ないない様 8話

 玲の父との電話のあと、ないない様の気配を感じながら布団から出ずに日名子はなんとか眠りに落ちた。
 朝は良い。光があるから。光があるとあの不気味な足音におびえることも暗闇におびえることもせずにすむ。光がある時間帯、恐怖は日名子を襲ってはこなかった。
 やがて迎えた金曜日。仕事を終えた日名子は、すっかり自宅へ帰ることが恐ろしくなってしまっていた。家に帰ると、電気が消える。真っ暗な部屋の中で、アロマキャンドルの明かりだけを頼りに、あの足音におびえるだなんてたくさんだ。そのため、足は自然と人通りの多いほうへと向かっていた。
 日名子が向かったのは漫画喫茶だった。先週の金曜などはファストフード店でコンセントの差込口がある席を独占して夜を徹していたのだが、それだとさすがに体力がもたず、かと言ってホテルに泊まるほど外泊にお金をかける気になれず、消去法で漫画喫茶が選ばれた。
(このところ何日、玲くんの顔を見てないだろう)
 ここ最近の日名子の週末は、金曜夜に仕事を終えてから家に帰らず、土日まとめて外で過ごすというものだ。そのため勤め先である新宿近辺が多く、玲と暮らしていたあのマンションには平日の夜しか帰っていなかった。
 それだって、涙を呑むほど恐ろしいと感じているのに。
(ないない様がなんなのか、結局のところわからない。でも)
 わかっているのは、玲の母親もその存在を感じていたこと、玲が以前、ないない様が母親をないないしようとしているような内容の言葉を口走っていたこと、そしてその母親が何者かに殺されたこと、玲がないない様のことを口にするようになったのは、長野のスキー場で遭難しかけた日がきっかけであること……。
(長野のスキー場で、六歳の子が遭難ってなると、ネットでなにか出てこないかな)
 日名子のいる漫画喫茶は全席個室になっていて、横にもなれる大きなリクライニングチェアーとパソコンのあるデスクを一室に、スライド式のドアで区切られている。光がある場所のみならず、こういった不特定多数の人の姿がある場所では、あの怪現象もなりを潜めていた。
 それまで漫画ばかり読んでいた日名子は、早速パソコン画面を開いて、そこに検索ワードを打ち込む。長野、スキー場、遭難で検索すると、どうにも新しい遭難の事件がヒットしてしまう。
(玲くんは今、十二歳だとすると……、六歳のころなら六年前か)
 西暦を追加してみる。こちらも死亡事故ばかりがあげられて、六歳の子がかまくらの中で奇跡的に吹雪を免れた事例はヒットしなかった。
 なんだか悔しくなってしまい、日名子はぱちぱちとキーボードを叩いては検索ワードを変え、叩いてはワードを変え、を繰り返す。
(ないない様がなんなのかわからないけど、その存在を、私はもう認めないわけにはいかない)
 あれほど部屋の中で脅されたのだ、気のせいだったで済ませることはできなくなっていた。
(でも、お母さんをないないしたって、どういう意味? まさか本当にないない様が玲くんのお母さんを殺しちゃったの? ないない様って、そこまで危険なやつなの?)
 だとしたらどうしてそんなに危険なものが、なぜ玲に――。
 ふと、パソコン画面に気をとられる。たどり着いたのはオカルト話のサイトだった。スキー場で遭難したものたちの、生き残りをかけた過酷な生還ゲームの都市伝説を数々あげている。
 よく耳にする、五人で雪山に行ったら遭難し、ひとりが死んでしまい、たどりついた山小屋で残りの四人が死体を部屋の中央において四隅を移動し、眠り込まないようにする話からはじまり、登山途中の遭難者ふたりが山の中で遭難してしまい、いかに工夫して食べ物を工面していくかという話や、スキースクールの引率の女性が子どもたちとともに遭難してしまったインストラクターの女性が、食料不足に悩み、遭難した七晩の間に一晩にひとりずつ、子どもを殺して食べていく話が繰り広げられていた。
 日名子の興味を引いたのは、一番最後の、スキースクールのインストラクターの話だ。
 なぜならその件だけ、具体的に地名があげられていた。長野県、と。
(これって……、玲くんの遭難とは関係ない……よね?)
 改めて、詳しくその話を読み込んでみる。
 インストラクターをしていたのは、夏場はなんのパートもしていないただの主婦だった。冬場にのみインストラクターの仕事をして、彼女自身の子どもが小学一年生という年齢からか、同じ年頃の子どもたちのクラスを任されるようになっており、スキー教室の評判は上々だったのだが、あるとき最低限の荷物しかもたずに遭難してしまう。理由は玲と同じで、上級者コースから離れたところにいたずらっ子が入り込んで行ってしまったのを探すため、安全圏から道を外して、引率の生徒ともどもその子を探していたからだそうだ。子どもを引率したまま上級者コースを外してもなんとかなると雪山を甘くみていたのと、スキー場に子どもたちだけ残していけないとその引率者が思ったからなのではないかと補足がされていた。ちなみに補足されていたことだが、そのいたずらっ子というのはなんと引率者の息子だったらしい。
 山の天気は変わりやすい。息子を見つけたはいいが、あっという間に吹雪にみまわれ遭難してすぐ、一同は幸いにも山小屋を見つける。これは雪山遭難話のお約束だ。若干うそ臭いなとも思いながら、日名子は熱心にページを読み進める。
 一晩経てばきっと助けが来てくれる、とそう思った引率者の主婦の考えは、続く連日の吹雪によってかき消された。
 連日続く吹雪に、十二人の子どもたちの空腹は限界を迎えようとしていた。ただでさえ食事は引率者が持ってきたビスケット一枚ずつと水のみ、狭い山小屋の中でずっと顔を突合せているせいか、子どもたちの喧嘩は深刻化していき、暴力が当たり前になって、けが人さえ出てきたころあいだ。引率者は、やむ様子のない吹雪を前に、ある決断をする。
 寝静まった夜に子どもをひとりずつ、山小屋の外に運ぶのだ。そうして、凍死させる。
(……まっさかぁー)
 あるわけない。やはりオカルト話の類だ。信憑性はないだろう。思いながらも日名子は、そのページから目が離せなくなっていた。
 引率者の女性が一番はじめに殺したのは、自分の子どもをよくいじめていた短気ないじめっこだったそうだ。
 山小屋の中で揉め事を起こしやすいいじめっこがいなくなったことで均整がとれたように感じられた遭難生活だったが、しかし子どもたちの不満は尽きることがない。遭難しているのだから、不安からくる不満が生じるのは当然のことだろう。このころには引率者の女性もすっかり気が病んでしまっていて、正常な判断を下すことができなくなっていた。
 そこで女性は、わが子に聞くのだ。どの子がいらない? ないないする?
(!)
 ぎくりと心臓が凍りつくような感覚に襲われた。
(ないない、って……)
 そうして七晩経って発見されたときには、子どもの数は五人にまで減っていたそうだ。そこで話は終わっている。
(なにこれ、偶然?)
 日名子はしばし考え込んだ後、サイトの製作者に連絡を取ってみることにした。サイトでは都市伝説の類を多く募集しており、連絡用のフォームが設置されていて、日名子はそこを利用することにした。
 すべてをゼロから語ることは難しかったので、適当にうそをでっちあげることにした。自分は大学の研究で長野県の雪山遭難比率を調べている、サイトで掲載されていた話は本当か、もしも本当ならば地名を教えて欲しい、と。
(オカルトサイトなんだから、本当なわけないだろうけど)
 真夜中の連絡だったのに、さすがはオカルトサイトの管理人というべきか、返信はすぐにあった。
 あの話はもちろん尾ひれのついた都市伝説ではあるけれど、実際に昭和の時代、長野県××市で引率者の女性一名と十二人の子どもたちがまとめて遭難する事件があった。その中にはもちろん引率者の女性の実子も混ざっており、生還したのは引率者の女性を含めてその実子と、四人の子どもたちの計六名になっていたそうだ。子ども連れで熟練者コースに挑み、遭難するなどとにわかに信じがたい話だし、遭難した山小屋の中のやりとりは定かではないが、実際に一晩ずつ子どもが姿を消した計算になり、死体は見つかっていない、との由。事件後、当然引率者の女性は姿を消した子どもたちの保護者から強く糾弾され、その後、雪山での出来事がトラウマとなっていたのか精神を病み、自殺している。
(もしこの話と玲くんを関連付けるとしたら……)
 長野県の××市。もしかしたら玲が遭難した場所も、その場所だったのかもしれない。
(そのときにかまくらを作って玲くんを守ってくれたのが、その引率者の人のないない様だったりしたら……玲くんは遭難したときに、その引率者の女の人を、――ないない様を連れてきちゃったってこと?)
 馬鹿馬鹿しい。ありえない。ありえるわけがない。それなのに、どうして考えずにはいられないのだろう。
(それでその女の人の幽霊は)
 ――ないない様は、ないない様です。いらないね、ないないしようね、っていう。
 ――僕が小さいころから一緒だから、小さい僕にあわせて、いらない、のことを、ないない、って言うようになったと思うんです。だから、ないない様。
(自分の子どもにそうしたように、玲くんにないないする相手を選ばせている……?)
 そこまで考えてぞっとした。だって、だって日名子は言われているのだ。三者面談の帰りに、喧嘩をして、玲を家から追い出したあの日に。
 ――日名子さんが、ないない様にないないされちゃう。
 玲とやりとりをするようになったばかりのころ、日名子はただひたすらに玲に愛情を感じ、庇護欲をそそられ、自分が守ってあげたいとばかり考えていた。この感情はなんだろうと、ずっと考えていた折に玲の母親が亡くなり、その気持ちが母性であることを知った。
 ――ないない様、最近お母さんのことをいらないねって言うんです。日名子さんがいるからもういいじゃない、って。
(ないない様は)
 ――僕を守ろうとしてくれているんですよ。
(玲くんの保護者を探してる。玲くんが誰かに、守られるように)
 だから玲の母親は、日名子という新たな保護者が現れたことによってないないされてしまった。風呂場で水に顔を押し付けられ、溺死。
(じゃあ、私も……)
 そんなことあるはずがない。そう思いながらも、こう考えればすべての辻褄が合うような気がしていた。
(新しい保護者が見つかったら、……ないないされちゃうの?)

   **

 その電話は、月曜日、梢が残業をしている二十一時過ぎにかかってきた。なかなか採点の終わらないテストの答案用紙と四苦八苦しているところ、携帯電話が急に振動した。
「おっと」
 バイブレーション機能だけにしてある携帯が着信を告げる音は夜の学校には不向きな音で、梢と同じく残業をしていた先輩教師から、じろりとにらまれる。
「すみません」
 軽く会釈をしてから、電話に出た。
「もしもし。張間くんの叔母様ですか」
『はい、伊崎先生。夜分遅くにすみません。今、お時間よろしいでしょうか』
「はい、大丈夫ですよ。私もちょうど、玲くんの保護者のかたとお話したいと思っていたところなんです」
 今はまったくそれどころではなかったが、ここまで残業してしまえばもう十分も二十分も関係ない。答案用紙を半ば放り出したような気分で、先日の玲との会話を思い出す。
(とは言え、いきなりないない様ってなんですか? なんて聞くわけにはいかないわよね)
『あっ……あぁっ……』
「どうかされたんですか?」
『いえ、あの、明かりが消えちゃって。大丈夫です、すぐにつけなおしますから。ちょっと待っていてくださいね……。これで……よしっと』
「明かりが? 停電かなにかかしら。大変ですね」
『ええ、それはもう……。それで先生、私、先生にうかがいたいことがあるんです』
「なんでしょう?」
『ないない様って、ご存知ですか?』
「えっ――」
 言葉に詰まった。まさか聞きたかったことを逆に聞かれるとは想定外出来事だ。
『玲くんの……、玲の口から、ないない様という言葉を聞いたことはありませんか? 最近でも、昔でもいいんです。なにか……』
「あります」
 梢は即答していた。
「実は私も、叔母様にそのことをおたずねしたいと思っていたところなんです」
『ああっ……、じゃあ、やっぱり……』
「あっ、その前に」
 梢は混乱した思考を引き戻すべく、なにがやっぱりなのか聞きたい衝動に駆られながら、先日玲の父親と話した内容を軽く報告しようと試みる。
「私、玲くんのお父様とお電話させていただきました。私立受験の件で。そのことについて、叔母様はお父様ともうお話し合いはなさいましたか?」
『今はそんなことどうだっていいんです!』
 キン、と耳鳴りのするような叫び声に、梢はびっくりする。
「す、すみません……。他に大事なご用事がおありですか?」
『ど、怒鳴ってすみません。……あの、私、実は玲くんの叔母でもなんでもないんです。ただの近所の住人で、ときどき玲くんの世話をしていたというだけで……』
「えぇっ? そうだったんですか?」
『はい。それで、あの……、あ、ああぁっ!』
「どうなさいました?」
『明かりがまた消えちゃって……。だ、大丈夫です、何度だってつけなおしますから。それで、あの……、ないない様についてなんですけど』
「は、はあ……」
 明かりが消えるとはどういう状況なのだろう。ブレーカーでも落ちたのだろうか。でも仮にそうだとして、こんなに頻繁にブレーカーは落ちるものだろうか。いったい玲の叔母を名乗っていた女は、今、どのような状況に置かれているのだろう。
『あの子はどういう話のときに、先生とないない様の話をなさいましたか?』
「それ、は……」
 ――ないない様は日名子さんが僕の保護者代理だからうまくいかないんだって言っています。……僕もそう思います。
 ――ないない様、先生がいてくれるなら、日名子さんのことはもういらないって。
 とても叔母本人の前で口にできる言葉ではなかった。
「それより、待ってください。あなたが叔母様でないのなら、いったいなぜ玲くんの面倒を見られていたんですか?」
『それは、いろいろ理由があるんです! それよりも教えてください、玲くんはどんなときにないない様の話を?』
 取り付く島もない。梢は渋々、叔母を名乗っていた女性に失礼ではないよう、玲から聞いたないない様の話をした。
「……ないない様は自分を守ってくれる、お母さんのような存在だと聞きました。……お母さんを亡くされた玲くんの、メタファーのようなものなのかと思っていたのですけれど……、違ったでしょうか?」
『お母さんのような存在……。そうか、だから女ばかり限定しているのね……』
「あ、あの、それがなにか……?」
『はい、たぶん、次はあなたかと』
「え?」
『次はあなたの番だと思うんです、ないない様のターゲット』
「ないない様の? あの、どういうことでしょう」
『信じられないかもしれないけど、どうか聞いてください。できればこれから言う話をメモして、忘れないようにしてください』
「え、えぇっ?」
『玲くんは、子どものころ雪山で遭難したことがあるんです。そのときに、ないない様を連れてきた……』
「は、はあ……?」
『雪山で遭難したとき、きっとないない様が玲くんを守ったんです。六歳の子どもひとりでは作れないようなかまくらを作って、玲くんを守った。そのときに、そのままついてきてしまったんだわ。ないない様という存在が』
「あの、なにをおっしゃっているのか意味がよく……」
『今はわからなくてもいずれわかります。あっ……ごめんなさい、明かりが消えちゃって。つけますね。ちょっと待ってください』
(な、なんなのかしら、この話……)
『もしもし。それで、話の続きなんですけど』
「はあ……」
『ないない様は玲くんを守っているんです。玲くんのお母さん代わりでいようとしている。どうしてそんなことをしようとしているのか、私には理由がわかりません。でも、事実なんです。だからネグレクト気味だった玲くんのお母さんを、私という保護者代理が見つかってから殺している』
「――殺す? なにをおっしゃっているんです?」
『玲くんのお母さんを殺したのは、ないない様だって言ってるんです! きっともうじき私も殺される……。ないない様に、ないないされる……! だって私、ちっとも玲くんの保護者として役割を果たせていないもん』
「少し落ち着いて――」
『その次はあなたです、伊崎先生』
「えっ……」
 話の内容はさっぱりわからなかったが、次は自分だと言われて、気分がよいはずがない。
『たぶん、推測でしかないんですけど、ないない様がお母さんの代わりだったら、お父さんはターゲットにならない、はず』
「な、なにをおっしゃっているんですか? どうして私が――」
『「遭難オカルト大全」というサイトを見てください。長野県で起きたスキー教室での子どもたちとの雪山の話が、きっとないない様です』
「落ち着いてください。さっぱり意味がわかりません」
『あ、ああああぁっ!』
 日名子の悲鳴に、梢まで一緒に縮こまる。
『また明かりが消えちゃって……。ごめんなさい、今度こそ消えないようにたくさんのキャンドルに火をつけますから。ごめんなさい、ちょっとだけ待っていただいても――』
「はい、かまいませんが……、あの、大丈夫ですか?」
『だ、大丈夫で……、あ、あぁっ! あっあっ』
 悲鳴とともに、音がいっきに遠くなった。日名子が携帯を投げ出しでもしたのだろうか。
『ああぁっ! ……ひ、火が……! 火が、火が……!』
「堺さん? どうかなさいましたか、堺さん!」

 ぎ……。

 ぎいあああああああああぁぁぁぁあぁぁ……。

 血も凍るような悲鳴とともに、電話が切れた。
(な……)
 リダイヤルしなくては。このまま電話が切れたなんて恐ろしすぎる。
(なに……?)
 それでもあまりに壮絶な悲鳴が耳に残り、しばらくの間、梢は身動きひとつとることができなかった。

#創作大賞2024 #ホラー小説部門

10

11


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?