ないない様 5話

「ただいま、玲くん」
「お帰りなさい、日名子さん」
 日名子の狭い部屋に、玲がいる。それだけで帰宅するときのテンションがこんなに変わるだなんて。
 これまで玲が日名子の部屋に遊びにくるときは、日名子の帰宅を玲がエレベーターホール前で待っているといったのだったが、合鍵を渡して、学校から帰ったら真っ先に入っていい、と伝えてからというもの、玲は言われたとおり日名子の部屋で日名子の帰宅を待つようになった。
 これまで母親のせいで家を追い出されていたのだから、その母親がいなくなった今、玲は本来の自分の家に帰ってもなんの問題もなかったのだが、家には警察が用意した黄色いテープ、「立ち入り禁止」の規制線がたくさん張ってあったし、当然まだ警察の出入りはあるようだったし、六年生とはいえ小学生男児を殺人のあった家にひとりきりにするなんて、と日名子はこれまでどおり玲を家にあげていた。
「今日のごはんは、とんかつだよー」
「日名子さんが作ってくれるんですか?」
「もちろん!」
「わあ、ありがとうございます!」
 たったこれだけのやりとりなのにこんなに楽しい。この感情はいったいなんなのだろう。
 これまで自炊なんてめったにしなかったのに、今や玲が喜ぶからという理由で料理をはじめていた。これは愛だの恋だの、甘い感情ではないと思う。なにせ相手は十二歳だ。自分は彼の母親といってもおかしくない年齢なのである。
 そう、母親。そうたとえるのが一番しっくりくるような気がしていた。
(玲くんを見てると、私がこの子を守らないと、って思うんだよね。この子の思うようにしてやりたい、っていうか、この子のためになんでもしてやらないと、っていうか……)
 実際に日名子は、玲をこうして再び家に招くことで、玲の父親に対して大きなうそをひとつ、ついていた。

 数日前。葬儀の途中で抜け出していた玲と日名子は、ふたりでいるところを彼の父親に目撃された。ちょうど、玲の担任教師と別れた直後だった。
『そちらは……?』
 父親は、玲に向かってそうたずねた。そちら、が指し示すのは日名子のことだ。
『お、叔母さんだよ、お父さん。お母さんの妹の日名子さん』
『!』
(な、なんて大胆なうそをつくんだ、玲くん……!)
 玲の父親は、おとなしい玲に輪をかけたように物静かそうな男性だった。玲はどちらかといえば亡くなった母親似なのだろう、玲のように目だって美形ということはなかったが、それでも目鼻立ちは整っており、高身長だった。
『ひなこ、さん……?』
 父親の怪訝なまなざしに、冷や汗が出る。自分は彼の名前すら知らないのに、なんと彼の妻の妹だということになっている。
『そうですか……。それは失礼しました。まさか由紀の葬儀にご家族のかたが来てくださるなんて』
(えっ)
 ありえもしないうそがまかり通ってしまったことに、日名子は仰天した。玲がちょんちょんと日名子をつついて、耳打ちをする。
『うちのお母さん、自分の家族と仲が悪かったんです』
(えぇーっ)
 そんな家庭があるものかととにかく驚いた日名子だったが、玲の父親はまるで疑うそぶりも見せずに日名子へとたずねる。
『ご近所にお住まいなんですか? 由紀とは連絡を?』
『ええと、あの……』
 しどろもどろに、日名子は答える。
『最近、同じマンションに引っ越してきまして……偶然。それでその……、姉が、忙しいようなので、ここのところは、わ、私が玲くんの面倒を、見ていたんです』
『そうだったんですか? 由紀はそんなこと一言も……』
 そこまで言ってから、玲の父親は自嘲めいた笑みを浮かべた。
『ああ、でも、私のほうは由紀とは最近ほとんど連絡を取っていませんでしたから……。玲を見ていてくださって、ありがとうございます』
『お父さん、僕、今の学校を転校したくない』
 突然割って入った玲の言葉に、日名子も父親もぎょっとする。
『今の家なら、叔母さんが僕の生活を手伝ってくれるって。だから僕、お父さんの単身赴任先に行きたくないよ。せっかく友達ができたのに』
『玲。そういうことは、こういう場でするものじゃない』
『じゃあどういうところですればいいの? ここにはせっかく日名子さんもいるのに』
『お父さんは喪主だから、もう戻らないといけない。ええと、日名子さん……でしたよね。連絡先を教えていただいてもいいでしょうか?』
 喪服のポケットから携帯電話を取り出した彼に、日名子はこわごわながらも自分の携帯電話番号を告げた。父親は日名子の番号に一度だけコールした後、電話を切った。
『今のが私の番号です。玲のことについて……、またお電話させていただきます』
『は、はい……』
 そう言って玲の父親は姿を消した。彼が立ち去ってから、どっと疲れがのしかかってくる。
(私、うそつくの、向いてない……!)

 玲の話によると、父親は葬式のあと一日だけこちらのホテルに宿泊したそうだが、その翌日には仕事があるからとすぐに単身赴任先に戻ってしまったそうだ。
(奥さんが誰かに殺されたかもしれないのに、その家に息子をひとりで残して仕事に行っちゃうなんて!)
 殺人のあったマンションと同じ建物に暮らしているなんて、と本来なら自分のほうが怖くなってしまいそうなものだったが、このときは違った。玲への庇護欲のほうが勝ったのだ。
 またなにかあったら連絡する、と言っていた警察は、あれ以降とんと連絡してくる気配を見せなかったし、それは玲の父親についても同様だ。
 まるで世界から、玲だけがぽつんと忘れ去られてしまったみたい。
(私だけはそんなことしないぞ。いくらうそつくのが心苦しいからって、玲くんをこんな危ないところで手放したりしない。お父さんにはいずれ本当のことを話さないといけないかもしれないけど……、玲くんのお母さんを殺した犯人がつかまるまでは、玲くんをしっかり守らないと)
 けれど……。そこまで考えてふいに不安に思う。
(でもそのあとは、どうしよう? ていうか殺人犯ってどのくらいの期間でつかまるんだろう。私、どのくらい玲くんの叔母だってうそついていればいい?)
 根が小心者の日名子は、さっそくうそをついたことに対して罪悪感をおぼえていた。玲をあずかることはいいが、このうそをいつまでつき通さなくてはならないのだろうと、不安をおぼえる。
 玲にしてみても、今はまだかわいいだけですむかもしれない。けれどここから二年、三年と経っていったら? 自分が十二歳のときにはずいぶんませていたものだが、男の子にいたってはどうだろう。
(なんにせよこの子のお父さんには本当のことを言ったほうがいい気がする……。連絡してこないのが、なんだかこわいし、こっちから連絡するつもりにもなれないけど……)
 ただ楽しいだけではない玲との生活に、将来の不安を抱いていると、いつの間にか隣に玲が立っていた。
「わっ。どうしたの」
「日名子さん、これ……」
 玲が差し出したのはA4サイズのプリントだった。パン粉のついていた手をぬぐい、受け取ってみると、そこには「三者面談のお願い」とある。
「これ、先生が、僕だけ特別に、って。今回のことがあったから話し合いたい、って……。あの……お母さんの代わりに、日名子さんにこれ、お願いしてもいいですか……?」
「お……、叔母さんとして、ってこと……?」
「はい、叔母さんとして」
(うわー……)
 日名子の笑顔が引きつる。
(早速、大ミッションがきたぞ……!)

   **

 張間玲の三者面談は、梢にとって業務の一環ではなかった。
 母親を殺人で失うという、普通の子どもなら経験しなくてもいい経験をしてしまった玲の、その後の心のケアが心配だったのだ。以前の三者面談で母親から、父親が単身赴任で息子とふたり暮らしであることは聞いていたが、母親を失った後、どうなったのだろうか。父の赴任先に転校していくのだろうか、しないのだろうか。それを知るために玲の保護者と玲と三人で面談をしようと決めたのである。
 梢は、今、玲が家庭でどのような状況に置かれているかを知らない。殺人の起きた家に住み続けているのか、それともあの叔母が引き取ったのか、あるいは父親が帰ってきているのか。わかることは、玲が毎日学校に来るということだけだ。ということは、引っ越さないのだろうか?
 三者面談のお知らせ、と用意したプリントに、保護者の都合のいい日程を書いてもらった。書きとめた人は勤め人らしく平日昼間は全滅で、かろうじて水曜日の十九時半からなら、と記載があった。二十時近くまで残っていることの多い梢としては、まったく許容範囲内の時間帯だ。一番近い水曜日でお願いします、と返事を玲に持たせてアポイントをとった。
 やがて迎えた水曜日。職員室で業務を片付けていた梢の元に、玲と、葬儀場で見た玲の叔母を名乗る女性がやってきた。

「本日はお忙しい中、ご足労いただきましてありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ。予定が合わなくてすみません……」
 玲の叔母、堺日名子は、ずいぶんと挙動不審に見えた。きょろきょろと目は泳ぎ、視線が合うとすぐにそらされる。落ち着かずに指先をそわそわと動かしていた。
「どうぞ、おかけください」
 玲と日名子を通したのは教室ではなかった。普通の三者面談のときは教室を使うものだが、今日に限っては次が控えていることもないし、生徒指導室を使わせてもらうことにしたのだ。
 並んで座る玲と日名子に、向かい合うようにして梢も椅子に腰を下ろした。
「改めまして、お忙しい中すみません」
「いいえ、とんでもないです」
 挙動不審ながらも日名子はやけに腰が低い。これならば担任とはいえ首を突っ込んでいいか悪いか微妙なラインの、家庭環境のことを聞くことができるかもしれない。
「今日お呼びしたのは、今後の玲くんの進路についてお話したかったからなんです」
「し、進路、ですか?」
「はい。このまま進級すればこの小学校を卒業して地元の中学校に通うことになりますが、張間さんのお宅の場合、今回の件でもしかしてお引越しなさるのではないか、どうなのか、おうかがいしたくて」
「え、ええと、ですね……」
 日名子はもごもごと口ごもるばかりで答えに要領を得ない。玲をちらりと見ると、いつもどおり凜としている。あまり外見のことはほかの子と比べないようにしている梢だったが、玲の美少年ぶりにはときどきはっとさせられることがある。今だって、おどおどしているだけの日名子より、玲のほうがうんと大人に見えた。
 このふたりはもしかしてあまり将来の話をしていないのだろうか。梢は、さぐりさぐり日名子に助け舟を出してみることにした。
「差し出がましいと感じられたら恐縮なのですが、玲くんのお父様が単身赴任中だとうかがいました。もしかしたらお引越しなさるのかしらと思って、今回、お呼び立てをさせていただいて……」
「あ、そ、そうだったんですか」
「叔母様は今、玲くんと離れてお暮らしなんですよね?」
「いえ、あの……」
 日名子は相変わらずもごもごと続ける。
「実は私、玲……と同じマンションに越してきたんです。それで、あの……母親が亡くなってからは、殺人のあった家にひとりだなんて危険すぎますから、私の部屋に泊めていて……」
「まあ、そうだったんですか!」
 ほっとした。梢も日名子と同様に、殺人のあった部屋で小学生が一人暮らし、だなんて許容しがたいと思っていたからだ。
(でも、いつまでもそんな生活をしているわけにはいかないわよね。叔母さんにだって生活があるわけなんだし)
「では、お父様ともお話し合いを?」
「そ、それはっ」
 日名子がさらにぎくしゃくする。
「じ、実はまだ、この子の父親とは、話せていないんです……。その、忙しい人なので……」
「玲くんの進路についてもですか?」
「わ、私も気になってはいるんですけど、その、ええと、忙しい人なので……」
「それは困りましたね。私のほうから連絡を取らせていただいても?」
「あ、はい、ぜひ――」
「あの」
 会話に入ってきたのは玲だ。
「僕、中学は私立に行きたいです」
「え」
「今から受験するのって、間に合いませんか?」
「「えぇっ?」」
 思わず日名子と声がかぶってしまった。お互いにびっくりして、顔を見合わせる。
(もしかして、叔母様も知らなかったの?)
「先生。僕はあまり同学年の子たちと仲良くできていません。このまま地元の中学に進学しても、周りは知った顔ばかりです。だから僕、私立に行きたい。僕の学力で入れる私立はありませんか?」
 梢は混乱した。
「は、張間くん、今の時期になってそんなこと……」
「クラスメイトたちが話しているのを聞いたんです。都内なら、願書はまだ間に合うって。先生、お願いです、力を貸してください。僕ひとりじゃ準備ができないから」
「れ、玲くん、なにを言ってるの?」
 日名子が驚いたように口を挟んだ。大人が動じているというのに玲は、姿勢ひとつ崩さずに泰然と叔母を見返し、言う。
「日名子さんには迷惑をかけないようにします。お金についても、お父さんとは直接僕が話し合うから」
「そんなことができるなら、どうして今までなにもしてこなかったの? 引っ越すのかどうか、これからのことについて、もっとちゃんとお父さんと話し合わないとだめじゃない」
「今は別に、お父さんと話し合う必要はないかな、と思ったんです。日名子さんが居てくれればごはんは食べられるし、お風呂にだって入れるし。でも……」
「でも?」
「進学に関しては、日名子さん、わからないでしょ?」
「――私じゃ役不足だってこと?」
「別にそういうわけじゃないけど」
「私だって私なりに玲くんのためを思ってるんだよ。それなのに、相談のひとつもしてくれないでいきなりそんなことこんな場で言うなんて、どうかと思う」
 目の前で繰り広げられる親子喧嘩ならぬ叔母甥喧嘩に、今度は日名子ではなく梢がおろおろする番だった。
「あの、ふたりとも、落ち着いて……」
「日名子さんに、お父さんに相談してって頼んでも、どうせ今みたいに挙動不審になるだけでしょ」
「挙動不審ってなによ!」
「今、現に先生の前で日名子さんは挙動不審だよ、気付かない?」
 さすがにかちんときたらしく、日名子はがたっと席を立った。大きく息を吸い込んでなにか言おうとしたようだったが、結局なにも言えずにわなわなしている。
(この子が、こんなこと言う子だったなんて)
 日名子がそうであるように、梢もまた玲の豹変ぶりに驚いていた。
 梢の印象からして、玲は非常におとなしい子だと感じていた。こんなふうに、誰かを小ばかにするような発言をする子だとは思えなかった。もしかして、家族の前だとこれが普通なのだろうか。それとも、それほどまでに私立へ進学したいのだろうか。
(いずれにせよ、家族の理解もなく、ろくに受験対策もせず、今の時期から私立へ進学したいと言うなんて、無謀だわ)
「先生、お願いです」
 そんな梢の心境を察したのか、玲がくるりとこちらに身を向ける。
「僕ひとりでは無理なんです。先生の力を貸してください」
「張間くん……」
 梢は戸惑った。
「張間くん。進路というものはね、特にあなたくらいの年頃だと……ひとりで決めることは困難なの。叔母様とも、お父様とも、もう一度よく話し合ってから先生に伝えてくれる? そうしてくれたら先生、精一杯力になるから」
 とは言え、公立小学校の教師が子どもの私立中学受験で力になれることなどほとんどない。勉強の対策に優れているのは進学塾だったし、願書だって自宅で用意するものだ。梢ができることといえば、本当に個人的に塾や家庭の真似事をするくらいである。
「叔母様も……、その、玲くんに今必要なのは、お父様との話し合いです。いくら叔母様が今、玲くんの面倒を見ていらっしゃるからといっても、本来の保護者はお父様です。ご家族で話し合って、その結論を、よろしければ私にも教えていただけませんか」
「…………」
「これ、あの……」
 言いながら梢は、用意していた手帳の切れ端に自分の連絡先を書き込む。
「私の連絡先です。今回ご相談したように、平日はお忙しいのであれば、また面談をするというのも難しいでしょう? よろしければ直接、ご連絡ください」
「……ありがとうございます」
 メモを受け取る日名子の手は、怒りで震えていた。そんな状態で彼らを帰すことは気がとがめたが、仕方がない。これ以上、話していても埒が明かないし、もっと揉め事に進展してしまいそうだと思った。
「あの、私のも……」
 日名子が持参したかばんの中からメモ用紙を取り出して連絡先をメモしてくれたので、それを受け取り、その日の三者面談は終わりとなった。

#創作大賞2024 #ホラー小説部門

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