ないない様 1話

 いらない、ない、ないないないない……。

 堺日名子は飛び起きた。
 悪くはない朝だった。閉ざしたカーテンの隙間から差し込んでくる朝日は、宙に舞う埃にきらきらと光を反射させ、今日がすばらしい快晴であることを告げている。体温、気温もちょうどよく、ベッドの中は心地よく、このまま起きるのが惜しいくらいだ。
 それなのに胸のざわつきが止まらないのは、今も耳朶に残っている声のせいだろうか。
 夢の内容はおぼえていないのに、直前に響いてきた声だけがやけに耳に残っていた。ないないない……。単純な言葉なのにひどく不快な響きが印象的だ。いったいなんのことだろう。
 しばし目覚めた体勢のまま静止していた日名子だったが、すぐに自分には時間という制限があるということを思い出し、あわてて不安な気持ちを打ち消した。ただの夢だ。気に留めるほどのことでもない。
 日名子はベッドを抜け出して、アロマキャンドルだらけの部屋を横切り、クロゼットを開け、服を選んだ。顔を洗って歯を磨き、化粧をしてからかばんを引っつかんで部屋を出る。朝食をとるという習慣は、もうここ数年とんと記憶にない。扉の鍵を閉めたところで、はっとした。
 日名子が暮らしているのは、都心の中心部から電車で三十分弱のオートロック付き分譲マンションだ。エレベーターホールを挟んで片側がファミリー層に向けた物件、反対側が一人暮らし用のワンルームが並んでいる。日名子の部屋はワンルーム側の中央で、エレベーターホールに直に面しているものになる。
 そのちょうど真向かい、エレベーターホールに面したファミリー層向けの扉の前で、ひとりの男の子がぽつんと立っていたのだ。目の前の扉をいっしんに見続け、こちらに背を向ける少年の姿に、日名子の胸はどきっと高鳴った。
 吐く息が白い。季節はもうすっかり冬だ。
「お……おはよう」
 緊張しつつ話しかけると、少年がくるりと振り向いた。何度見ても驚くほどの美少年だ。女の子と見まがうほどくっきり二重の瞳は大きく、すっとした鼻梁、かたちのよい唇、細い手足はすらりと長く、身長はそれほど高くはないものの、近年増え続けるアイドルたちよりよほどそれらしいオーラをまとっていた。色素が薄く、天然ものだとわかる薄茶の髪が朝日に透けてきれいだった。
「おはようございます」
 少年は見た目以上に大人びた口調で言ってからぺこりと頭を下げる。自分の言葉に彼が反応してくれたことに、日名子はますますどきどきしながらエレベーター前まで歩み寄った。
「どうかしたの?」
 こうしてこんな不自然な時間に自宅の前でなんの荷物も持たず、ただ立ち尽くしているだなんて。と、いう意味をこめて言ったのだが、本来、ただのご近所さんでしかない自分がそこまで込み入った質問をするのは、いくら相手が子どもとはいえ失礼にあたるかもしれない。それでも聞かずにいられなかったのは、こういった場面を目撃するのがはじめてではないからだ。
「お母さんが、勘違いしちゃって」
 少年は少し緊張した様子でうつむいた。
「僕が学校に行ったって勘違いして、鍵を閉めちゃったんです」
「かばん、持ってないのに?」
「早とちりだから……」
「インターホン、押してあげようか?」
 そう問いかけたのは少年がインターホンを押せずにいるとわかっていたからだ。日名子の言葉に、少年はあわてて首を横に振った。
「いいです、大丈夫」
「でもそのままじゃ学校に行けないでしょう?」
「自分でやります」
「でも……」
「大丈夫です。お姉さん、遅刻しちゃいますよ」
 これ以上踏み込むな、と言われたような気がして、日名子は追及することができなくなってしまった。
「じゃあ……、気をつけてね」
「はい。ありがとうございます」
 後ろ髪を引かれる思いで、エレベーターに乗り込みボタンを押す。扉がしまってもなお、少年は自宅のインターホンを押そうとはしない。
(……張間玲くん、十二歳)
 表札と、これまでの何気ない会話の中から聞き出した彼の情報を胸のうちで反芻する。
(……どうかしてる、私)
 今年で三十になる女が、こんな風に、近所に住む少年のことを気にするだなんて。
(いくらあの子が……ネグレクト気味だからって)
 見たところやせてはいるが衰弱している様子もないし、関係ないと割り切らなくては、このせわしない世の中ではやっていけないはずなのに。
(どうかしてる、私。あの子のことが、……気になって仕方がないなんて)

 張間玲とはじめて言葉を交わしたのは、日名子がこのマンションに引っ越して間もないころだった。ちょうど、失恋した直後だ。
 二年付き合った彼氏にふられて、二十九歳というある種の人間には崖っぷちな年齢で捨てられたことのショックから立ち直ることができず、友人手当たり次第に声をかけて、会社帰りにのんだくれていた時期だ。
 同棲を解除するために引っ越さねばならなかったため、日名子は職場から三十分弱のこの分譲マンションを選んだ。もっと職場に近い場所に借りることも考えたが、最終的には家賃の安さの魅力が勝った。
 玲を見かけたのは、友人との飲み会の帰りに、終電で帰宅したときのことだった。飲みすぎてふらふらになりながらもなんとかマンションまでたどり着き、オートロックを解除してエレベーターで自宅のある階まで上昇したところ、エレベーターホールの前でひざを抱えて座り込む子どもの姿が目に飛び込んできたので、びっくりした。
『ど、どうしたの? 大丈夫?』
 一瞬、幽霊の類かと思ってどぎまぎとしたが、ひざに額を押し当てていた子どもが顔をあげたとき、その美しさを目の当たりにして、瞬時に警戒心は解けていった。同時にぐっと、心惹かれるものがあった。心臓が少年の立つほうへと引っ張られるような感覚だ。
 日名子が駆け寄ると、その子どもはわたわたとした様子で立ち上がった。
『なんでもありません。家の鍵を忘れちゃって』
『お父さんかお母さん、家にいないの?』
 立ち上がった少年の姿をまじまじと眺めてみる。服装から男の子かとわかったが、まだ変声期前だからか、小柄だからか、やせているからか、このとき年齢ははっきりとわからなかった。
『……いなくはないんですけど……』
 少年がちらりと家があるらしき方向を見た。その視線の先にある扉の横の窓からは、煌々とあたたかい光が放たれている。
『このおうち? なら、ピンポンして鍵を開けてもらいなよ』
『……インターホンを押したんだけど、気がついてもらえなくて』
 すばやく状況を把握した。この子はたぶん悪さか何かをして家から追い出されているのだ。けれど、そんなことがあってもいいのだろうか。昭和の時代ならいざ知らず、令和のこの世でこんなおしおきの方法があるなんて。
『じゃあ、お姉さんがお母さんに話をしてあげる』
『えっ』
 このとき、日名子は酔っていた。酔っていたからこそ、こんな大胆なことができたのである。
 日名子は少年が見ていた扉に近づいていって、インターホンを押した。ピンポーン、という軽やかな音のあとすぐに、女性が応じる。
『はい』
『恐れ入ります。近所のものなんですけど、おたくの男の子が家に入れなくなってしまったみたいで……』
『…………』
 しばしの沈黙のうち、無言のままインターホンは切られた。が、ややあって鍵を開ける音が響き、ゆっくりと扉が開かれる。
『……息子がご迷惑をおかけしまして』
 母親は、息子と似てぱっちり二重の美人だった。だが、いかんせん表情が暗すぎる。とはいえ、虐待をするようなすさんだ母親像とはかけ離れていた。オフホワイトのニットにグレーのスカートという出で立ちは、部屋着にしては丁寧すぎるくらいだ。
『いらっしゃい、玲』
 浮かない顔色の母親が少年を呼び寄せると、玲と呼ばれた男の子は子うさぎのようにぴょこんと跳ねて自宅の玄関へと駆け寄っていった。
『お騒がせして、すみませんでした』
 最後に頭を下げたのは、母親ではなく少年のほうだった。その言葉が終わる前に扉を閉ざした母親に、日名子は唖然とする。
(……ほ、放っておいたほうがよかったのかな……?)
 表札を見る。そこには張間、と苗字だけが書かれていた。
 先ほどの少年の、すがるようなまなざしを思い出す。日名子が玲の家のインターホンを押そうとしたとき、彼は確かに懇願するような視線をこちらへ送っていた。やめて、と。
 もし自分がかかわったことで彼が部屋に入れたのはいいものの、そのせいでさらにひどいことをされてしまったらどうしよう。そう思うと、酔いがいっきにさめていった。
 まだ引っ越して間もない部屋には、ちっともなじんでいなかった。荷解きさえ完全に終わっていない。かと思えば近所で虐待まがいのことがおこなわれている。なんだかひどく気持ちが沈んだ。それ以来あの少年、張間玲のことがずっと気にかかってならなかった。

 あの日以降も、頻繁に家から閉め出されている玲の姿を見た。三度目を目撃したときに確信した。これはネグレクトだ、と。
(見える場所にはあざはないし、ただ家から追い出されてる程度だから、虐待って言うと大げさかもしれないけど……)
 満員電車に揺られながら、日名子は今朝の出来事に思いをはせていた。あの子はあのあと、きちんと学校に行けただろうか。
 満員電車では女性専用車両に乗るように心がけていた。こちらのほうが乗車率が低いのだ。とはいえ、前に立つ女の持つかばんが、ぐいぐいと自分に食い込むことはいただけない。横に立った女のコートのフードについたファーが、鼻先をくすぐる。
 この電車はまもなく新宿に着く。新宿には日名子の職場があった。大手カード会社のコールセンター、日名子はそこで働く派遣社員だ。週に五日、月曜から金曜の朝九時から夕方六時まで、休憩は昼十二時から一時間。時給は千四百円、勤続三年据え置きの。派遣にしてはめずらしく交通費が出るので、自由に使える金額は少なくない。
(まあ、私が気にしてもどうにもならないし、なんにもできないんだけど……)
 電車がいよいよ新宿に滑り込もうとしていた。ここからは気持ちを切り替えて、次々とあがってくる利用客のデータをさばいて電話をかけなくてはならない。
(でも、なんであの子のことがこんなに気になるんだろう。普段の私なら、放っておこうって思えるはずなのに……)
 まさか恋? と思ったこともなくはないが、何分相手は小学六年生、十二歳だ。あの子に男性としての魅力を感じているかと問われれば、真っ先に否と答えられるだろう。
(どうしてこんなに……)
 電車がゆっくりと停車した。新宿駅に到着したのだ。扉が開いて、いっせいに人がおりはじめる。日名子もまたその流れに乗って、電車をおりる。
(あの子がつらい目にあうのを、避けたいって思うんだろう)

   **

 いらない、ない、ないないないない……。

 転寝をしていた張間由紀は、その声にはっと目を覚ました。
 ぞくぞくと寒気がする。こんな寒い季節に、夜勤明けにリビングのテーブルで転寝なんてしていたからだろう。
 ぼんやりと壁掛け時計を見上げた由紀は、時刻を見てすぐに現実に引き戻された。
 自分は今、息子を家から閉め出しているのだ。学校に向かうはずの息子と、些細なことで口論になって、かっとなり玄関から締め出してしまった。眠っている場合ではないし、ましてやいやな夢の余韻に浸っている場合でもない。
 先ほど見た夢の内容は覚えていなかった。ただ、いやな記憶だったと認識している。けれど、今朝方の母子喧嘩の内容はよくおぼえていた。
 きっかけはこうだ。息子が――玲が不気味なことを口走った。
『自業自得だよ』
 昨夜、由紀が看護師として勤める病院に、玲のクラスメイトが急遽運び込まれた。原因は高いところから飛び降りたことによる打撲、骨折。クラスメイトの少年は、骨が皮膚を裂く壮絶な痛みに、普段の悪がきっぷりがうそのように大泣きしていた。
 夜勤を終え、帰宅すると玲が学校に行くしたくをしていた。今日ねえ、あなたのクラスメイトの子が運ばれてきて大変だったのよ。なんの気なしに語った由紀に対して、玲は冷たく言い放った。
『自業自得だよ』
 驚いた。息子は、どちらかというと心根の優しい男の子だと思っていたからだ。確かに運び込まれた男の子は乱暴者で、近所の悪がきたちとつるんで玲を泣かせたことが何度かありはしたけれど……。
『自業自得って、そんなことあるわけないでしょう』
『だって昨日、僕のランドセルとって、中から筆箱出して放り投げたんだもん』
『いじめられたの? でもだからって自業自得なんてことは……』
『だってないない様がいらないって言ったから』
『え?』
『ないない様が言ったんだもん。あの子、自業自得だからもうないないしようね、って』
 かっとなった。
 由紀はトーストを焼いて食べていた途中だった息子の腕をつかみ、ずるずると引きずるようにして玄関から外へ追い出した。
『そんなこと言うんじゃないって言っているでしょ!』
 玲は驚きも、戸惑いもしていなかった。ただ激高する母を前に、ああ、またかと言わんばかりの表情をしている。それが余計に由紀の怒りを増長させた。
『反省しなさい!』
 そのままばたんと扉を閉ざした。閉ざしてから後悔した。ああ、また自分は怒ってしまった、と。
「ないない様」。それは玲があるときから口にするようになった、存在しないものの名前だった。
 言葉を話せるようになって少ししてから、玲はすぐに近所の子どもたちからつまはじきにされるようになった。性格が内気で、少しばかりしつこいところがあるので、ほかの子からすれば疎ましいのだろう。由紀自身も幼いころいじめられた記憶があるので、やっぱり親子なのだな、これを何度か繰り返せばきっと処世術を学んで強くはずだから、となるべく玲に怪我が及ばないよう、親として遠巻きに眺めていたのだが。
 ――ないない様がいらないって言った。
 玲がそう指し示す子どもが、次々と怪我をすることを、知っているのは由紀だけだ。
 玲をいじめる子が、玲が指差した次の瞬間、転んで怪我をする。そんなことが数回繰り返されたと思ったら、玲を滑り台から落とした子が、交通事故にあって入院することになったと知った。たまらずに、由紀は問いかける。
 ――ないない様って、なに?
 ――ないない様はないない様だよ、いらないね、ないないしようねって言う……。
 ひどくかっとなった。
 由紀はどちらかというと温厚なたちで、人に怒るなんてことは少なく、わが子に対してもそうだったのだが、このときはなぜか、自分でも制御できないほどの怒りにかられた。
 ――もう二度とないない様なんて言っちゃだめ!
 明確な目的なく、子どもに手をあげたのはこのときがはじめてかもしれない。たたかれた玲は、とても驚いた顔をしていた。何が悪いのかわかっていない顔だ。
 しかしそれ以降も玲は時折、ないない様と口走ることがあった。そのたびに由紀が激高してたたいたり、家から閉め出したりしていたのだが……。
(あのときから、あの子はおかしい)
 でも、誰が信じてくれるだろう。夫さえも荒唐無稽だと馬鹿にした由紀の話を。
 うんざりした思いで時計を見ると、八時間近になっていた。
(もうすぐ学校に出さないと間に合わない時間……)
 由紀はのろのろと立ち上がり、リビングから玄関へと向かった。ふと玄関の扉の向こうから話し声がすることに気づく。
 くぐもって聞きづらいが、玲が誰か女性と話しているようだった。由紀はそっとのぞき穴から外の様子をのぞき見る。
 女には見覚えがあった。彼女が越してきたばかりのころ、締め出していた玲に同情して家に入れるよう進言してきた女だ。近所の住人は由紀が玲を外に締め出すことを黙認してくれている。そのことになれてしまっていたためか、おたくの男の子が家に入れなくなってしまったみたいで、という女の言い分はもっともすぎて、由紀にうしろめたさを抱かせるには充分だった。ろくに挨拶もせずに初対面を終えてから、以来ずっとまともに目を合わせることができなくなっている相手。
 その女が、またしても玲と会話をしている。ひょっとしてインターホンを押してくるだろうか。そうされたら自分はどう対応したらいいか。
 などと悩んでいるうちに女は立ち去り、玲はひとりとなった。ほっと胸をなでおろし、玲にかける言葉を考えながら扉の鍵をあけようとした。すると。
「っ……!」
 手の甲に鋭い痛みが走って、思わず腕を引く。見ればそこにはぱっくりと、まるで鋭い刃物で掠め切ったような怜悧な傷が開いていた。しもやけより何倍もひどいそれは、まるで今まさに皮膚を裂いたばかりと言わんばかりに血で傷口をてらてらと光らせている。にじみ出る血液に、由紀はふと数時間前に搬送されてきた玲のクラスメイトの少年の怪我を連想した。
 ぞくりとした瞬間、ピンポーン、とインターホンの音が響き渡った。
 心臓が口から飛び出るほど驚いた由紀は、恐る恐る、震える手でのぞき穴をのぞいた。
「お母さん、ごめんなさい。家に入れて」
 玲ひとりだけがのぞき穴からは見えた。由紀はまだ鼓動を刻む心臓をなだめるようにしてそっと鍵を開け、息子を迎え入れる。
「ごめんね。お母さん、かっとなっちゃって」
「ううん、大丈夫。僕、学校に行くね」
 いい子だ。反抗らしい反抗もせず、いじめられても泣くだけでやり返しはせず、息子はとても優しい子に育ったと思う。そんな子どもを家から閉め出していたなんて……、と考えると罪悪感に押しつぶされそうになるのだが、玲の口からないない様と聞くだけで、由紀は感情をコントロールできなくなってしまうのだ。
「あれ、それ……」
 由紀の手の怪我に気づいた玲が、怪訝そうに眉根を寄せた。由紀はあわてて、なんてことない、と言うように手をひらひらと振ってみせる。
「いつの間にか切っちゃってたみたい。気をつけないとね」
「うん……」
 玲はなにか言いたいことを抑えるようにしてから、口を開いた。
「お母さん、怪我には気をつけてね」

#創作大賞2024 #ホラー小説部門


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