ないない様 6話
6
帰宅途中もずっと無言だった。それでも自分の部屋に玲を招いたのは、日名子にとって最後の良心のようなものだ。途中で面倒になったからと言って、小学生を「立ち入り禁止」の規制線だらけの家には帰せない。
とはいえ帰途の間も日名子はふてくされていた。部屋に入るなり、
「役不足で悪かったね」
と、言った。
玲は若干うんざりとした様子で、日名子の顔を仰ぎ見る。
「だから、そういうわけじゃないんですけど」
「じゃあ、どういう意味で言ったの?」
まただ、と思った。前の恋人にもこういうところが面倒くさがられてふられてしまった。一度起きたいざこざを蒸し返して相手をなじる。日名子のよくない癖だった。とは言え、今回は日名子ばかりに非があるとは思えなかった。
「そんなに私は挙動不審だった? 悪かったわね、こっちは忙しい中必死で玲くんのために尽くしてるのに」
「仕事のあと、疲れてるのに協力してくれたのはありがたいと思ってるけど」
玲はひるまなかった。
「でも日名子さん、うそが下手すぎるよ。あんな面談なら日名子さんなんていなくてよかった」
「なっ」
ずっと、かわいそうでかわいい子だけだった玲。その玲にこんな生意気な返事をされて、日名子の怒りはいっきにバロメーターを振り切った。この子は本当はこっちが本性だったのだろうか?
「私だって好きでうそなんかついてたんじゃないよ! 私、もともとうそをつくことなんて嫌いだったんだから! 玲くんが勝手に私のことを叔母さんだって紹介しちゃったから、仕方なくそれにあわせてたんじゃない! だいたいこんなうそ、最初から無理があるのよ! そもそもどうして玲くんのお父さんはこんなうそ信じちゃうわけ? 玲くんの家庭、本当どうかしてる!」
「僕だってできればお父さんとはもっと早い段階で相談してもらいたかったよ。もちろん、叔母さんとしてね。お父さんは僕たち家族のことなんてどうでもいい人なんだ。日名子さんがうまくやってくれさえすれば、簡単にだませたのに、まさか伊崎先生さえだませないなんて」
「だませていないとは限らないじゃない!」
話が日名子のあさっての方向を向いていく。ちぐはぐな言い合いに、日名子はますますヒートアップしていった。
「日名子さんなんかいないほうがよかったとか言うけどね。こっちは百パーセント善意でやってるんだからね。玲くんがうちに来るようになって食費がいくらに跳ね上がったと思ってるの? 水道代は? ここは玲くんのうちとは違うの! この家の大黒柱は私なんだから!」
「日名子さんのごはんなんて、全然おいしくない。お母さんのほうがよかった」
「なっ……!」
怒りに歯止めが利かなくなる。
「私はね、玲くんとは関係のないただの一般市民なの。それなのにいつもあなたの心配ばかりしてきた。児童相談所に相談したほうがいいのかな、警察に玲くんをあずかってること、話したほうがいいのかな、お父さんにきちんと本当のことを話したほうがいいのかな、って! でも、これ以上生意気言うんだったら、もう面倒見てあげる理由なんてない。玲くんのためにお父さんや先生に、叔母だってうそつく必要もない。私立でもなんでも勝手に行きなさい。出て行って!」
「…………」
玲はじっと日名子を睨み付けている。日名子は玄関のほうを指差した。
「出、て、行、っ、て」
一言ずつなじるように言うと、玲はくるりときびすを返し、玄関へと向かった。一瞬、この子はあの「立ち入り禁止」のテープだらけの家に帰るのだろうか、それはあまりにかわいそうすぎないかと思ったが、ごはんをおいしくないとまで言われて、引き止める義理もないかと思い直す。
玲は靴を履いて、部屋を出て行った。バタン、と扉が閉まった瞬間、部屋の中が真っ暗になる。
「えっ……」
あまりのタイミングに、ぎょっとしてその場に縮こまる。
「れ、玲くん……?」
ちかっと電気がついた。と思ったら、また消えた。
(なにこれ? ブレーカーが落ちた?)
ちか、ちか、ちか。
電気がついて、消えて、ついて、消えて、ついて、消えて……。パノラマのように明るくなったり暗くなったりする視界。明るくなった瞬間、視界の影になにかがうつった。
……いない……
「え、なに? 玲くん?」
いらない、ない、ないないないない……。
だんっ!
「!」
黒い影が、ちかちかと点滅を続ける明かりの下でよぎった。
(後ろ?)
振り向いてみても、ついたり消えたりする電気の中ではうまく確認ができない。
……たったったった……。
(走ってる?)
ちか、ちか、ちか……。
だんっ! たったった……。だんっ! だんっ!
電気がついたり消えたりするせいか、めまいがしてきた。視界が安定しない。音のするほうをめぐってぐるぐると体の向きを変えても、それでも音の主は見つからない。
(こんなに狭い部屋なのに)
「玲くん、いたずらはやめて!」
叫んだ刹那、ぱっと電気が消えてしまった。もう点灯はしない。真っ暗だ。音まで急に吸い取られてしまったかのように静まりかえる。
(ブレーカー? どうしよう、携帯のライト……)
携帯電話は帰るなり放り出してしまったかばんの中だ。日名子は姿勢を低くして、手探りでかばんを探し始める。
と、そのとき。
「――――」
つるりとしたなにかに触れた気がした。そのなまあたたかさに、あわてて手を引っ込める。
つめたいものが転がっているのなら、わかる。けれど今触れたものは生々しいあたたかさをもったなにかだった。そんなもの、部屋の中に置いた記憶はない。
――だんっ!
もう一度大きな音が聞こえて、日名子はすくみ上がる。
とと、とととと……。
歩いている。先ほどからなにかが、地団駄を踏むように大きな音を立ててから、軽やかな足取りで動き回っている。
(こんなに狭い部屋なのに、どうしてなんにもぶつからないの?)
相手はこの暗闇など、意に介さないということなのだろうか。
「……誰かいるの……?」
問いかけた刹那、ぱっと電気がついた。
「!」
悲鳴をあげそうになった。目の前に玲が居たのだ。
「れ、玲く……」
「日名子さん、今なら仲直りしてあげます」
「え……」
今の怪現象はいったいなんだったのか、どうして玲が急に現れたのか、日名子は混乱していた。
「仲直りしましょう、日名子さん」
玲は抑揚のない声で言ってのける。
「じゃないと日名子さんが、ないない様にないないされちゃう」
**
仕事と言ってしまえばそれまでなのだが、梢は先日ちぐはぐな三者面談をした張間玲のことがその後、ずっと気になってしかたがなかった。
あの叔母は、どう見ても子ども扱うことに慣れていないようだった。それどころかもてあましているようにさえ見えた。そして玲も、叔母をあまり信頼しているようには見えなかった。
(それにしても異常だったわ)
挙動不審な保護者と、冷静な少年、そして母を殺されるという事件が起きてもなお、父親とまだ将来の話はしていないという事実。
(あのあと喧嘩になったりしていないかしら。私、余計なことしちゃったかしら……?)
「伊崎先生」
考え事をしながら廊下を歩いていた梢は、自分を呼ぶ声にはっと我に返った。
それもそのはず、自分を呼び止めたのはくだんの張間玲その人だったのだ。
「あの、先日はすみませんでした」
ぺこりと頭を下げる。もとが美少年だからか、小柄だからか、玲はそういった仕草がいちいち絵になって愛らしい。たくさんの生徒が入れ交う中、梢は玲と向き直って彼の視線にあわせるために膝を折った。
「そんな、謝らないで。三者面談をお願いしたのは先生のほうなんだから」
「でも……」
「あのあと、叔母様とちゃんと話せた?」
玲は黙って首を横に振る。
「……先生、僕、私立受験なんて無理ですか?」
「え?」
「今から受験なんて、やっぱり遅すぎますか?」
「それは……」
梢は慎重に、ひとことひとこと言葉を選ぶ。
「私立中学校を受験するということはね、とても大変なことなの。もちろん張間くんひとりの労力が……受験勉強だったりプレッシャーだったり、そういうので大変だってことはそうなんだけど、周りの人も張間くんのために一生懸命にならないといけないのよ。塾とかで支えたり、そのお金を出したり、他にもたくさん、大人がやらなくてはならないことがあるのよ」
「やっぱり僕ひとりの力じゃ無理ってことですか……?」
「実際問題、張間くんが今、叔母様やお父様の許可を得ていないんだったら、難しいと思う」
「先生がみかたしてくれたとしても?」
わずかに涙の張った瞳に、ぐっと見つめられた。こういうとき、美しい子は得だと思う。ひといきに答えられなくなってしまうからだ。
「……できる限り力になってあげたいとは思うわ。でも、でもね」
「じゃあ先生、お父さんを説得してください」
「えぇっ?」
「僕、今の学校みたいに、呪われてるなんて言われたまま中学生になりたくありません。全然知らないところで、ゼロからスタートしたい」
「張間くん……」
「あの、これ……」
玲はポケットからきれいに折りたたんだノートの切れ端を差し出した。
「お父さんの携帯番号です。僕が言っても聞いてくれないから、先生からお父さんに、私立受験のこと話してくれませんか?」
「な、なに言ってるの」
梢は仰天する。
「先生が話すより先に、張間くんがお父さんと話さないといけないでしょう」
「だめなんです。お父さん、僕のこと嫌ってるから、僕の話は全然聞いてくれないんです」
どんっと押し付けられて、梢は思わず父親の連絡先が書かれている紙を受け取ってしまった。
「ちょっと待って。先生にはね、第三者として介入できるラインが決まっているの。張間くんだけ、そんなふうに特別扱いできないわ」
「僕がお母さんを殺されたとしても?」
「えっ……」
心臓がひやりとした。玲のかたちのよい唇から、殺された、なんて物騒な言葉が出てきただけで、ひどくアンバランスだ。
「僕、特別な体験をしてしまったんです。だから誰かに助けて欲しい……。でも日名子さ……叔母さんじゃ全然頼りにならないから、だから先生にお願いしてるんです」
「は、張間くん……」
「お願いします」
ぺこりと頭を下げて、玲は去って行った。残された梢は、生徒たちが騒ぎながら通り過ぎていく廊下の真ん中で、ぽつんと立ち尽くすことしかできない。
(やっぱり自分が周りの子に『呪われてる』って言われてること、自覚あったのね)
(でも急に私立に行きたいなんて……そんなのお父様の転勤先でも別にいいじゃない。母親を失うなんて体験があの子になにか影響を及ぼしているのかしら)
(だとしてもこれは家庭の問題で、私がこれ以上首を挟む余地はないと思うけど……。今回の三者面談だって、本当はしなくていいものを、私が気になるから、という理由だけで開いてしまったものだったし)
(もしあの三者面談のせいであの子に火をつけてしまったのなら……、やっぱり責任は取るべきなの?)
「……梢。梢! こーずーえ!」
はっとした。車内のエアコンがぶおん、とひときわ大きな音を立てる。
「どうした、ぼーっとして」
洋介だった。梢は、洋介の黒のセダンの助手席に居たのだ。仕事終わりに洋介と遅い夕食をとった後に、彼の車で家まで送ってもらっている最中だったのだ。
「ごめんなさい、考え事してた」
愛車を運転するために、洋介はいつだって出先でアルコールを摂取できない。このときは梢だけが飲んで、ほろ酔いだった。
「なにか仕事で悩み事?」
「うん、そうなんだけど……。ごめんね、洋介には関係ないのに」
「あててやろうか。……こないだ葬式行った子のことだろ」
「! すごい、どうしてわかったの?」
赤信号に差し掛かったので、洋介はサイドブレーキを引いて車を停車させる。
「なんとなく。そういう子ってさ、一度問題が出てきたら、次から次へと問題なんて出てきそうじゃん?」
「そんなことないのよ、問題のない生徒なんてひとりもいないの。……でもね、洋介の言うとおり。あの子、お母さんを亡くしてから次々と問題を抱えているみたい」
「なんかあったのか?」
信号が青に変わったので、洋介が車を発進させた。
洋介がハンドルを切る傍ら、梢は今日あったことを話してみせた。もちろん、三者面談のことも含めて、だ。
小学校教師という職業は車通勤のものが多い。ひとところに家を買っても、転勤が多い職業なので電車では通いきれないことがあるからだ。それを含めて学校側も駐車場を用意してくれている。しかし、梢は電車通勤を貫いていた。――免許がないのだ。
子どものころ、父が車で事故を起こしたことがあった。幸い相手の命に別状はなかったものの、一生消えない傷が残り、やれ告訴だ、やれ裁判だとひどく場が混乱したことをおぼえている。あのとき、梢は誓った。自分は一生免許なんて持たない、と。
幸いにして車好きの婚約者ができた。洋介は運転することが好きなのか、どんな些細な用事でも梢を送迎してくれようとする。朝はお互い仕事への出勤があるため当然送迎はなしだが、夜、こうして遅くなると、外食ついでに送っていってくれるということが多かった。
「……それでつまり私、その男の子のお父さんを説得するよう頼まれちゃったの」
昼間、玲との間に起きた一部始終を語ってみせた梢は、ほうっと息をつきかばんの中をあさる。出てきたのは、玲から差し出された彼の父親の連絡先が書かれたメモ用紙だ。
「これがお父さんの連絡先なんですって」
「普通、教師がそこまでしなくていいだろ」
「でも、問題があるのなら問題があることを報告したほうがいいのかしら、と思って……」
「なんだ、もう答え出てるんじゃん」
「え?」
洋介はからからと笑った。
「問題があることを報告するために連絡する、って、お前もう答え出てんじゃん。だったらあとは電話するだけだろ」
こういう洋介のすっぱりしたところを、優柔不断な梢は愛していた。彼にそうだと背中を押されると、なぜか勇気がわき、そうね、そうだよね、という気分になる。
「でも私、ちょっと酔ってるし」
「その程度なら平気だろ。俺が邪魔なら家についてからかけたら?」
「ううん、今。今がいい。私が変なこと言ったら止めてね」
「いいけど」
洋介のおかげで元気が出てきた梢は、勇み気味で玲の父親にかけ始めた携帯電話を耳にあてた。
そのときだった。
いらない、ない、ないないないない……。
「?」
ぞくりとした。電話のコールは続いている。いったん電話を伏せてもなにも聞こえない。
「なにか言った?」
洋介にそう問いかけてみても、首を横に振られるばかりだ。
(空耳かしら)
『……はい』
知らない番号からの着信だからか、いぶかしげな男性の声が聞こえて、梢はあわてて神経を集中させる。
「もしもし、あの、張間さんの携帯電話でよろしいでしょうか?」
『そうですが、そちらは?』
「私、張間玲くんのクラス担任をしております、伊崎と申します。折り入ってお父様にご相談したいことがありまして……」
玲の父親はかなり怪訝な様子だった。息子のクラス担任から携帯に直に電話が来たのだから、不足の自体を疑うのは当然だろう。
(さっきの声は、きっと気のせい、よね)
そう自分に言い聞かせ、梢は玲の父親との会話に集中していった。
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