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反省する自分に自信を持っているから反省する行為自体が前向きになる

何かよくないことが起きた時、私は自分が原因だと考える。勿論、他者や環境が全然悪くないわけではない。その前段階としてそういう他者や環境の悪さを引き寄せてしまう経験を必要とした自分の責任を想うのだ。都合の悪い他者や環境を得た自分とそれを悪いと解釈する自分、そこに壁を感じる自分だ。

全てにこれを適用するのはやり過ぎの感はあるが、余裕があるうちはこれで十分だし、余裕がない時こそ、この方法が問題の再発防止につながり、困難が複合する前に分割して解決へ導ける。そして何より周囲に対する印象を制御できる。普通は無理筋のこの態度は、真面目さがないと実行困難なので、それを自信に転化できる

自信を持っているから反省する行為自体が前向きになる。自己嫌悪に赴くことなく、他者や環境のせいにして腐ることもない。少なくともその状況はすぐに脱してしまう。自分自身を責めることなく、反省して成長できてしまうといういいとこどりだ。なぜこの理屈がわからないのか。経験がないからだろう。

一番長く悩まされるとしたら、反省を面白いものとしてとらえる人の少なさかもしれないが、その対策も経験不足の解消というか、経験の活かし方の経験不足の解消になるので、こればっかりは時代が進むのを待つしかない。そこに行きつくまでに一度は人生(の意味)に疑問を持たなくてはならない。

これだけ問題が大きいといろんなことを嫌でも学んでいってしまう。もともとは形而上学が主であっても、真実よりも事実を対象とすることになるので、地上の営みも学習することになる。幸い、形而上学から見て人間社会の構造は下位構造となるので理解だけは簡単だ。むしろ機能を違えている構造までわかってしまう。(これがわかるがゆえに嘘や隠し事は通用しない。)

この本当のことへの理解と洞察があれば、ごまかしで進んでいて、いずれ真実(寄り)の世界と合流する際にも慌てることがない。世界は不条理と感じる偶然的な要素を遊びとして混入し、嘘や虚構の入り込む余地を構造化しているが、この遊びは当然幅があるので、逸脱しすぎると復元しようとする。

これが偽りの選択をした世界が分岐したのちに、真実の選択で得られた世界のギャップが埋められる時なのである。(嘘つきは閻魔様に舌を抜かれるというのはこれの優れたメタファーだ。)

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