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自分の履歴書② 社会人として、デザイナーとして苦しみ続けた20代前半

この記事は、社会人デビューしてデザイナーとしてもがき苦しみ抜いて、その後巻き返していく自己紹介記事です。大学時代の記事の続きです。

アルバイトで社会の厳しさに絶望する

大学を卒業後は、芸術家を目指すべく小さな広告代理店でアルバイトをしながら制作活動をすることに。今ほどオシャレではなかった当時の中目黒が好き、という理由だけで決めた職場でした。
自分の作品をアピールするためにウェブサイトをゼロから作りました。ドメインとサーバーを取得しても数千円でまかなえるのには驚きでした。HTMLも独学です。アート作品ばかりを集めたサイトを面接時に提示して、採用いただいたのは今思えば感謝の気持ちでいっぱいです。

入社してまず苦労したのが、電話を受けるという当たり前の仕事。今は一人一個スマホが与えられている企業が多いと思いますが、当時はデスクに電話機が置いてあり、手の空いている人が電話に出る方式でした。電話を取る→相手の社名と名前を聞く→誰宛てなのかを聞く→転送する、この作業がうまくできず、ついには電話を取ることが怖くなってしまっていました。

仕事内容は単純業務、たまにバナー作成の仕事が回ってくるのですが、とにかく手が遅くて、なおかつ見当違いのデザインで怒られてばかりでした。「お前とは仕事したくない!」そんな言葉を毎日のように浴びせられていて、いつも仕事帰りに目黒川沿いのベンチで涙してました。社会人ってこんなにも大変なのか、、と。大好きだった中目黒が大嫌いな場所になっていました。2日徹夜なんていう時もありましたが、今思うと膨大な量の仕事だったのではなく自分の力量不足でした。何より辛かったのは、相談できる同僚もいなかったことです。

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そんな状態が半年続いたある日、心がポキっと折れてしまいました。会社を無断で休んで町をフラフラしていました。ネットカフェに入り薄暗い個室でボンヤリしていて、ある決意をしました。ネットカフェのパソコンから部長宛に退職のメールを送りました。もう無理だと。こうして社会人として1社目の会社をあとにしました。

アートで社会を変えるには、まずはきちんと社会を知る必要がある

苦しかったアルバイトと平行して作品制作もしていました。大学のような設備がないので実家のガレージで制作をしていました。
公募展での受賞で、アートギャラリーでグループ展ができる機会に恵まれました。自分の作品が多くの人の目に触れることは本当に嬉しかったです。一方で作品を見た人の心理や行動に何かの影響を与えることができたのか、何かに貢献することができたのかは疑問でした。そう思うと自己満足的な事をしているようで、空虚な気持ちになりました。
アルバイトで苦しんでいたこともあり、ただ作品を作り続けても人の心、または社会に突き刺さる作品は作れないのではないか、と。作品を観に来てくれる人の大半は社会人で、その社会人の気持ちを理解することなく、素晴らしいアートを生み出すことはできないだろうという結論に至りました。
芸術家を目指すことは一旦辞めることにしました。

ゴリゴリの営業会社でデザイナーとして巻き返す

きちんと就職しようと思っていましたが、モチベーション的にはどん底だったので、大手企業など就職しようとも思わず、自宅から最も近いターミナル駅である池袋で探しました。
デザイナー職を諦めることも考えましたが、逆にデザイン以外で出来ることが何一つありませんでした。

電話回線取次の営業会社に、初めて正社員採用されました。この会社に決めたのはデザイナーが一人もいない事も大きな理由でした。それは美味しい仕事は、経験値のある人がどんどんやってしまうからです。雑務での修行は必要。だけどチャンスを与えないのは違うと思っていました。当時の私は本当に実力不足で仕事がもらえなかったのかもしれません。だったら嫌でも仕事が入ってくる環境に飛び込めば良いと決心しました。

デザイナーが私だけの状態で良かったことは、お客様先に営業と同行して案件獲得するところから、制作して納品までの一連の流れを経験できたこと。逆に悪かったことは、間違いを自分で気づけないと大きなミスにつながることです。デザインが理由で失注してしまうのです。
お客様の要望を実現するのも大事ですが、相手はデザイナーではない、だからデザイナーとしてこれが良いと思うものを提案することが大切なのだと思っていました。しかし、この配分を間違えると良いサイトにはなりません。デザインの意見が強すぎるアートになってしまいますし、クライアントの意見を飲みすぎると、当たり前の完成で満足度が低いばかりか成果の出るサイトにならないこともあります。

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営業さんとたくさんの打ち合わせに同行して分かったことは、愚直にお客様の要望を聞くことでした。方法論はありません。必死に手探りで聞くのです。
この会社でのお客様は大きい企業はほぼ皆無でした。商店街のお店や、個人で法人を立ち上げて輸入代行をしていたり、中には怪しい化粧品を取り扱う方もいました。いずれのお客様も当然ながら本気なのです。例えが悪いかもしれませんが、大企業が予算消化で発注するのとは違うのです。ちょっとでも迷いがあればクライアントに電話して聞く、出向いて話す、心からクライアントの立場に立って考えることの大切さに気づけたのは営業さんのおかげだと思っています。デザインはサービス業である、という考えもこの時期に醸成されたのだと思います。

一方で、デザインスキルは我流のままで突き進み、様々なサイトの見様見真似ばかり。レベルが高いとは言えませんでした。

社会人の遊び方を知る

営業職が多い会社だったので、カラオケやキャバクラなどに退勤後に誘われて行く機会が増えました。カラオケは本当に苦手だったので学生時代は断ってきました。先輩に言われたのは、カラオケで得意な歌を数曲持っておくのが社会人のたしなみ、だということでした。
これは、同僚であれ取引先であれ共に楽しめる事があるのは武器になる、ということだと解釈しています。

もう一つ、キャバクラです。初めて行ったキャバクラは異様な熱気とドロドロした空気でよどんでいる空間という印象でした。スーツを着たサラリーマンと女性が談笑している空間は、自分がイメージしていた社会の風景の一つでした。お金を払って何でも話を聞いてくれる、盛り上げてくれる、それが心地よいと感じる人が多いのだなと思いました。私はなかなか話が盛り上がらずに、逆に気を遣って話すことが多かったので話の練習としては最適でした。自発的に行きたいとは思えませんでした。

会社が縮小、二度目の退職

ゴリゴリの営業会社だったので、毎朝オース! という掛け声の朝礼をして気合を入れて仕事が始まっていました。ある時から雲行きが怪しくなり、案件がほとんど取れなくなってきていました。ついにはデザイナーも営業電話などに駆り出されるようになり、一方で退職者がどんどん出てきました。そして会社の規模を縮小することになり、同じ池袋にある雑居ビルに引っ越すことになりました。真夏の炎天下で皆でダンボールを運んで引っ越したのは印象に残っています。会社というのは傾き出すとこんなにも早く落ちていくのか、と思いました。当時の上司に「もうこの会社にいるのは良くない、自分も転職活動をしている。お前も早く転職した方がいい。」と言われました。上司がまず退職。その後に自分も転職先も決めないまま退職しました。

この名前の知られていない営業会社は、仕事の楽しみ、責任を教えてくれた会社だったので、退職はとても残念でした。また、退職後もお付き合いのあるお客様ができたのは本当にありがたい事です。
最後に、仲の良かった営業の人とこじんまりと送別会もしてくれました。

社会人20代中盤その1へ続きます

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