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玲子の三角関係:ショートショート

 セックスレスの原因は上げたらキリがないが、玲子と英紀に限っては、中学生のような誤解を発端に6年つづいていた。お互い31歳のときに籍を入れ、2人とも今年で37歳になる。結婚してすぐにセックスレスに陥ったわけである。
 誤解というのは、なんのことはなくて、お互い求めているはずなのに、対話不足もまた要因なのであろう、ともども相手に拒まれていると勘違いしているのだった。
 しかも誤解に至る道筋というのが、これまた稚拙な早とちりだった。玲子はまず、事が終わった後、英紀の態度がやたらに冷めているような気がして、また表情も物憂げに見えるようで、《あまりその気がない》という風に解釈しなければ、自分のなかにある愛とセックスのイメージと整合性がとれなかった。ついで英紀のスーツの内ポケットから、可愛らしいメッセージ付きの名刺が出てきたのを決定的要因として、完全に彼の胸の内を理解(誤解)したのだった。
 しかしどれもこれも、たとえばいわゆる賢者タイムにしても、そのころ、英紀は性欲を喚起することができるほどには元気であったが、眠る前に明日のことを思うと、急に冷めるのだった。ある意味でセックスは、そのことを忘れさせてくれる良薬で、つまりは求めない理由がないのだったが、男にとってそれは事の最中にしか効能がないのだった。そして彼の風俗通いが始まったのもまた、積極的だったはずの玲子が、事実、彼女自身の誤解によって消極さを見せ始め、それが彼をして自分の男性的魅力の消滅を感じさせるころだった。

 そんなこんなで玲子は、年下の青年に恋心を寄せるようになっていた。といっても、当たり障りのない社交辞令を超える言葉を交わしたことはなかったし、名前もネームプレートに記された「キシノ」、おそらく「岸野」、ということしか知らなかった。

 平日の午前中、おおむね彼は、駅ビルに入っているスーパーで品出しをしていた。

 『あれーっ?今日はいないのかな・・・』

ぐるぐると店内をうろつく玲子。

 『残念・・・』と、踵を返す。

「あっ」と声が重なった。目の先には《キシノ》と書かれたネームプレートがあった。

——この状況は、玲子には、彼が自分の姿を見かけて追いかけてきたとしか思えなかった。

「おはようございます」と爽やかな笑顔でいう彼。
つられて満面の笑みになっている自分がいた。だが心が浮ついているところを見せてはいけなかった。上品でしとやかな大人の女性を演じようと、チラッとだけ目を合わせて逸らし——彼が誤解しないようしっかりと、だがひかれてしまわないよう仄めかす程度に好意を伝えてから——微笑し、優雅な仕草で会釈した。その際に髪が顔にかからないよう、そして髪型を少しも崩したくない思いから手で抑えたのは無意識だった。

 「今日は何かお探しで?」と相変わらず爽やかな彼。

『あなたよ!あなたを探していたのよ!』

と心の中で感涙しつつ玲子は答えた。
「松の実はありますかしら」
「あぁ松の実ですね。いくつかありますので、ご案内しますね」
先を行く彼の背中に、熱い視線を送りつける玲子。

不意に、彼が振り向く。目を永くは背いていられないほど美しい横顔だった。

「今日の晩ごはんはジェノベーゼですか?」
玲子は感動に耽って答えが出てこなかった。

「あっ、すみません、踏み入ったことお聞きして」
「そのうえ松の実って聞いてそれくらいしか思い浮かばないなんて、単純ですね」
そう言ってふふっと笑って見せる彼の愛嬌に、玲子はもう失神寸前だったが、どうにか踏みとどまった。

「いいえ」と却って自然に口をついたそれは、我ながら、日本庭園や茶道、着物、わびさび、その他あらゆる日本的伝統を連想させる気品にあふれ、やさしい甘美な口調だった。
 保守的な政治思想は好まない玲子だが、この伝統美に彼を彩ってベタベタにしたい彼女だった。おそらくはそんな欲望が言葉となって、実際に彼の耳を伝って脳へ、そして心へと美が染み込んだに違いないのだった。

 「こちらです」
「わざわざどうもお世話様です」

「いえ」
「あっ」
「なにか他にもお探しで?」
「ジェノベーゼ・・・」
「あっ、やっぱりなんですね。おいしいですよね。大好物なので旦那様が羨ましいです」


 その晩、玲子はほとんど彼に食べてもらうことだけを空想しながら料理した。彼が《旦那》と口にした瞬間かすかに見えた嫉妬の色が、ときに彼女自身を愛おしくし、ときに彼の立場が想像され、胸を締め付けるのだった。

 夜遅く、翌日に急用ができてしまって、買い物には行けなくなった。買いだめをしないのはその方がお金が貯まるからだった。けども、こういうときに融通がきかないのは否めない不便さだった。
 スーパーはまだやっている時間だった。気が引けたが今から買い出しに行くことにした。さっと化粧をなおして渋々外に出た。

 この中央線K駅周辺にはラブホテルがいくつかあって、この時間、中へ消えてゆくカップルの姿は珍しくないが、あまり夜にやってくることのない玲子には、ただでさ新鮮だった。
 あと30メートルも歩けば、ホテルを通りがかる。いま彼女の前を歩いているカップルは、間違いなくそこへ寄るだろう。しかしこれが初夜なのか、どこかそわそわしていて、玲子のような視線が気になって仕方がないらしい。むろん、彼、彼女らが好奇な視線を浴びているように感じるのは、自意識過剰でもなく、あるいは被害妄想でもなく、確かにまぎれもない事実だった。

 玲子よりも一足先にホテルの軒先へ辿り着く初々しいカップル。

 しかし男の方に迷いがあるらしく、その歩み、その足の動きが、つと弱弱しくなった。対して女の方はひるむことなく堂々としている。しかもどうにか彼に入る勇気を持って欲しいのか、軽く押しつつ歩いてホテルの方へ寄せているのだった。

 そしてついに彼女は、ぐいっと彼をめいっぱい押しこんで、2人は鮮やかに玲子の視界から姿を消したのだった。

 もし自分が独身で彼氏もいないなら、羨望や逆恨みのすえに、心のなかで『死ね!消えろ!くそカップル!』などと誹謗中傷してみるのも悪くない発散法だけども、玲子には旦那がいて、心を満たしてくれる青年もいるのだから、羨ましく思う理由などないはずだった。それなのに、あの2人の男女に強烈な嫉妬と愛憎を感じて、今までにないくらいの欲求不満に襲われるのだった。

 やがて否応なしに自分が6年もセックスしていないのだと思いだし、悶々とムラムラしながら駅へ急ぎ———

・・・・『あっ、キシノ君!』

 彼は私服姿で、スーパーの前に、女の子と一緒にいた。玲子は愕然とした。もうぼろぼろに打ちのめされているというのに、まさか愛しの彼が止めを刺そうとは!

『うううぅぅっっ、キシノよ。お前もか』

なんて心を明るく保とうとする玲子だったが、考えようによっては、これはドラマティックな展開だった。

 ―———そう、これは修羅場なのだ。わたしは颯爽と澄ました顔をしてこの小娘の前につと現れ、あのさっきの女の子のように鮮やかに彼の腕を引いて彼女の視界から消える―――・・・・

 と、そのとき、後ろから声がした。声ではない。叫び声だ。それも涙声の絶叫だ。

「ちょっと!岸野くん!どういうことなのよ!あたしのこと好きって言ってくれたじゃん!!!」

彼女はあっという間に玲子を追い抜き、一心不乱に彼のもとへ駆け寄った。

彼の隣にいた小娘が、毅然とした目を駆け寄る女に向けて叫んだ。

「岸野くんはわたしの彼氏よ!!」

そして顔をむっとさせ、彼の腕にしがみついた。

「ねぇ!岸野くん!どういうこと!」

「ごめん・・・」
と謝る彼の顔は心から悲しんでいるようだった。

 しかしその悲しみは、玲子の心を映し出しているようでもあった。
 自分は彼と三角関係にもなれないのだという、途方もない圧倒的な疎外感・・・

 玲子は自分の存在を彼に気づかれる前に引き返し、家路についた。

明日の夕飯?そんなことはもうどうでもいい。今すぐ男とやらなければ気が狂いそうなのだ。

 玄関のあたりから鳴り響く、ただならぬ物音に驚いた英紀がやってくる。ひどい泣き顔をした嫁の姿に、

「どうしたん?!?大丈夫?!へんなやつに襲われたんか!!」と。

 そして玲子は彼の胸のなかに飛び込んだ。


( ´艸`)🎵🎶🎵<(_ _)>