ないない様 10話
10
――「遭難オカルト大全」というサイトを見てください。
――長野県で起きたスキー教室での子どもたちとの雪山の話が、きっとないない様です。
(ないない様は、張間くんの保護者であろうとしている。特にお母さん的な存在を張間くんに与えようとしていて……、ネグレクト気味だった実母を殺した?)
日名子に言われたとおり、遭難オカルト大全なるサイトを閲覧し、長野県での遭難事件を取り上げたページを読み込み、ひとり、自宅の部屋の中で息をついていた。
(こんなネットの噂、信じていいわけがないと思うけど……仮に本当だったとして)
――きっともうじき私も殺される……。ないない様に、ないないされる……! だって私、ちっとも玲くんの保護者として役割を果たせていないもん。
(実母の次は日名子さんのことも、力不足だと判断したから、焼死させた……?)
そうして。
――次はあなたの番だと思うんです、ないない様のターゲット。
(次のターゲットは、……私?)
半信半疑ながら、梢はないない様という霊的ななにかが存在することを大前提として、日名子の説明をもとに仮説をたててみた。
昔――といっても記録が残る程度の昔、長野県のスキー教室でいたましい事件が起きた。十二人の児童を連れたインストラクターの遭難だ。吹雪のせいで救出を期待できずに過ごさねばならず、インストラクターの女性は食糧不足に悩み、一晩にひとりずつ、いらない子どもを殺していった。都市伝説によると、その女性は精神的に参っていたため、殺す子どもを、連れの十二人の児童の中にいた自分の子どもに選ばせていたという。そうして七晩経った後にようやく救出隊があらわれ、人数の減った彼女たちを救い出してくれた。子どもの数は、十二人から五人に減っていた。その中にはもちろんインストラクターの女性の実子も含まれる。しかし女性はその後、被害にあった子どもたちの親から激しく責め立てられ、精神的に追い詰められ自殺をしている。
そうしてそんな事件があった場所と同じところに、何年か、何十年かたった後に、幼い玲が遭難した。たったひとりで一晩を雪山で過ごさなければならず、生存は絶望的かと思われたが、奇跡的に助かった。幼児がひとりで作ったとは思えないような、かまくらの中で息を潜めて夜をしのいでいたのだ。
日名子はこのとき、ないない様と呼ばれる存在を玲が連れてきたのではないかと語っている。
ないない様は玲を守ろうと尽力した。
ここからは完全に梢の仮説だが、玲をいじめる子どもたちに次々と不思議な力で怪我をさせていったのもないない様の力によるところなのではないかと考えられる。玲とはまったく関係のない場所で玲をいじめていた子どもたちが怪我をしたのも、ひとえにないない様の力なのではないだろうか。そうして敏感な子どもたちは、そこに玲の気配を感じる。ちゃんばらごっこをしていて怪我した子どもたちが、玲のせいだ、玲は呪われている存在だと言い出したのもそのためだ。
そうしてないない様は、さらに行動を過激にさせた。玲の実母を殺したのだ。
梢の印象では、玲の母親の印象は、おとなしそうな息子にそっくりの美人の母親、といったものだったけれど、日名子が言うには、玲にネグレクトという虐待を加えていたらしい。
ないない様は、恐らく時を待ったのだろう。ネグレクトが昨日今日にはじまる問題だとは思えない。虐待を受けながら耐え忍び、日名子という玲の新しい保護者が見つかるまで待ったのだ。そして玲の保護者を実母から日名子に移行してもかまわないころあいに、実母を殺した。
しかし玲とないない様にとって計算外だったのが、保護者という役割が思いのほか難しく、未婚の日名子は玲にとって役不足だったという点だ。玲が私立に行きたいと言い出したとき、まったく役に立てなかった日名子に代わって、玲を支えることができたのは――ほとんど支えられていなかったけれど――梢だった。
(だからないない様は、日名子さんを殺した……。お母さんに代わって日名子さんという代わりが見つかったように、今度は日名子さんに代わって私という保護者を見つけたから……)
ぞっとした。
確かに業務以上にかかわってしまった感はあるものの、梢がしたことはあくまで教師としての立場があってこそで、とても保護者だなんて呼べるものではない。
保護者というものは、とても生半可な気持ちで勤まるものではない。梢は教師をしているが、教師は保護者とは違うものだ。ひとりひとりの児童にそれぞれ保護者がいるから子どもは育つのである。その役割を、ただクラス担任だからというだけで自分に求められ、あまつさえ力が及ばないと判断されたとたん殺されるとなると――。
(でも待って)
果たしてないない様は、いったいどの基準で人を殺しているのだろう。
(誰かが死ぬっていうことは、張間くんが決めることなの? それともないない様の独断なの?)
玲がいらないと言った人間が、ないない様によって制裁を加えられているのだろうか。それともないない様が過保護に、玲の周りの玲にとっての危険人物を罰しているのだろうか。
(もし張間くんの判断なら)
梢はこぶしを握り締めた。
(もしそうなら、張間くんにちゃんとわかってもらわないといけない。そんな風に簡単に人の命を奪うことなんて、絶対にあっちゃいけないんだってこと)
翌放課後、梢は生徒指導室に玲を呼び出した。
「急に呼び出してごめんね」
「いいえ、大丈夫です」
椅子を勧めると、玲は梢と向かい合わせの席にちょこんと座る。こうしていると本当に害のない、少しばかり小柄なただの小学六年生だ。
「前に張間くん、ないない様について話してくれたことがあるの、おぼえてる?」
「はい、おぼえてます」
「ないない様についてね、私も私なりに、少し調べさせてもらったの」
「――先生が?」
怒るだろうか、それとも気味悪がるだろうか、あるいは馬鹿にするだろうか。さまざまな反応を覚悟した梢だったが、返ってきたのは予想外の反応だった。
玲は瞳を輝かせたのだ。
「先生はないない様のことを信じてくれるんですか?」
これまで見たことのないような明るい表情で、梢に向かって身を乗り出す。
「お母さんに言ったら、いつも怒られていたんです。そんな不気味なこと言うんじゃない、って。でもないない様は僕のみかたで、いつだって僕が快適に暮らせるように気を配っていてくれているのにって――」
「せ、先生もまだ半信半疑よ」
「それでも信じてくれるならうれしいです。よかったあ、先生に話して。本当によかったあ」
「……日名子さんには、話していたの?」
「はい」
玲は素直にこくんとうなずく。
「でも日名子さんは、ろくに話を聞いてはくれませんでした。ないない様のことを絵に描いて見せたのに、すぐに話題を変えちゃって」
「そうだったの……」
「それで、先生はどうしてないない様のことを調べたりしたんですか? そんなの、僕に聞いてくれればいいだけなのに」
「そ、それはね……、さっきも言ったようにやっぱりまだ半信半疑だからよ。張間くん。ないない様というのは――人間ではない、わね?」
「はい、たぶん」
究極の質問が、あっさりと肯定され、梢は脱力しそうになる。
「……じゃあ、なんだと思う?」
「さあ? 考えたこともないです。気がついたら近くにはいつもないない様がいてくれたから」
「ほかの人には見えないのよね?」
「はい。だって今ここにも、ないない様がいるのに、先生、見えてないんでしょ?」
胃にひやりと氷を落とされたような気分になった。今、自分は玲とふたりきりだと思っていた生徒指指導室に、まさか玲の母親や日名子を殺したなにかが同席していようとは。急に怖くなった。しかしだからといって、ここまで来て引くわけにはいかない。
「お母様や日名子さんを殺したのは……ないない様なの?」
「はい」
あっさりと肯定され、めまいを覚えた。
「それ、は……」
血の気が引いていくが、寸でのところで食いとどまる。
「誰が判断したことなのかしら?」
「誰がって?」
「いったい誰が、お母様や日名子さんをいらないと判断するの?」
「それは――」
玲はそこではじめて、考え込むような仕草を見せた。しかしそれはとても軽いもので、まるで算数ドリルのわからない問題を前にしたときのようなものだった。人の命が、ふたつも奪われているというのに。
「ほとんどがないない様です。ないない様が、ないないしようね、って言うから」
「張間くんはそれに反抗したことはないの?」
「そういえば、大きくなってからはあまりないかもしれません。小さいころは怪我しちゃう相手がかわいそうだったりしたけど、だんだん、相手の自業自得かなって考えるようになって……。あ、これ、そう言ったらお母さんにはすごく怒られたんですけど……」
「先生も怒るわ、張間くん」
玲はそこではじめてきょとんとした表情を見せた。
「先生もですか?」
一瞬、そのあまりに純粋無垢な瞳を前に、ひるみそうになった。ないない様がしてきたことを考えれば、胃の底が震えた。けれど、言わねばならない――。
「お母様からあなたが、放ったらかしにされていたことは、日名子さんから聞いているの。それを見かねた日名子さんが、あなたのお世話をするようになってくれたのよね」
「そうです」
「それであなたは、ないない様がお母様をないないしても、かまわないと思ったの?」
「そうです。日名子さんがいてくれれば、もういいかなって」
「あなたにとってお母様が必要ではなくなったから?」
「はい、僕にとって」
「そして今度は、日名子さんが保護者では不服だと思ったから、日名子さんをないないしたの?」
「そうです。日名子さんは全然だめだった。僕の理想とは程遠かった――」
「そんなことで人のいる、いらないを判断してはだめなのよ、張間くん!」
つい語調がきつくなった。自然に大きくなってしまった声に、玲はますますきょとんとしている。
「あなたにとっているから、いらないからという理由で、人をふたりもないないして――殺してしまったの? そんなことは認められないわ」
「先生……?」
「人っていうのは――人間っていうのはね。必要、不必要で生きているわけではないの。誰かにとって必要でも誰かにとって不必要な場合もある。その逆だってもちろんそうだわ。だからたったひとりの判断で自分にとって不必要と判断してその命を奪うことは、とても、とても罪深いことよ」
「あ、あの……」
戸惑う玲に対し、梢はますます力を入れる。
「やられたら、やり返すのではいけないの。妥協をして、許すことをおぼえなきゃ。あなたは今までいじめられてきた子たちにもないない様の力を借りて怪我をさせてきたわね? あのね、それはとてもいけないことなの。自由にならないからと言ってものを壊しているのと一緒よ」
「僕だって、最初は止めていました。ないない様に、やめてって言って」
「じゃあどうしてお母様と日名子さんの命を奪ったりしたの?」
「だって……、ないない様がいらないものを選んでごらん、って言うから……」
「あなたが選んでいたということ?」
「そういうわけじゃ……、いらないならないないしようね、って言われただけで……」
「ないない様がここにいるのなら聞いて」
架空のなにかに話しかける。
「あなたは玲くんを守っているつもりかもしれないけど、それは間違っているわ。こんなやり方では玲くんの心が健全に育たない。玲くんを守りたいのならもっと別の方法があったはずよ。人の命を奪ってまで、この子が幸せになれるはずがない」
宙に話しかけていた梢は、改めて玲のほうへと身を乗り出し、肩をつかんで揺さぶった。
「目を覚まして、張間くん。このままではあなたはきちんとした大人になれないわ。ないない様とは、決別しなさい。ないない様があなたのことを一番に思ってくれるのだとしたら、きっと別れてくれるはずよ」
「そんな――」
玲の瞳には涙が盛り上がっている。梢の剣幕が怖いからか、それとも別のなにかが彼の心に働きかけているからか。
「そんなこと、できません」
「どうして?」
「だってないない様がいなくなったら、寂しいから」
「あなたはもう充分大きくなったわ、張間くん。ないない様という存在から、もうそろそろ離れてもいい時期よ。今のままではずっと子ども。張間くんは、それでいいの?」
玲は瞳に涙をためたまま、うつむいて首を横に振った。
「だったら……今すぐでなくてもいいわ。ないない様とお別れして。そしてもう一度よく考えてみて。お母様と日名子さんの死は、本当に自業自得だったのかどうか。これまで怪我してきた子たちも同じ。もう一度きちんと、逃げずに考えて」
「先生……」
玲の瞳から頬に涙が伝い落ちた。その瞳の清らかさに、梢はほっと肩から力を抜く。
(伝わった……)
「先生、ごめんなさい、僕……」
「……仕方がないわ。あなたはまだ小学生だし、間違うこともきっとある。でも、間違ったままでいてはいけないの。道を正さないと」
「先生、僕、僕……」
ほろほろと透明な涙の粒をこぼす玲を前に、梢は心底安堵した。自分の言いたいことは、彼の心に響いたようだ。
「先生も手伝うから。張間くんが健やかにすごしていける方法を、一緒に考えましょう」
玲はまだ泣いている。しゃくりあげる肩があまりにも細くて、この子がいかに幼いかを思い知る。
「泣かないで、張間くん。泣かないで――」
生徒指導室ではしばらくの間、涙する玲とそれを励ます梢の、ふたりだけの静謐なときが流れていた。
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