ないない様 4話

 慣れない礼服に身を包み、安い黒のパンプスのヒールをこつこつと鳴らせながら、日名子は雨の中、ビニール傘を片手に葬儀場へと急いでいた。
(溺死だなんて)
 たくさんの人から断片的に聞いた言葉を思い出す。玲が日名子の家に宿泊した翌日、家に帰ったら母親が浴槽に顔を突っ込んだまま静止していて、あわてた玲が救急車を呼んだところ、警察までやってきて溺死と断定したそうだ。
 そのことを日名子が知ったのは、玲を泊めて家に帰した翌日の夜過ぎだった。外が騒がしいなと思ったら、警察が張間由紀が死の直前、最後に電話していた人物として事情をたずねに電話をかけてきた。なんでも張間由紀はいざというときにのために玲にロック番号を教えていたらしく、すぐに着信履歴が見られたのだとか。すぐ近所に住んでいるのでと告げて現場に向かったところ、由紀の遺体はすでに片付けられており、たくさんの警察が入れかう中、ひとりぽつんと所在なさげに立ち尽くす玲の姿が目に入った。なまじ見た目が麗しいためか、そのあまりの寂しげな様子に、すぐ駆け寄っていって、大丈夫だとよ言って安心させてやりたいと衝動に駆られた。が、玲と話をするよりも先に刑事だという男につかまってしまった。
 日名子はありのままを語った。
『玲くんを……、亡くなったかたの息子さんを、うちに泊めたくて、それで連絡したんです』
『息子さんを? どうしてまた……。失礼ですがおふたりの間には、友達と言えるような接点があるようには思えませんが』
『私も、あの子を友達だと思ってはいません。ただ、亡くなったかたが……その、よく玲くんを外に追い出していることがあって』
『外に? それはどういうことですか?』
『ふたりの間にあったことは、わかりません。でも私は、ネグレクトだと受け取っていました。それで私、ときどき晩ごはんをあげていたんです。最近はお母さんに怪我が続いているから大変だって聞いて、その、自分のことを家から追い出すようなお母さんとふたりきりの、気詰まりな家に帰るよりはうちに泊まらせたほうがいいかなと思って……。それで、玲くんの友人の母親だとうそをついて、宿泊の許可をもらったんです』
『そのとき、相手になにか不振な言動はありませんでしたか?』
『わかりません。私は亡くなったかたと、ほとんど話をしたことがないので、普段と変わった様子があったかどうかは……』
『そうですか……。では事件が起きた時間、これは昨夜の夕方ころになりますが、そのときあなたは息子さんと一緒に自宅にいた、ということで間違いありませんね』
『はい。あの……』
 日名子は若干パニックになりながら、刑事に問うた。
『私、なにか罪になりますか? 玲くんには、ごはんをあげたり、宿題を手伝ってあげたりしていただけなんです。でも、保護者の許可を得たのは昨日がはじめてでした。やましいことはなにもないんです、ただご両親の許可を得ていなかっただけで。でも、これ……、未成年者保護的な類の、なにか罪になりますか?』
『落ち着いてください、境さん。その件に関しては、児童相談所の者と話し合ったほうがいいでしょう。今、あの子の父親と連絡を取っています。児童相談所の者と話し合うかどうかは、あの子の父親次第ということになります』
『あの、でも……』
 なにかを言おうとして、言葉がまとまらずにまごついている日名子の話を、刑事はそれ以上聞き入れようとはしなかった。
『またなにかおうかがいしたいことがあったらご連絡させていただきます。そうなった場合、捜査にご協力いただけますね?』
『は……』
 疑われている、と真っ先に感じた。当然だ。なんの接点もない女が、張間由紀の死の直前に電話で会話を交わしているのだから、疑うなというほうが無理な話である。
(私、なにもしていない! 犯人なんかじゃない!)
 思ったが、とにかくわけがわからなくて、日名子は力なくこくりとうなずくことしかできなかった。
『はい……』
 それ以来、玲とは接触できずにいる。いったいなにがどうなったのか、さっぱりわからないままに一晩たった。明くる翌日、日曜日で会社が休みなので玄関をほんの少しだけ開けて、警察の動きに耳を済ませていたところ、中年らしき女性の声が響いてきたのだ。
 女はどうやら亡くなった張間由紀の同僚の看護師らしかった。玄関前で見張りをするように立つ警官へ、花を手向けたいと相談し、現場を維持したいから、という理由で断られていた。それでも食い下がる女性に、警察はしばし問答した後、今夜通夜があって、葬儀は明日だと答えていた。それを聞いて日名子は、翌日である月曜日に忌引きを取ることに決めた。
 そうして、今。礼服に袖を通し、振り出した雨の中、日名子は張間由紀の葬儀会場へと向かっていた。警察に疑われたことは心外だったが、あれ以来特に捜査の協力を求められるわけでもなし、日名子は冷静さを取り戻しつつあった。
 亡くなった張間由紀とは、警察に話したとおりあまり面識がない。それどころか、玲を虐待する悪い母親という印象しか抱いていなかった。葬儀に参列していいものか悩んだが、あれ以来玲と話せていないことが気がかりで、一か八か、玲と話すことができればと思い、礼服と袱紗を引っ張り出してきたのだった。
 葬儀会場は近所のセレモニーホールだった。たくさんの人が張間由紀の死を悼むために列を成している。日名子もまたその列に混ざり、焼香のときを待った。
(まさか、まさかだけど)
 ――ないない様、最近お母さんのことをいらないねって言うんです。
(……まさか、ね)
 かばんには入れず、あえてポケットに入れてきたそれをぎゅっと握り締め、日名子はやがて焼香のときを迎えた。
(――居たっ!)
 喪服の玲が見えた。棺を前に左右に並ぶ椅子のうち、一番母親に近い場所に座っている。隣には父親らしき男性の姿があった。玲とはあまり似ていなかったが、やせている点は共通していた。ふたりとも泣いてはおらず、ただ悄然と目の前を眺めている。
(玲くん、こっち見ろ、こっち見ろ……)
 念じながら、なるべくゆっくりと焼香を済ませる。見ろ、見ろ、見ろ……。視線を送っているとその違和感に気づいたのか、去り際にちらり、と玲の視線が日名子へと向いた。
(玲くん、こっち!)
 軽く手招きすると、玲はあわてた様子でこくこくとうなずいた。隣に座る父へと耳打ちして、焼香を終え列を去ろうとしていた日名子のほうへと駆け寄ってくる。
 日名子は自分のもとへと走ってきた玲の手を引き、ひとけのない場所まで歩いた。完全に無人とはいかなくとも、人の出入りが少ない場所に出ていってから、くるりと玲へと向き直る。
「玲くん、大丈夫?」
「日名子さん……」
 玲は涙こそ流してはいなかったが、ひどく疲れている様子だった。母親が死んだのだから当然だろう。きっとここ二日、ろくに眠れもしなかったはずだ。かわいそうに。
「こんなことになっちゃって大変だったね。大丈夫? どこか具合悪くしてない?」
「大丈夫です。あの……日名子さんこそお母さんのせいで疑われちゃってごめんなさい。僕、すごく迷惑をかけてたんだって反省して……」
「そんなことないよ、私は全然大丈夫。それよりも玲くん……、これからどうするの?」
「お父さんは……」
 玲はもごもごと言いよどむ。
「お父さんは、僕がひとりで生きていけるわけないからって、お父さんの単身赴任先に来るように言っています。でも、引っ越すにしても家を片付けないといけないし、それに……」
「それに?」
 促すと、玲はいよいよ堰を切ったように泣き出した。
「僕、引っ越したくありません。誰かと仲良くなれたのなんてはじめてなのに……。僕、日名子さんとお別れしたくないです」
「――玲くん……」
 この感情は友情なのか、愛情なのか、よくわからなかった。強いて言うのなら母性が一番近いかもしれない。いずれにせよ、それでも玲の涙は迷っていた日名子の決断を後押しさせるには充分すぎるものだった。同時に直感した。自分の役目はこの子を守ることだ、と。
「玲くん、これ」
 日名子はポケットから取り出したそれを――銀色の鍵を、玲に向かって差し出した。
「これ、私の部屋の合鍵。すぐに引越しはしないんだよね? だったら、寂しくなったらいつでもおいで。毎日でもいいから」
「でも、でも……」
「いいの。私も、せっかく玲くんと仲良くなったのに離れたくない。また一緒にごはん食べたり宿題したりしたいよ」
「日名子さん……」
 玲は感極まったように息を吸い込み、ゆっくりと吐き出してから、日名子の手から鍵を受け取った。そうして砂糖菓子がほろっと崩れるように、はにかんで見せる。
「ありがとうございます」
「――あら、張間くん」
 ふたりの世界に浸っていた日名子と玲は、その声によって我にかえった。
 そこには喪服姿の女性の姿があった。すらりと細身で背が高く、長い黒髪を後ろで束ね、垂れ目で優しそうな面差しをしている。年齢は、二十七、八ほどだろうか、日名子より少し若く見えた。
「今、ご焼香に行こうとしていたところなのよ。ちょうどほかの先生たちとはぐれちゃったところなの。こんなところにいて大丈夫?」
「先生……」
(先生?)
「いろいろ大変だったわね。ちゃんと眠れてる? ……あら、そちらは?」
「お――叔母です」
 答えたのは玲だった。日名子は一瞬ぎょっとしたが、すぐに親しいご近所さんです、と説明するよりは、親戚だと説明してしまったほうが話は早いかもしれないと思い直した。うそをつくことに若干の後ろめたさを抱きながら、日名子は女に向かって頭を下げた。
「は、はじめまして。本日はわざわざ、ありがとうございます」
「いえ、とんでもない。このたびはまことにご愁傷様でした。私、玲くんの担任の伊崎と申します」
「ああ、いたいた、伊崎先生」
 ちょうど伊崎が言ったとおり、はぐれていたらしき教師陣がこちらへどかどかと近づいてきた。そこでもまた挨拶を求められ、日名子はもはや自分が玲の叔母であるといううそを貫き通しながら挨拶をした。
(ま、いいか。実際に叔母さんの立場のほうが、玲くんを守るのに都合がいいかもしれないし)

   **

 その叔母と名乗る女が、もし近所に住んでいてくれていたら、玲は引っ越さずにすむかもしれない、と伊崎梢は焼香をあげながら考えた。
 具体的にどうとは言いがたいが、女と玲の間には形容しがたい親しさのようなものが漂っていた。もし彼女が独り身で、甥っ子の面倒を見ることをいとわないのなら、母親を失ったばかりの彼を支えてくれることができるかもしれないと思った。
 張間玲は不思議な少年だった。成績優秀で、優等生。それなのに、時折大きな問題の中心に居ることがある。
「伊崎先生、このあとはどうされますか」
 焼香を終えて同僚たちと葬儀場を後にしていた梢は、先輩教師の問いかけに我に返った。
「お帰りは電車ですか? それとも学校に戻られます?」
「いえ、帰ります」
 言ってから梢は深々と頭を下げた。
「今日はどうもありがとうございました。うちのクラスの子のために……」
 教師という職業は、外側から見るよりもずっと多忙なのだ。忙しい中、梢の担当するクラスの生徒の保護者の葬式というやっかいな行事に付き合ってくれたこと、心から感謝する。
「いやいや、伊崎先生は悪くありませんよ。というか、誰も悪くない。張間くんもかわいそうに、あの歳で親を亡くすなんて……」
「すみません。実はこのあと約束がありますので、ここで失礼してもよろしいでしょうか?」
「ああ、そうなんですか。それでは、また明日」
「はい、また明日」
 またしても深々と頭を下げる。同僚たちの背中が見えなくなってから、梢は携帯電話の画面を確認した。新着メッセージが一件。
『西口に到着。バスロータリーで待ってます』
 葬儀場に来たときは降っていた雨も、今ではすっかりやんでいた。濡れた傘を片手に梢はいそいそと指定された駅前のバスロータリーへと向かう。
 円形状のロータリーに、バスにまぎれて黒のセダンが一台停まっていた。バスに囲まれて窮屈そうだ。梢はあわてて車へと駆け寄っていき、助手席のドアを開ける。
「ごめん、待たせた?」
「全然。今来たとこ」
 運転席で、婚約者の洋介が笑う。その笑顔にこれまで緊張していた気持ちがほぐれていって、梢はつられて微笑みながら車へ乗り込んだ。
「大変だったな。生徒の保護者の葬式なんて」
「大変なのは私じゃないわ、保護者を亡くした生徒のほうよ」
「それはそうだけどさ」
「こわい事件だったみたい。お母さん、溺死で、殺人なんですって。お風呂場で殺されていて、その時間帯に生徒が家にいなくてよかったって、みんな言ってた」
「本当にこわいな、それは」
「でもね、なんていうか……。そういうの、納得しちゃう生徒なのよ。特別なの」
「なんだ、それ?」
 洋介が車を発進させた。梢はあわててシートベルトをしめる。
「なんていうか……、不思議な雰囲気のある子で。普段はとてもおとなしいんだけど」
「なにか問題なのか?」
「問題というわけじゃないの、でもね……。去年も私が受け持った子なんだけど、クラスの悪い子たちがね、林間学校のキャンプファイヤーで使う薪を使って、ちゃんばらごっこをしていたことがあったのね」
「ちゃんばらごっこ? それってその特別な子と関係あるのか?」
「あるの。その悪い子たちはね、張間くんを……、その特別な子をしょっちゅういじめていた子たちなの。いじめって言っても、まあ、仲間はずれにしたり、黒板に悪口を書いたりする程度だったんだけど」
「ふぅん」
「それでそのちゃんばらごっこの最中に、そのいじめの主犯格の子が怪我をするのよ。ちゃんばらしていたら薪が割れて、それが飛んでいって主犯格の子の腕をえぐっちゃって」
「ええーっ。そんな勢いのあるちゃんばらごっこだったのか?」
「小学生男児の体力を甘く見ちゃだめよ。結構、力あるんだから。ことに遊びにかける情熱なんて半端ないんだからね」
「で、それがその特別な子とどう関係するんだ?」
「それがね。どうしてそんなことをしたのか問い詰めたら……、ちゃんばらごっこをしていた子たち全員が、張間くんが悪いって言うの。張間くんのせいで薪が割れた、って」
「そんなことできるのか?」
「できるわけないじゃないの。怪我をした子たちもね、根拠があって言っていたわけじゃないのよ。ただ張間くんの気配がした、あの場に居た気がする、っていうだけで」
「なんだ、それ?」
 赤信号に差し掛かったため、車が一時停止する。洋介は、車自体にこだわりを見せることはなかったが、車を持つということにこだわりがあるようだった。付き合い始めてからというもの、なにかにつけて梢を送迎してくれる。車がなければ移動がままならないほどの田舎町ではなかったが、洋介は車を持つことを一種のステータスだと考えているようだった。そういったところを、男のささやかな見栄のようでかわいらしいな、と思う。
「張間くんを呼び出して問いただしてもね、当然、ちゃんばらごっこになんてかかわってないっていうの。薪には手も触れてない、って」
「そりゃそうだ」
「でもそうやってね。本人はなにもしてないのに、揉め事の中心に引っ張り出されることがある子なの。……普段はとてもいい子でね、いじめについて呼び出してみても『大丈夫』『いじめられるには自分に原因があるはずだから、自分たちで解決できるようにする』って言うようなけなげな子なんだけど」
「それで特別な子?」
「そう。今回のお母さんのことも、張間くんのお母さんならそういった事件に巻き込まれてもおかしくないなって思えるような……、そういう不思議なところがある子なの」
「なんだかなあ」
 あまり興味のなさそうな洋介に、これ以上話す必要はないと思ったので黙っていたが、張間玲にはほかにもおかしな出来事が付きまとっていた。教師である梢の目に余るほどのいやがらせが、時折玲の身に起きたとする。そうすると必ずと言っていいほど、加害者が怪我をするのだ。そうしてぴたりといやがらせをやめてしまう。そのせいで玲は、「呪われている」だなんて噂をたてられていた。
「でも、なんだか親しい親戚がいるみたいだし、少し安心した」
「親しい親戚? ああ、葬式で会えたのか?」
「そうなの。叔母さんだっていう女の人ととても仲がよさそうでね。お父さんが単身赴任中だとは聞いていたから、もしかして転校しちゃうかもと思ったけど、そうならないといいな……」
「ずいぶん肩を持つんだな」
 揶揄するように、洋介が言った。
「お前がそんなにひとりの生徒に入れ込むなんて、はじめてじゃないか」
「あら、そういえばそうかもね……」
 でも。
「なんだか気になっちゃうのよ。やあね、私。贔屓しちゃわないように気をつけないと」

#創作大賞2024 #ホラー小説部門

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