピーッという薬缶の音に我に返る。自分は今、帰宅しない息子のために――母親の疎ましげな表情を見たくなくて帰宅しない息子のために、夕食のしたくをしていたのだった。コンロには薬缶と鍋、調理台には切りかけのきゅうりと包丁。
 ピイイイィィィイイィィ……!
 せきたてられるような音にあわてて、思わず薬缶に触れてしまい、あまりの熱さに身を引いた瞬間、ガスコンロに肘ががつんとぶつかった。その衝撃で、熱湯をなみなみ注いだ薬缶がひっくり返り、落ちざまにその中身を由紀の太ももへと中身をぶちまけた。
「――――」
 あまりの熱さに声も出なかった。コンロの火はまだゆらゆらと燃えたままだ。由紀は痛みにも似た感覚にうずくまり、服をたくしあげて恐る恐る熱湯のかかった太ももを見やる。
「ああっ……」
 どこからどこまで熱湯がかかったのか、はっきりとわかるほどに局部が赤くなっている。由紀はあわててコンロの火を消し、風呂場へと向かった。冷たいシャワーを出して、大急ぎでただれた太ももを冷やす。
(ここのところ、こんなことばかり……!)
 シャワーを強く握りすぎたせいか、かまいたちに切られた手の甲の傷が、せっかくふさがりかけていたのにぱくりと開いた。
「っ……!」
 どこもかしこも痛い。怪我は、これだけではない。夕方、部屋の中で針を踏んでしまったのだ。仕事着のほつれをつくろっていたところ、針を一本無くしてしまった。それを探している間に、どういう状態になっていたのかわからないが、上向きにそそり立った針にぐさりとかかとを突き刺したのである。
 ――お母さん、怪我には気をつけてね。
「…………っ」
 由紀は恐れていた。昨晩のクラスメイトの件といい、玲がないない様と口にするにつれ、被害は甚大なものとなっていくことを。
 骨折の次は、なんだろう。それを止める術はないのか。
 そこまで考えてから、由紀はシャワーを止めて頭をかきむしった。
(なにを考えているの、私……!)
 ふと、どこかから物音が聞こえた気がした。
 時計を見やる。二十二時を回ろうとしているところだ。玲は自分がいると母親がいやなことをすると悟って、夜遅くまで帰ってこない。ちょうど、帰宅するのならこのくらいの時間帯だ。……帰ってきたのだろうか?
 台所から廊下へと顔を出す。それと同時に玲の部屋の扉がばたんと乱暴に閉ざされた。由紀は怪訝に思う。玲は礼儀正しい子で、帰宅すれば必ずただいまと言うのだ。それに対する母親の機嫌次第で、今後の身のふりを決めるような慎重さで、ただいまと言う。
 けれど今、ただいまの挨拶は聞こえなかった。
 由紀は浴室から出て足を拭き、たくしあげていた服を元に戻してから玲の部屋へと向かった。自分が追い出したくせに、玲が不機嫌になっているのがなんだか怖かったからだ。
 足のやけどがじんじんと痛い。そうっと玲の部屋の前まで来ると、中からなにやら声が聞こえてくるのを感じた。
『……いね。………いね』
(えっ)
 男か女かわからない声だった。同じ言葉を何度も繰り返しているのか、声に抑揚はない。けれど次第に、音量が大きくなっていく。
『いらないね。いらないね。ないないしようね。いらないね』
 これまでかつて玲の話を百パーセント本気で信じたことはなかった。いくら玲が口走ったないない様関連で他人の子どもが怪我をしようと、心のどこかで偶然だと思う気持ちを消したことはなかった。けれど。
『いらない、ない、ないないないない、ないないないないないないないない…………』
 どくん、と心臓が大きく脈打つ。
 ドアノブを捻れば、そこは息子の部屋なのに。息子の独り言であることを確かめればいいだけなのに、傷を負ったばかりの手が震えてうまくできない。
『いらない、ない、ないない!』
 だんっと室内でなにかがたたきつけられたような音がして、由紀はとっさに息子の部屋の前から遠ざかった。逃げるようにキッチンへと駆け込み、出しっぱなしにしていた包丁を手に、玲の部屋のほうへと向き直る。
(へ、変質者、かも)
 かつてないほど指先が震えていた。相手がなにだかわからないことが一番怖い。
 そのときだった。がちゃん、と鍵が開く音がして、玄関から人の気配がしてきたのは。
「お母さん……、ただいま」
 玲だった。
 ランドセルを背負った玲が、ぽつんと由紀の前に立っていた。
「れ……玲。今、帰ってきたの?」
「え?」
「あなた、部屋にいたんじゃなかったの?」
「いないよ。今、帰ってきた」
「だったら……」
 由紀は握った包丁の先端を、まだ引っ込めることができずにいた。
「だったら部屋の中に誰がいるのよ……!」
 玲は由紀の言葉に、さほど驚いた様子を見せず、ああ、と子どもらしくないため息をついた。
「ないない様じゃない?」
 かあっと全身の血が頭に集中していくのを感じた。
 どうしてこの子はあれほどきつく口にするなと教えたないない様のことを、こうも簡単に口走れてしまうのか。それが自分たちの不和をうむと知っていながら、なぜ平気な顔をしていられるのだろう。
「そのことは言っちゃだめって言っているでしょう……!」
 我ながら地の底から這い上がるようなうらめしげな声が出た。さすがに玲もまずいと思ったのか、由紀の顔を見て後退りしている。
「お母さんをからかっているの? だったらいい加減にして、友達には部屋から出ていってもらって!」
「友達なんかいないよ、お母さん」
「だったらあの部屋には誰がいるって言うのよ!」
 こらえきれない怒りが爆発して、手を大きく振り上げて玲をたたきそうになった。が、すぐに思い出す。自分はまだ包丁を握ったままだ。
 けれど気がついたときにはすでに遅く、由紀は包丁を玲に向かって振り下ろしていた。
(――だめ)
 いけない、それだけはいけない。
 由紀は反対側の手でぐっと自分の手首をつかんで自制した。おびえた顔の玲が大きくてくりくりした瞳に涙をためている。包丁は由紀の手をすり抜け、――彼女の足に向かって、するりと落下した。
「あぁあぁぁあぁっ!」
 切られている、と痛みに支配された意識の片隅でぼんやりと思う。
 私、このごろ切られている。手の甲のもそうだったし、針でかかとを刺したことだってそうだ。そうして今度は、包丁が足の指の間に食い込んでいる。私、切られてる。切り刻まれようとしている。

#創作大賞2024 #ホラー小説部門

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