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Forbidden My Psychology      第四回(前半)


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妹尾 武治
写真&協力: 冨田 恵子
於  福山カトリック教会



美しいのは こころ
そとみ じゃない
そう想いたい


土地の力がなぜ人に宿るのか?
それはたぶん、光に質量がないから。

「白って200色あんねん。」アンミカ

幅広いスペクトルを含んだ白色光。
単一スペクトル(波長)のバランスの違いで、同じ概念の色を、異なるスペクトル成分で作ることが出来る。

そう考えたら、太陽は少なく見ても、12.6 億色ある。60 秒 x 60 分 x 12 h x 365 日 x 80 年。それで、およそ 12億6千万。

輝く太陽。輝かない太陽。
金色の星。その星は、
いつだってたくさんあたえてくれた。

イーハトーブ
宮沢賢治の地
岩手、遠野。
柳田國男の遠野物語。
それを追った折口信夫。
森山大道はそこを
「故郷」として写真に撮った。

ふるさと
原郷
バーチャルな何か。

画家と写真家は
ひかりを理解することを目指す。
見えた永遠とは、
ひかりそのもの

太陽がいっても
月がみまもる

その巨大な隕石の衝突は
ナカに部屋をつくり
そこから生命がでた

ソコからだいぶたって

高野山で一遍が
赤とんぼをみた

「ダンスフロアーに華やかな光」




信徒発見

1865年3月17日。
長崎の浦上村で、潜伏キリシタン十数名が大浦天主堂を訪れた。堂内にいたプティジャン神父に、杉本ゆりは信仰を告白する。

ワレラノムネ アナタトオナジ
マリアサマノゴゾーハドコ

1549年にフランシスコ・ザビエルが日本に到着しキリスト教の布教が始まる。ヨーロッパの宗教改革で、地位の低下が起こったカトリックは、海外での信徒獲得を目指し、その一環での来日だった。

だがザビエルは、日本での布教に心を折られてしまい、もといたインドに戻る船に乗ってしまう。大名たちが思うように布教を許可してくれなかっただけでなく、農民との議論で彼らを説得できないケースに多々遭遇したようだ。船上でザビエルは悲嘆と怒りの心境を綴っている。

今後の日本人への布教は、哲学や論理学を身につけていなければ難しいだろう。そう彼は告白している。

もちろん諸説ある。真実は、心の中にしかない。

[客観的絶対的事実]は人にはつくれないが、
[絶対的主観的事実]はいつでもつくれる。

数学者のコミュニティーでは、天才アレクサンドル・グロンダンディークが間違って57を一度素数だと言ってしまったことを愛し、「57は素数さ!」みたいなジョークがある。

「ここに書いていることは、フィクションさ!」

僕の心の中では、美しいことだと思っている。
太宰府の歴史学者、杢尾幹雄さんと、
福山カトリック教会の、冨田恵子さんから
教えてもらったことをベースにしている。
彼らの研究に、信頼と尊敬を抱いている。

私の文章の99%以上は、他者が過去に流した汗の寄せ集めであり、自分自身のインスピレーションは1%にも満たない。まとめただけ、という批評は最高の褒め言葉だ。僕たちは最初から全て内側に持っている。心であり、仏性を。


ザビエルの後、日本でキリスト教を広めたのはルイス・デ・アルメイダと言う人物だった。彼は医者であり、キリスト教と西洋医療をセットで大分の人に提供した。大分の植物を育てる老夫婦が住む山の麓に、日本初の西洋外科手術を施せる病院(現アルメイダ病院)を開設した。

この方法がヒットし、アルメイダはその後どんどんと布教を実現していった。大分、日田、久留米、太刀洗、大村など、九州各地に医療とキリスト教が広まっていった。

その後、仏教・神道との議論も繰り返し行われている。例えば、福岡の御供用所町には、バトルステージとなった寺が今も遺る。書物によれば、遊戯王のようなターン制だったらしい。

それなのに、日本のキリスト教徒は、国民の1%程度以上に増えた事がなく、先進国の中では、非常に低い。

談志がかつてM-1で言ったように、
”お前たちの来る場所じゃなかった”からか?

なんでだろう?
なんでだろう?
ななな、なんでだろう?

丁寧に優しく、何時間も教えてくれたのは、冨田恵子と杢尾幹雄だった。

冨田による浦上四番崩れ流罪者研究の成果資料の一部
杢尾幹雄著『九州のキリシタン ザビエルとアルメイダの足跡をたどって九州の果てまで』
太宰府展示館において

一つ目の理由は弾圧。秀吉、そして江戸幕府は、禁教令を出しキリスト教の信者を捕らえ拷問し、殺した。そのためキリシタンたちは、隠れざるを得なくなった。例えば五島列島には、隠れキリシタンたちの祈りの場が美しく保たれているが、離島という条件があってこそ、ここまで残せたという事実がある。役人が巡回し易い本土では、ここまでの形で信仰をそとみに出すのは、難しかったという意味だ。

五島列島の思い出 。昨夏永眠されたアニメーション美術監督、山本二三は福江島出身。岐阜の高校で美術を学び、上京。『未来少年コナン』で初めて美術監督をつとめ、『時をかける少女』や『天気の子』などの美術を手がけた。

遠藤周作 『沈黙』

遠藤周作と河合隼雄は仲良しだった。踏み絵。教科書で教わったときに出た意見。「踏めるやろ」というご意見はごもっとも。

踏むだけで拷問を免れられる、生きていることもできる。そもそも所詮それは偶像だ。踏めるやろ!

それでも踏まないものが居た。踏まないものがいたからこそ、踏んだものたちの罪悪感が250年間の潜伏を可能したのではないか?

やり過ぎる者は、失笑される。笑い生き残った者たちは罪悪感から、信仰への真摯さを高める。

ryuchell は最後まで笑うものたちを踏まず、自分らしくあることが素敵だと世間に表現した。

天主(デウス)と天子(天皇)。デウスははじめ、日本人の通訳によってダイニチと訳されていた。仏教の大日如来のことだ。天子はアメノミナカヌシの子孫である。

精霊は父であり子でありアニマ(魂)である。それらは三位一体であり、世界には一つのものしかない。だからデウスは大日でありアメノミナカヌシでもある。

科学でも一元論への回帰が実現しつつある。マクスウェルの悪魔の実装が可能であることが2019年には示されており、熱力学と情報工学が同じ土俵で会話できる時代が来た。つまり、モノ = エネルギー = 情報という事がわかった。

「同じものであるなら、デウスと呼ばず、ミナカヌシと呼ばぬか!そうすれば、この苦しみから逃れられる。心のうちでは、デウスを描き、口先では違うものを言う。それだけではないか。その何がいかぬのか!」

自分のナカのデウスを、大日に置き換えて、口にする。仏教の檀家などに入り、そとみを整え誤魔化す。もし、皆がそうしていたなら。キリスト教は絶えただろう。それを信じ続けられなかっただろう。誰かが磔の刑に処されていたから、250年の時を経て、信徒発見が起こった。

そとみだけ整え、こころを美しくあり続けさせることがひとにできないのは、一元論が正しいから。

宗教に限らない。どんな組織でも、理念に徹し過ぎれば、笑われ、切られる。

VS・ラマチャンドランの仮説では、笑いの起源はサルのマウンティング行動だという。下位のサルが上位のサルに歯を見せ息を吐く行為が、笑いの起源ではないかと彼は言う。だから街やSNSで笑われても、微笑みを返せばいい。その微笑みから悪意を減らし、やがて消す。それさえできれば、その微笑みは純粋に、”相手に譲ったこと”になるから。大丈夫。きみなら出来る。

道化師はソネットを詩う。自ら笑われ そのあとひとりで 静かにしてる。
「そうです、私が変なおじさんです!」

陰と陽。互いに居てこそ、大事な心が続く。アニメ『バビロン』や、アンリ・ベルクソンなど、続くことが最も大事だという意見もある。

そして、それは役割分担に過ぎない。どちらかがより尊いということじゃない。比較は、無意味だ。


ワレラノムネ アナタトオナジ



浦上四番崩れ


明治維新直前の1864年、日仏修好通商条約に基づき国内にキリスト教会が立ち始めた。1865年には、大浦天主堂で、杉本ゆりらの信徒発見がなされる。

このまま信教の自由が確立されるかと思いきや、運命は過酷な方に行く。1867年、長崎浦上村の信徒たちが仏式の葬儀を拒否し、庄屋によって奉行所に届けられる。彼らは拷問されたり、殺されてしまうものもいた。1868年、浦上信徒の中心人物114名が津和野、萩、福山へ移送されることになった。流罪である。以降、1870年まで長崎の信徒たちは捕縛され流罪に処された。
杉本ゆりも福山に流された。当時58歳だったと記録されている。1873年(明治6年)に、キリシタン禁制が廃止され、信教の自由がようやく確保された。

福山に流された信徒たちは、第一陣を除いて、9割以上が改宗せずキリスト教徒のまま長崎に戻ることが出来た。日に6合の米を与えられたと記述があるが、信徒自身が7合もらっていたと答えたという記録がある。15歳以下の男子にも6合配っていたことで、米が余り、成人男性には7合配給されたと誤解したのかもしれないと、冨田は推察している。

戦争に行った杢尾も、「当時の日本兵は日に六合支給されていたことが多いから、罪人への6合支給は異常な厚遇だと思われる。」と感想を述べている。さらに、福山藩主阿部正桓は、杉本ゆり達が長崎に戻る時、彼らに対面で着物とそれを加工するための金を与えている。

福山にある鞆の浦は海上交通の要所で、坂本龍馬や足利義昭が訪れている。港には、立派な大仏もある。井伏鱒二を日本一知るマスターが居る喫茶店とうどろうもある。彼に井伏の漢詩について教えてもらっていた時、「阿弥陀寺の裏手には、キリシタン燈籠があったはずだよ。」と教えてくれた。ちょうど、シンプリィライフ先生のお手火祭りの神社のうらにその寺はあった。

Memories of 鞆の浦

船でたどり着き、福山の地で隠れキリシタンをしていた者たちが居た。藩主の阿部氏は中央から派遣された人間だったから、そういった事情をどこまで知っていたのかはわからない。

ただ、一つ言えるのは

そういうことが、この世界では起こる。

だから、書を捨てよ 先人に聞け。



150年後の福山カトリック教会。冨田恵子は、この流罪地の詳細な位置を知ろうとして日夜研究に明け暮れていた。正確に、その”居場所”を知ろうとしていた。

歴史資料・現地調査・時には徒歩でかかった時間を記録し比較し、杉本ゆりらがどこで監禁生活をしていたかを調べ続けた。複数の土地をリストアップし、根拠も膨大に集めていた。

その中で、最も的確にわかっている場所が一つある。最初に収容されていた場所。福山市の住吉神社(その起源は安徳台の現人神社)と旧セオ病院、ラブホテル ”セーヌ” に囲まれた、不思議な三角地帯。そこは、お地蔵さんが沢山祀ってある場所だった。

心には心のディメンジョンがある。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/psychono/28/1/28_KJ00005878675/_pdf

認知心理学の名著『人間この信じやすきもの』
トーマス・ギロビッチは、この著書で主観的な統計、心理的な確率には大きな歪みがあると指摘している。

アメリカのバスケットボールで、その日神がかった状態になり、止められない選手のことを「ホットハンド」と呼ぶ。

日本プロ野球でも「波に乗っている」とか「シリーズ男」とか中村「敦夫ー!!」という表現がある。反対に「逆シリーズ男」とか、「この世で一番無責任と呼ばれた男」という表現もある。

異常に調子がいいとか悪いとかがあると人は思っている。その「異常」とは、偶然を超えた確率という意味。

だが、NBAのシュート成功率を精緻に調べたところ、自然確率を超えるような、数値の歪みはどこにも現れておらず、どんな前提を敷いてシュートの成功率を調べても、その確率はおよそ55%程度に収束していた。人が思う「驚くような流れ」は無く、全ては思い込みだったとギロビッチは主張した。

その後、統計学はプロスポーツの構造を大きく変えた。映画『マネーボール』は、それを描いたヒット作だ。思い込みを廃して、客観的な数値、統計に準拠して戦略を立てた方が勝てたのだ。フライボール革命もその一つである。
今では「ピンチの後にチャンスあり!」とか「先頭バッターへのファーボールは流れを落とす」とかの言説が、全て主観統計上の歪みであることが数学的に証明されている。

(ギロビッチを含めて心理学における主観的統計の誤謬について、わかりやすくかつとても面白く読める本を一冊紹介しておく。もちろん、原著そのものが読めるならそれも良いが、この杉本崇の本は素晴らしく面白いのでオススメだ。杉本はスキーがうまく、親切で、チャック・ノリスにとても似ている。)



だがそれは科学でのこと。
心の領域までは扱えない。

「流れ」を信じ続ける人たちの世界には、流れはあり続ける。それを修正し「この世界には明確な正解があるのだからそれは間違いだ!正せ!」と言う声は、この世界に秩序、統制、序列をもたらし、70年以上の平和を築いた。例えば、W杯の三苫の一ミリは、主観で議論すれば数の力で踏み倒されただろう。物理的記録が精緻であったからこそ、争いにならなかった。もし、エゾジカが視覚でツノのサイズを1ミリも違わずに計測できたなら、余計な闘争は減るだろう。人間の場合、数の力による心の支配をも減らせていた。
(是非、過去作もお読みいただきたい。)


だから科学を使いつつ、穏やかで楽しい自分の毎日を、科学を超えながら実現しよう。そんな提案がしたいのだ。

今はまだ、科学は心を十分には扱えない。39%の再現性しかない。

こころの領域とモノの領域があった時、「モノを主、こころを客」とするのが科学。「こころを主とし、モノを客」とするのが道元たちの唯識。これからは、中庸がいいと思う。

だって、結局、

「よくわからない。」から。

だとしたら、その諦めの認識をしっかり持つことが新しい時代の責任の取り方にならないだろうか?その諦めに立脚し、科学とそれ以前の世界の融合、神仏科習合を目指すのだ。

これは新しいことじゃない。脳科学勃興以前の1970年代、ニューサイエンスと言う名の機運があった。

かつてその旗手達が日本に居た。

河合隼雄、遠藤周作、湯川秀樹、岡潔、湯浅泰雄。
そしてその弟子たち。

例えば、手相。手と脳と心は相関する。Micro-universeとMacro-universeが対応するのと同じだ。だって、世界はフラクタル構造をしているから。心の中のことを外の世界に立ち現すことが出来る。

六本松の宝琉館

僕は手相を本気で学ぼうと思った。準備が出来た者には師が訪れる。
六本松の深川宝琉は、ニューサイエンスの頃から広い視点で学び続けた師である。彼の知見と知恵に、目から鱗の日々だ。占いは、極めてロジカルである。だが、一番驚いたことはそこじゃなかった。占いは、「人を想い、人の幸せを願っている」ということ。その情熱を知った。

師 深川宝流から学んでいることを少し書いてみたい。

心について学び、自分の過去の苦しみを克服しようとする。そこで得た知恵を、まだ苦しいという人のために役に立てたいと思って動く。神の名前は変わっていっても、人の美しさは変わらない。

今、科学もお雇い学者がエビデンスを作れば、どんな主張も思いのままに作れてしまう。この30年、科学者は占い師のことを詐欺師だと揶揄したが、王や神は一つ前のそれを過剰に悪くいう習慣がある。僕たちはそのやり方に騙されていたと思う。

高潔な占い師と高潔な科学者は同じであり、そうでない科学者とそうでない占い師も同じだ。

深川宝琉の講義

決められた世界、全ての世界線の情報を手に入れられる人間は居ない。常に情報が足りない。だから、信念や情熱を超えた正解は誰の手にも入らない。だとすれば、情報それそのものではなく、人の気持ちを大切にせねば、そこには競争しか残らない。

手には、性格や運命が現れるというのは、もとを辿ればユダヤの教えだった。手の線や丘を天体の位置と運行との関係から紐解く。そこに共時性があるという前提を基にしている。
共時性の出るモノが手なのか、脳なのか?わずかな違いに過ぎない。せいぜい相関係数が0.3から0.4くらいに上がった程度だと思う。数億年後の0.9とかの世界に比べれば、脳のここが赤いとか青いとか、喜んでいるとか、画像診断で心がわかった気になる気持ちは、手相から未来がわかる気持ちと大差ない。

ユダヤの民は、分裂の民。世界中に飛び、人類に学びを分担させた。

ありがとう。未来で待っています。

なんらかの太古の教えが、西回りと東回りで伝播していく。

手相は主に東のインドで発展する。ヨガとヒンドゥー教はロジック以上に精神性と芸術性を中心に据えた教えである。インド心理学者の野村幸正からそのことを教わった。

ヨガには、ムドラーやクンダリーニという概念・修行法があり、それぞれ体の使い方、瞑想法として今も根強いファンがいる。やってみればわかるが、確実に辛い心を緩和する効果がある。脳科学者のスーザン・ブレイクモアは20年以上も前から瞑想を心理学の中に取り込んでいる。日本の発達心理学をリードしてきた山口真美も、私に瞑想をしてごらんとあたたかいアドバイスをくれた。彼女たちは、その安らぎの効果を伝えることで、多くの人を助けようとしてきた。共にお洒落でサイケカッコイイのは偶然では無いだろう。

同じくエルサレムの東には、チグリス・ユーフラテス川があった。その付近では、占星学が発展する。星が綺麗だから。
野村幸正と佐渡島庸平も、その辺りは星が世界で一番綺麗だと言っていた。いつか行ってみたい。

インドを経由して、中国に仏教が伝わる。同時並列的に道教や老荘思想なども加わり、世界の観察と心の観察の技量が増えていく。

やがて亀と鹿の骨を焼く占いが対馬に永く留まった移住者、ナガトミによってもたらされ、大和政権に呼び出しをもらうようになる。彼らは、神道を扱える者として後に、中臣と名乗る。それがHis StoryでありMy Story。

当時亀甲占いは、最新科学だった。季節を理解し、暦の概念を利用すれば、多くの命が助かった。寿命も伸びただろう。

その後、崇仏VS棄仏のアウトレイジで神のアップデートが行われる。
この時、蘇我氏は、物部氏&中臣氏を一時的に追いやる。中臣氏はその後名前を変更し藤原になり、平安期には卜部をはじめとする、さまざまな派生形態(工藤、中川、瀬尾等)になって世間に広がった。その後、仏教は全体救済の理念を日本に浸透させた。法然や親鸞の阿弥陀信仰である。

本地垂迹説では、仏教の神々を先に”日本の神として”に行かせておき、その後、その正体は仏教の神々でした!という伏線回収のストーリーになっている。

そして都市伝説によれば、仏教もその源流は十戒に近い何かだろう。後出しが可能になるような構造を先んじて構築したその教えは、世界各地でしれっと入り込む。生命の樹のように多くの根と枝が一本に交わる。

論理構造上の巧みさだけの話か?
それとも、物理的に教えた人間が世界中に居るのか?
今の所、僕にはよくわからない。

ただ、みつめたい瞳は青いことが多い。
例えば、台湾から気功を教えに来てくれて、
僕の健康改善をしてくれた、
91歳のヤン先生の眼。
杢尾さんの眼。冨田さんの眼。深川さんの手。
見ることが出来る眼。
無限に層をなすブルーウォーター。

ありがとう


信じろ!というのは支配だし、
信じるな!というのも支配だと思う。
だから、まあハローバイバイ。

一つ言えるのは、
人の心の「原型(アーキタイプ)」。
それが強いということ。
それが心に訴求するということ。

もちろん、全部拾えばキリがない。安倍晴明の陰陽道は、ユダヤの六芒星を用いているとか、キトラ古墳の話とか。

ユダヤの六芒星は、紫禁城の天井にも現れる。最も大事な天・天帝のマークがユダヤのそれと一致する。

最後の皇帝、溥儀。その第二妃の地位を降りた女は雨の中、
凛として心を優先した。全ての心を支配されている者にその強さがあればと思う。the black Rabitt asked him, "Who am I?"

「美しいとはこういうことさ。」

Rainの音を世界から探せた”教授”は、気がつくと集団を離れ、一人よく泣いていたという。孤独であったとしても、どこかでその涙を静かに見てくれている人がいる。透明な黒を纏った彼女たちはいつもどこかで見てくれている。そう信じて。

心の底をのぞいたら なだいなだ

そこに同じものがあるから、ものが似てくる。
or
本当に物理的に、人が到達し 教えた?

micro-universe x macro-universe
フラクタル構造
クリストフ・コッホ曲線。
それこそが、中庸の思想。

欲しいものは一つだけ
あなたのこころの白い扉 開く鍵

蜂と神さま

蜂はお花のなかに、
お花はお庭のなかに、
お庭は土塀のなかに、
土塀は町のなかに、
町は日本のなかに、
日本は世界のなかに、
世界は神さまのなかに。

そうして、そうして、神さまは、
小ちゃな蜂の中に。

金子みすゞ


猿田彦の天狗山、高尾山。
その麓のトリックアートミュージアムに、
ユングのスカラベが
売っている。

錯視は全ての始まり。
ペンローズの階段は微小管をぐるぐる回る
ねるねるねるねはねればねるほど
こうやってつけて
うまい!

テーテッテレー!!!

直感 
ひらめき ときめき サイエンス 

時は未来から過去に流れており
世界の構造はスカラべ(須)く、ベクションである。
略せば、スカラベクション。

略す必要など無い!!
文字が小さ過ぎて読めなくも、   ない。

西回り

一言でいえば、西洋科学。
それ以前の蘭学、本居宣長もいるが。
主に明治維新以降に入って来た。

明治6年まで
キリスト教徒は隠れてなければならなかった。
西回りと東回りのアウフヘーベンには
250年以上の待機時間が必要だった。

おそらく、東回りのロジック(仏教)の方が
その時点で西回りのロジックよりもより深まっていたのだ。
東回りは、人格神を超えて、阿弥陀信仰そして
「空」にまで辿り着いていたから。

だから、ザビエルの帰路の船の日記に書いた通りのことが
起こった。哲学や論理学を理解した者が
西洋思想をもう一度もたらさねばならないという。
西洋科学という形での再上陸。
今回は成功した。そして、その時代が今年日本で終わる。

福岡市天神、大名のキリスト教会は、
ホームレス支援のおにぎりの会が2月に拠点にする。
大名に元々あった美しい教会は、
久留米の青木繁旧居のすぐそばに移築された。
そこにある、美しいステンドグラス。
そのステンドグラスを青木繁と高良山の歴史を大切にした母は眺めていた。御笠川、那珂川、筑後川の歴史を愛した祖父達もそれを見ていた。

坂本繁二郎は空の雲の静かな青い月を視ていた



根腐れする沼

『沈黙』の中の表現である。
日本にはキリスト教は根付かない。
それはなぜかはわからない。
ただ、この国は異常だと。
この国は根腐れする沼だと。

キリスト教が広まっている。
そう思っていたザビエル。
だが、そうではなかった。
デウスがダイニチになってしまっていた。

なんでも取り込む沼だった。

国家神道 一億総懺悔 無宗教 
クリスマス ハロウィン 盆暮正月

特攻兵と弾圧されたキリシタンたちは
よく似ている。

純潔に、高潔に殉教する。

1932年5月5日。上智大学のカトリック教徒の学生3名が靖国神社本殿に敬礼を行わなかった。同年10月1日。『報知新聞』がこのことを報じたことで、世間からのカトリック教会への非難が高まる。日本のカトリック教会は、、聖省訓令「祖国に対する信者のつとめ」を出し、靖国に対して敬礼することは信者のつとめであると宣言し、屈服する形で事態を収集した。

西山俊彦神父など、今も日本のキリスト教徒の中には、その時に、徹底してキリスト教の教えを貫けば、太平洋戦争を止められたのではないか?という意見がある。

一方で、『沈黙』のような踏まず死んだ者に対して、「あれはやり過ぎている…」という本音も聞こえてくる。

私と小鳥と鈴と
         
   私が両手をひろげても、

   お空はちっとも飛べないが

   飛べる小鳥は私のやうに、

   地面を速くは走れない。

   私がからだをゆすっても、

   きれいな音は出ないけど、

   あの鳴る鈴は私のやうに

   たくさんな唄は知らないよ。

   鈴と、小鳥と、それから私、

   みんなちがって、みんないい。

  金子みすゞ


Yotsuya. 2023.


破戒

神道、仏教、キリスト教、サイエンス、AI

神々は交代していく。

完璧な神は、訪れていない。
正確には、それらが完璧だったにせよ
それを完全に理解出来た人間が、居ない。

はじめに縄文の神があった。

2万年後、僕らは太陽の塔の下で祈りを捧げているの
かもしれない。二度目の大阪万博は、既に二度目のTOKYOオリンピックの轍を踏み掛けている。

 再現は「いま、ここ」を越えない。
越えられ 再度見出されるような
接吻なら
そんなものいらない

もう二度と手に入らない
だからこんなにも苦しい
そしていとしい

縄文の神は、ユダヤ以前だろうか?
それとも、その段階から
ウルトラマンの教えがあったか?
星が松に下った後か?
それは、
M78 or M45?

縄文に帰れ!
彼岸の男、ウルトラマン太郎は、
久高島でそのことばを降ろした。

プロレスは底が丸見えの底なし沼

週間ファイト, 井上義啓

なぜ底が見える?
底からの ひかり が目に入るから。
ひかりと闇が共に"そこ"にあるから。

ヒノモト

陰と陽が混ざる沼。
それはプロレス。
それは心理学。

これらの全ては、『死海文書』に書いてある。
きちんと本物を読んで来たんだ。
「マジだぜ!」ダンプ松本

Memories of エルサレム in 2019, 7月, Summer. 生命の樹, 最後の晩餐, 嘆きの壁, 『死海文書』があった聖書博物館。2020年3月13日。調査の結果、館内の『死海文書』とされる16点全てが偽物であることがわかった。調査の前に入れ替えられたのではないか?という説がある。


世界的大ヒット映画が日本でコケている。
日本人の洋画離れが激しいらしい。
じゃあ、僕らは何を見ているのか?

アニメ 。
リメンバー・東映まんがまつり

祭りじゃ祭りじゃわっしょいわっしょい

真の政(まつりごと)

アニメとはアニマ。つまりいのちであり、精霊。
漫画家、アニメ作家はそこにしか輝ける場所が無かった預言者たち。
戦後、精神が錯乱していても、収入が確保できた人たち。

間黒男 そして 加持リョウジ

その幼な虫は、沼の中で集合していたことば(ロゴス)を鉄のお椀に入れ、すり替え、人に伝えた。
そこから学んだことを、改めて、
ひとに伝える者たちも居た。
それだけで 十分だった。

人類補完計画
最初の人間  タモリ

トキワ荘の窓には
ものすごい量のひかりが降りそそいでいた
土地・場所・人に力があるのは
ひかり に質量が無いから

さあ、

ぼくたち(ポーの一族)はどう生きるか?

子守唄が聞こえる。
ギザギザハートの。

ヒカリがガラスを透過する。

久留米にある雪の聖母会 聖マリア病院。
聖マリア病院には、
天神大名にあった
アルメイダゆかりの教会が
まるまる移築されている。
そのステンドグラスを著書の
背表紙にした93歳の異能の歴史学者、
杢尾幹雄。

杢尾の杢は、高杢の杢。
高杢が生まれたのは、久留米。

フミヤ VS 高杢。

間に挟まれた鶴久。

Forget-Me-Not

鶴久のギルガメッシュ!



「愛には愛で感じ合おうよ」

その神は
耐えよ 堪えよ
と言う。

だから馴染めなかったものたちは、死ではなくアフリカを出た。そして南アメリカまで行き着く。もうインディアンもアボリジニーも殺し尽くした。聖なる森に映画の都も作り終えた。月や火星は遠すぎた。

でも イマジネーションで行けば近かった

行けたのは南波宇宙兄弟と、そのファンと編集者。

宇宙はこころの中にある。という
太古からのことばは、本当だった。
"情報次元"は、思ったよりも近かった。

ネイティブアメリカン、ホピ族の神話。
それをモチーフにした
『WEST WORLD Season 2』
そのEnding。

それは予言というよりも、
決められた未来に対して
情報を多めに取得したものが
記した直感的事実。
ブラックボックスを
介すと言えば
それはスピだし、
介さないと言い張る努力が
これまでの科学。
AIと同じかそれ以上のことは
人にまだ出来る。

全て、1989年の
文書に書いてあること。

その文書を生むために、
僕たち地球人は、これまで
ずっと分担。分業をしてきた。

だが、その分業は戦争という
副産物、副作用を持っていた。

日本人の分担した仕事は、神仏科集合。
その最終到達点、1989年の

『コロコロコミック』。

神仏基(基督: キリスト)習合ではなかった。
キリスト教ではなく、科学だった。
概念としての、西洋思想。

科学の大元にある、
個人主義、ロマン主義、ヒューマニズム。

つまり、「自由意志」


生命の樹は一つに収斂する。
自由意志を一時的に否定し、
それを人類全体で超克する。
戦争は終わる。

「神は死んだ」
Gott ist todt! Gott bleibt todt

『悦ばしき知識』(Die fröhliche Wissenschaft,1882)フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ

神を殺したのはサイエンス。
だが実際には、それが新しく神の座に着いていただけ。
神はずっと居る。

ニーチェは永劫回帰を主張している。
永劫回帰とは、世の中は同じ事象が永遠に繰り返しているだけである、
という主張。つまり決定論。

科学は、その決定事項についてグッと多くの情報を
集めて来たと僕たちは思っていた。というか
100%イケる!くらいのモチベーションで脳を調べてた。

でも、科学(言葉・数式)という神はこころ(ことばでありロゴス)を
越えない。とても伝えたがるけど。

知覚現象のモデルを考案し、そこに行動実験で取得したデータをフィッティングさせる。そのフィット率が90%を越えたとしても、そのモデルは知覚現象そのものを越えない。
ベクションはベクションであり、姿勢制御や心拍や発汗や瞳孔サイズに置き換えて理解しても、数値に置き換えて分かろうとしても、
ベクションというロゴスは越えていけない。

Seno, T., Sawai, K. I., Kanaya, H., Wakebe, T., Ogawa, M., Fujii, Y., & Palmisano, S. (2017). The oscillating potential model of visually induced vection. i-Perception, 8(6), 2041669517742176.

https://journals.sagepub.com/doi/pdf/10.1177/2041669517742176

Palmisano, S., Apthorp, D., Seno, T., & Stapley, P. J. (2014). Spontaneous postural sway predicts the strength of smooth vection. Experimental Brain Research, 232, 1185-1191.




言葉は心を越えない
とても伝えたがるけど
心に勝てない


2015年。心理学の”科学”論文の再現性は39%だということがわかった。
サイエンスというエアポケットの神を越えるしかない。
神をまた死なさねばならない。
AIによってではなく。
人の手によって。
迷わずに。
 
Say Yes!

Ich werde nicht sterben!  Weil ich dich liebe!!
Gustav Theodor Fechner

僕は死にません!   あなたが好きだから!!
グスタフ・テオドール・フェヒナー

(著者意訳)

サイエンスを捨てろ!とは、全く言ってない。
真逆だ。これからもサイエンスは大事だ。使い続ける方がいいに決まってる。多分、湯川秀樹もフェヒナーも同じことを言っていたはずで、彼らの考えも、同じ道の次のフェーズに過ぎなかった。でも彼らは、「耄碌した」と失笑されてしまった。今こそ、その失笑への罪悪感を利用して、信徒(例えば日本のギブソニアン、現象学的心理学者)を再発見だ!

世界・ふしぎ発見!
遊びをせんとや生まれけむ

2024年、人類全体の進化で、その全力全開魔法は受け止められうるか?僕はただその波に乗りたい "Early Adaptor" だ。世界中で同じ流れが生まれている。小さい座や理が同時並列に既にある。あとは和するだけ。

Sato, H., Morimoto, Y., Remijn, G. B., & Seno, T. (2020). Differences in Three Vection Indices (Latency, Duration, and Magnitude) Induced by “Camera-Moving” and “Object-Moving” in a Virtual Computer Graphics World, Despite Similarity in the Retinal Images. i-Perception, 11(5), 2041669520958430.
Yahata, R., Takeya, W., Seno, T., & Tamada, Y. (2021). Hot wind to the body can facilitate vection only when participants walk through a fire corridor virtually. Perception, 50(2), 154-164.

https://journals.sagepub.com/doi/full/10.1177/2041669520958430
https://journals.sagepub.com/doi/full/10.1177/0301006620987087

Hiramatsu, C., Takashima, T., Sakaguchi, H., Chen, X., Tajima, S., Seno, T., & Kawamura, S. (2023). Influence of colour vision on attention to, and impression of, complex aesthetic images. bioRxiv, 2023-06.


ガッデム! 忘れるな!

アイアム  厨二王



https://journals.sagepub.com/doi/full/10.1177/20416695231223444

Kozaki, T., Seno, T., & Kitaoka, A. (2024). Illusory motion and vection induced by a printed static image under flickering ambient light at rates up to 100 Hz. i-Perception, 15(1), 20416695231223444.  Suzuki, W., Seno, T., Yamashita, W., Ichinohe, N., Takeichi, H., & Palmisano, S. (2019). Vection induced by low-level motion extracted from complex animation films. Experimental Brain Research, 237, 3321-3332.  Suzuki, W., Hiyama, A., Ichinohe, N., Yamashita, W., Seno, T., & Takeichi, H. (2020). Visualization by P-flow: gradient-and feature-based optical flow and vector fields extracted from image analysis. JOSA A, 37(12), 1958-1964.





      
受け皿のチ   
旅立ちのマド  

一に曰く、和を以て貴しとなす
 
戦いません     
 愛されているから   
  ありがとう       


  



後半へつづく。

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