見出し画像

虐待サバイバー、数十年振り回されてきた希死念慮を伴う寂しさが消えた時の話。

こんにちは。虐待サバイバーのめいです。
職業はパーソナルトレーナー、職歴は20年ほどになります。

新年明けましておめでとうございます🎍🎊🎍
皆さまお変わりなくお過ごしでしょうか🍀


私は今年も二年参りをさせて戴きました。
大晦日の夜(旧年中)に家を出て午前0時の年越しを神社で迎え、新年になってから家に帰る、というもので
終夜運転のJRに乗って帰宅したのが午前3時過ぎ、ベッドに入ったのは4時を回っていたかと思います。

そんな絶妙に寝不足で少しハイな頭でこれを書いています。



ある年の二年参りの最中、ゆく年くる年のあれこれを思っている時にふと、
自分の中から虐待体験を由来とする「身体の痛みを伴う強烈な寂しさ」「希死念慮と常にセットだった寂しさ」が消えている事を発見しました。

心のどこを探しても、ない。
消えてなくなっている。

目がふたつ、鼻がひとつ、鼻の穴はふたつありますね、というのと同じくただの事実として「寂しさが、ないですね」とわかった感じです。

長年、専門書で寂しさや希死念慮を抱える患者さんへの対応(心理学的治療)の仕方を学んで実践していたものの私にはあまり効果がなく、それまでの数日間は「寂しさへのアプローチ」を変えていました。

簡単にまとめると
「寂しさや希死念慮にも何かしらの存在意義があるはず😀」という観点に立って「寂しさを抱え続けるメリットは何か?🤔」を考え、
「寂しさや希死念慮を抱え続けることで私はどんな恩恵を受けているか😍?」、「それは本当に『恩恵』と言えるだろうか🧐?」等を分析するやり方です🔍👀

その新しい手法によって数十年解消しなかった問題が意外な程あっさりと消えたのでした。

嬉しい等の明るい感情がわく事もなく、ただ「寂しくなくなった」自分を受け入れておしまい。

めっちゃおっきなかさぶたがいつの間にかとれてなくなっていた事に気付いた時のような拍子抜け感、というか、
数分したら「かさぶたが取れた事」も忘れているような、あっけない「寂しさの喪失体験」でした。



それからしばらく経って、今。2024年の元日になって思うのは

『あの強烈な寂しさを後生大事に抱え込んで手放さなかったのは、私自身だったんだな』
『孤立させられ感情を抑圧させられてきた子どもが生き延びるために、そうすることが必要だったんだろうな』
という感想です。

一般的に怒りや寂しさは「ネガティブなもの」として価値を吟味されることが少ないモノですが、
虐待被害当時はその感情を強くしっかりと感じることが、発狂せず現実世界に繋がって生きていくために必要だったのね、と思いました。

そして寂しさへのアプローチを変えた結果「今はもう、寂しさを手放しても良くなったのね」と理解できたから、治ったんだな、と🌈



サバイバー特有の強烈な寂しさが消えた後の変化としては………
「寂しさと希死念慮に振り回されていた時の自分」が何に困っていたか忘れて暮らしているのが面白いと思っています😂💖

ビフォーアフターの違いを思い出そうとすれば
•すぐに疲労困憊しなくなった
•夜中にギャン泣きしなくなった
•生きていることに罪悪感を感じなくなった 
•心臓をナイフでえぐられるような痛みが消えた
•息をしてるだけで泣いちゃう、とかもなくなった

等、 めちゃめちゃ楽になれたエピソードはたくさんあるのですが心のざわめきは皆無、
最初からそんなことで困ってはいなかったかのように感じています✨🙏🌟




#note書き初め


宜しければ是非、サポートお願いします😊🙏💖 書籍などより良いnoteを書くために活用させて戴きます📚️✨✨