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J・D・サリンジャー全小説の感想

生誕百周年ということで、2019年にJ・D・サリンジャーの全小説を再読しました。その際ちょこちょこ感想ツイートしていたもの(2019年1月3日から3月6日)をまとめ直しました。


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『若者たち』(The Young Folks)1940年

初期短編集第一弾『若者たち<短編集Ⅰ>』より。これらの短編は雑誌に発表されたもののサリンジャー本人が単行本に収録されることを拒否したため、本国アメリカでは書籍化されていません。おそらくこの作品群を習作と捉えていたからだと思われるのですが、それがどういうわけか日本では翻訳され書籍化されていました。現在は絶版になっているので、当時買っておいて本当に良かったなと思います。その冒頭に収録されているのがデビュー作「若者たち」。ホームパーティー中の若者たちの心理を描いていて、ほぼ全編がエドナとジェイムソンの会話で成り立っているのですが、まあこの会話の噛み合わないこと。既にサリンジャー節全開といった感じです。処女作というのは往々にしてその作家の抱える中心的な問題が表れがちですが、やはり「コミュニケーションの不毛」や「鋭敏であるが故の理解されなさ」といったテーマが根を下ろしている気がします。エドナの孤独感の中にホールデン・コールフィールドの原型がある気がしてなりません。


『エディに会いな』(Go See Eddie)1940年

兄妹というのはサリンジャーが好む設定ですが、ホールデン&フィービーやゾーイー&フラニーと違って、このボビー&ヘレンはお世辞にも美しい関係とは言い難いものがあります。最後にオチがありますが、それもややガッカリな結末なんですよね。


『じき要領をおぼえます』(The Hang of It)1941年

これはおそらくコリヤーズ誌から「O・ヘンリ的なショートショートを」という依頼を受けて書いたと思われます。いかにもそんな展開なんですが、オチがやや陳腐ですね。サリンジャーも本意ではなかったのではないでしょうか。


『できそこないのラヴ・ロマンス』(The Heart of a Broken Story)1941年

初期作品では特に好きな一編。コリヤーズ誌向けのロマンスを書けなかった理由自体を皮肉を込めて小説化し、エスクワイヤ誌に発表したもの。さえない男が憧れの美女とお近づきになるパターンを浮かべては没浮かべては没にするのですが、その内容が軽快でコメディタッチで面白いんですよね。理想の女性と親しくなる方法についてのめくるめく妄想ワールドといった感じで。村上春樹さんの「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」はこの小説をヒントにしてるのかもしれません。僕はこの小説の中で主人公がラブレターにしたためるこの一節が好きです。「愛とは性と結婚と六時のキスと子どもたちだと考えている人もいます。おそらく、そうなんでしょう。でも、ぼくはどう考えているかお分かりですか? ぼくは愛とは触れようとして触れ得ぬことだと思います」


『ルイス・タゲットのデビュー』(The Long Debut of Lois Tagget)1942年

或る女性が二度の結婚を通じて試練を乗り越える話なんですが、短編にするにはやや詰め込みすぎな気が・・・。訳者はこれを成熟の物語と捉えているようですが、僕は妥協と諦念の物語だと感じます。タイトルの「デビュー」もアイロニーだと。


『ある歩兵に関する個人的なおぼえがき』(Personal Notes on an Infantryman)1942年

これは「じき要領をおぼえます」とよく似ていますね。戦争ものでショートショートでオチが今一ついただけない。どうしてもサリンジャーらしくない気がしてしまうので、やはりこれも依頼に合わせて書いたのではないでしょうか。


『ヴォリオーニ兄弟』(The Varioni Brothers)1943年

初期短編の中では特に完成度の高い一編。天才兄弟というのもサリンジャーが好んで用いる設定ですね。輝ける無垢なる才能が、世俗やポピュラリティによって損なわれていく悲劇を描いていて、後の作品のテーマに繋がる部分も見受けられます。最後には独特の余韻が残ります。


『二人で愛し合うならば』(Both Parties Concerned)1944年

語り手の口調がホールデンとそっくりなので、「ライ麦畑でつかまえて」の文体はここで初めて試されています。(この小説の渥美さんの訳とライ麦の野崎さんの訳も文体がよく似ています)でもこの主人公のビリーはただ未熟なだけで終わっていて、およそホールデンの魅力には及ばないですね。


『やさしい軍曹』(Soft-Boiled Sergeant)1944年

この短編集で一番好きなのはこの作品。何度読んでも最高です。夫のフィリーが妻のジャニタにかつて戦場でお世話になったバーク軍曹のことを語り聞かせるという設定なんだけど、この三人ともが僕は大好きなんですよね。短い中に三人の魅力が凝縮されています。サリンジャーは後期になるにつれ思想性を濃くしていくのですが、前期にはこういうセンチメンタリズムが爆発する作品があるんですよね。これなんかは「ナイン・ストーリーズ」あたりに収録されても良かったのになあと思います。だって世界中の人に読んでほしいもの。僕はこの作品を読み返すたびラストのところで必ず泣きます。感動的な話だからというわけではない。悲しいからでもない。軍曹のやさしさに胸を打たれるというのも違う。うまく説明できないのですが、フィリーの語りの奥にあるサリンジャーの審美眼に深く共鳴するからかもしれません。


『最後の休暇の最後の日』(Last Day of the Last Furlough)1944年

ベーブ・グラドウォーラー三部作の一作目。色々な意味で重要な作品。まずホールデン・コールフィールドの兄ヴィンセント・コールフィールドが登場し、弟のホールデン(二十歳)が行方不明であることが語られています。ライ麦のホールデン初登場。またベーブの妹マティはホールデンの妹フィービーの原型と言えるような少女として登場します。後半ベーブがマティーに語り聞かせる口調でひとりごとを呟くシーンでは、サリンジャーのイノセンスに対する憧憬が表れていて、「ライ麦畑でつかまえて」の種が芽生え始めています。さらにベーブが父親に歯向かうシーンからはサリンジャーの戦争観も垣間見られますし、「アンナ・カレーニナ」「カラマーゾフの兄弟」「グレート・ギャツビー」「嵐が丘」についての言及があることで、サリンジャーの読書遍歴に触れることもできます。最後のシーンもグッとくるんですよね。勝手な憶測ですが、サリンジャーはこの小説の脇役(兄の話でしか登場しない)ホールデンの高校生時代を描こうと思い立ち、マティを原型としてフィービーという妹を造形し、「二人で愛しあうならば」で実験した語り口調を用いて「ライ麦畑でつかまえて」に結晶させたのではないでしょうか。


『週一回なら参らない』(Once a Week Won't Kill You)1944年

「最後の休暇の最後の日」は出征前夜の話でしたが、これは主人公を替えて出征当日のことを描いています。戦争の現実が飲みこめていない妻と時間を過去に留めて生きる叔母との別れのひととき。この叔母とのラストシーンがなんとも切ないですね。


『フランスのアメリカ兵』(A Boy in France)1945年

ベーブ・グラドウォーラー三部作の二作目。これはベーブが戦地の塹壕で眠るひとときを描いた話。過酷な戦場と能天気な母の手紙とのギャップが悲しい。サリンジャーの戦争体験がいかに彼の心に暗い影を落としているかが伺えます。また文中エミリー・ディッキンソンとウィリアム・ブレイクについて触れている箇所があり、サリンジャーが詩にも通じていることが分かります。

※後に刊行された『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年』(金原瑞人訳 新潮社)には「フランスにて」という題でこの小説の新訳が収録されていますが、そこでは最後の母からの手紙が妹からの手紙という解釈になっています。僕は英語の原文を読んでいないので判断のしようがありませんが、手紙の差出人が「マチルダ」であることを考えると、妹の可能性が高いような気がします。(「最後の休暇の最後の日」でベーブの妹の名はマティとなっているので)


『イレーヌ』(Elaine)1945年

現実社会への適応能力が希薄な祖母・母・娘が、結局適応しないまま生きる道を選ぶといった結末なのですが、この時期のサリンジャーはそれを憧憬の眼差しで捉えているような気がします。イノセンスが損なわれないという意味ではハッピーエンドなのかもしれないですね。


『マヨネーズぬきのサンドイッチ』(This Sandwich Has No Mayonnaise)1945年

「最後の休暇の最後の日」に登場したヴィンセント・コールフィールド(ホールデンの兄)が主人公。表現が緊張感に満ちていて、ヴィンセントのモノローグなどはほとんど狂気に近いですね。戦争によって摩耗していく精神と家族への思慕。


『他人行儀』(The Stranger)1945年

ベーブ・グラドウォーラー三部作の三作目。ベーブが友人ヴィンセント・コールフィールドの戦死の事情を彼の元恋人のとこへ告げに行きます。この作品からも戦争に苦しめられたサリンジャーの傷みが見て取れますね。唯一の光は妹マティのイノセンスでしょう。


『気ちがいのぼく』(I'm Crazy)1945年

いよいよホールデン・コールフィールドが一人称の主人公として登場します。「ライ麦畑でつかまえて」で重要なシーンとなるスペンサー先生を訪ねるくだりとフィービーの部屋で語り合うくだりはすでにこの小説中に描かれています。ただいずれのシーンも「ライ麦」の方がはるかに魅力的です。ここではまだホールデン独特の語り口調も確立されていません。サリンジャーはやがてこの小説を原型として初の長編小説に取り組むことになります。『若者たち<短編集Ⅰ>』はここまで。


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『マディソン街のはずれの小さな反抗』(Slight Rebellion Off Madison)1946年

初期短編集第二弾『倒錯の森<短編集Ⅱ>』より。これも主人公はホールデンですが、こちらは三人称です。「ライ麦」にも出てくるサリー・ヘイズやカール・ルースとのくだりがあって、やはりここでもホールデンは誰とも分かり合えない少年として描かれています。ナイーブで夢見がちで寂しがり屋なホールデンの性格は既にできていますが、「ライ麦」ではその要素がさらに強まっているように感じます。語りについては試行錯誤してるみたいですが、長編にする際一人称にして「二人で愛しあうならば」の口調を取り込んだのは大正解だったと思いますね。


『大戦直前のウェストの細い女』(A Young Girl in 1941 with No Waist at All)1947年

これは正直なところ何回読んでもよく分からないんですよね・・・。サリンジャーの意図がどこにあるのか焦点が絞り切れなくて。人生の一大事についての判断を短時間のうちにあっさりつけてしまうのは戦争の影が忍び寄っているせいでしょうか。


『ある少女の思い出』(A Girl I Knew)1948年

主人公の恋したユダヤ人の娘がナチスの手によって殺されるという話なんですが、これはサリンジャー自身がユダヤ系である背景が大きく影響していると思われます。やや印象の薄い短編ですが、サリンジャーの数少ない恋愛小説のひとつですね。


『ブルー・メロディ』(Blue Melody)1948年

初期短編の中では最も好きな作品のひとつ。イノセンスがある種の大人たちによって容赦なく奪われる物語をサリンジャーは繰り返し書いていますが、この作品で怒りと失望の矛先が向けられているのは人種差別。あまりにも悲しい物語です。例えば「人種差別反対」という字面だけでは人の心に浅くしか触れることができないけれど、こうして作品に昇華させると力が宿り人の心の深いところに届かせられる。それこそが文学の持つ意義だということを、僕は学生の頃この小説によって初めて教えられたような気がします。


『倒錯の森』(The Inverted Forest)1947年

雑誌掲載順でいうと「ある少女の思い出」の前にあたりますが、この本では巻末に置かれています。初期中短編の頂点というべき作品。天才詩人レイモンド・フォードと二人の女性を巡る物語で、ここでも「無垢なる才能が世俗的なものによって損なわれる」というテーマが流れています。しかしながら一筋縄ではいかない着地を見せるところがさすがサリンジャー。僕はこれほどの傑作が本国で出版許可されなかったことを不思議に思うのですが、この後サリンジャーはシーモア・グラス(レイモンドと同系統にある)というさらに魅力的な人物を生み出したからかもしれないですね。『倒錯の森<短編集Ⅱ>』はここまで。


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『ライ麦畑でつかまえて』(The Catcher in the Rye)1951年

放校処分を受けた17歳の少年ホールデン・コールフィールドがニューヨークの街を三日間放浪する物語。サリンジャー唯一の長編。二十歳の頃に出逢ってからこれまでに最も繰り返し読んだ本であり、僕の人生を決定的に変えた小説です。大学の卒論もこの作品の研究でしたが、これほど野卑な言葉と毒を孕みながら何故こんなに美しい輝きを放つのかはいまだに解き明かせません。ちなみに僕が愛読しているのは白水Uブックスの野崎孝訳。村上春樹訳の方がもちろん言葉は新しいんだけど、ホールデンが二歳くらい年上に感じられるんですよね。僕はすっかり野崎訳に慣れてしまっているし、ドライヴ感のあるサリンジャーの文体を生かしきった名訳だと思います。作中ホールデンがいい本について「本当に僕が感動するのはだね、全部読み終わったときに、それを書いた作者が親友で、電話をかけたいときにはいつでもかけられるようだったらいいな、と、そんな気持ちを起こさせるような本だ」と述べているのですが、僕にとってはそれがまさにこの小説です。今回改めて思ったのは、ホールデンを描きつつも、アントリーニ先生の視点も持ち合わせているところがサリンジャーの最大の魅力ではないかということです。(それは後に「ゾーイー」という小説に発展するわけだけど)片手落ちになっていないところが、この作品に一層深みを与えています。そして1951年に発表されたこの小説が、明らかにマイノリティであるホールデンを主人公に据えつつ世界累計6500万部を売り上げ、現在でも毎年25万部ずつ売れているという事実は僕にとって希望そのものです。ホールデンに共感する人間がそんなにいる世界なら生きていける気がするのです。


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『バナナフィッシュにうってつけの日』(A Perfect Day for Bananafish)1948年

サリンジャーが本国で出版した唯一の短編集『ナイン・ストーリーズ(Nine Stories )』(1953年)より。まず「バナナフィッシュにうってつけの日」。サリンジャーは自作のことを語らないので想像するしかないのですが、おそらくこの作品を書き上げたとき「やっと本当に書きたいものが書けた」と思ったのではないでしょうか。そして、サリンジャーが最も自己投影し最も愛した登場人物はこのシーモア・グラースだったのではないでしょうか。だからこそこの作品をきっかけに壮大なグラース・サーガを展開させ、後期はシーモアの謎に迫ることに作家生命を捧げたのではないかという気がするんですよね。改めて読むとあの最後の一行に向かうまでの過程に技巧の限りが尽くされています。バナナフィッシュという架空の魚の生態やシビルとの戯れの描写はもちろんですが、前半のミュリエルと母の会話のリアリティも素晴らしいです。他の作家には絶対こういう書き方はできないと思います。ため息が出るほど完璧な小説。この小説を二十歳で初めて読んだときの衝撃は忘れられないし、僕は今でもその謎を追いかけている最中です。


『コネティカットのひょこひょこおじさん』(Uncle Wiggily in Connecticut)1948年

シーモアの弟(グラース家三男)が間接的に登場するので一応グラース・サーガの一部ではあるけれど、物語は主人公エロイーズのやり場のない苛立ちや悲しみを軸に展開されます。大切なものが理不尽に奪われる人生のやるせなさ。


『対エスキモー戦争の前夜』(Just Before the War with the Eskimos)1948年

これは何度読んでも僕にはよく分からないんですよね。そもそも何故この作品が『ナイン・ストーリーズ』に選ばれたのかも謎。うーん・・・。色々な意味でお手上げですが、いつか分かる日が来ることを楽しみにこれからも読み続けます。


『笑い男』(The Laughing Man)1949年

これは好きな一編。何度読み返しても怖いと思ってしまいます。前半はサークルの子どもたちと団長の交流が描かれていて牧歌的な雰囲気なのですが、団長に恋人ができたあたりから少しずつ歯車が狂い始めます。それを子どもの視点から描いてるのが絶妙。団長が子どもたちに語り聞かせる「笑い男」という挿話が、次第に団長のプライベートにシンクロしてくる感じがとてつもなく怖いんですよね。団長の心情を全く描いてないから余計に。イノセントな世界に現実の喪失感が浸食してきて、ラストはいたたまれない気持ちが湧き上がってきます。


『小舟のほとりで』(Down at the Dinghy)1949年

グラース家長女のブーブーが登場。このブーブーと四歳の息子ライオネルの心温まるやり取りを中心に展開していきます。サリンジャーには珍しく微笑ましい話ですね。ナイーブなライオネルには明らかにグラース家の血が流れているように感じます。


『エズミに捧ぐー愛と汚辱のうちに』(Foe Esme-with Love and Squalor)1950年

僕はサリンジャーの短編ではこの作品が最も好きです。途中で一人称から三人称に変わる構成の妙・X曹長の苦悩・エズミのおしゃまな聡明さ・チャールズの無邪気さ・そしてラストシーン。すべてが美しく絡み合っています。僕は子どもを書かせたらサリンジャーの右に出るものはいないと思っているのですが、特にこの喫茶店でのエズミとチャールズの描写はリアルで生き生きとしていて素晴らしいですね。X曹長には戦争で深く傷を負ったサリンジャーの魂が反映されていて、それ故にラストは涙なしには読めません。改めて読み返すとこの「エズミに捧ぐ」はけっこう細かい描写まで自分の中に沁み込んでいて、そういえば学生の頃この小説が好きすぎて丸写ししたことがあったことを思い出しました。暇だったんですね。


『愛らしき口もと目は緑』(Pretty Mouth and Green My Eyes)1951年

『ナイン・ストーリーズ』の中では異色の作品で、恋愛心理サスペンスのような展開を見せます。ラストで物語が反転するのですが、それが非常に謎めいていて狐につままれたような読後感が残ります。最後の電話はいったい何なんでしょうか。怖い・・・。


『ド・ドーミエ=スミスの青の時代』(De Daumier-Smith's Blue Period )1952年

これは何度読み返しても入ってこないんですよね。最後に主人公が天啓を得るんだけど、そこもよく分からないままです。宗教的な知識がないと読み解けないのでしょうか。サリンジャーが高みに行き過ぎていてあまり好きな作品ではないですね。


『テディ』(Teddy)1953年

これはサリンジャーが神秘主義や東洋思想に急速に傾倒していったことを伺わせますね。十歳の天才少年テディを通じて語られる存在や認識や瞑想や輪廻についての話。難解ではあるけれどすごく読みやすくて、小説としても面白いです。好きな作品。テディはどこかシーモアの幼少期を彷彿とさせるところがあり、ラストを飾るこの「テディ」の結末が冒頭の「バナナフィッシュにうってつけの日」の結末にリンクする形で『ナイン・ストーリーズ』は幕を下ろします。そして次から本格的なグラース・サーガの幕開けとなります。


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『フラニー』(Franny)1955年

これも大好きな一編。初めて読んだのが大学生の頃だったこともあって、当時はフラニーの苦悩に深く共鳴していました。僕も同じようなことに打ちのめされていた学生だったので。「ライ麦」同様に深い親しみを覚え、孤独感を拭われた一編です。グラース家の末っ子フラニーが周囲のスノビズムやエゴに脅かされ摩耗していく様子を描いていて、その感受性はホールデンに通じるものがありますね。しかしホールデンがインチキなものに反発し毒を吐きまくるのに対し、フラニーは鬱々として自己嫌悪に陥っていくのでより深刻なんですよね。恋人のレーンは善人ではあるけれど、結局はスノッブの一員でありフラニーを救うには至らない。救世主は続編にあたる「ゾーイー」まで待たねばなりません。この二作はワンセットですね。


『ゾーイー』(Zooey)1957年

「フラニー」の続編であり、サリンジャーのひとつの到達点と言うべき中編。グラース家五男のゾーイーが、満身創痍の末っ子フラニーを救うためひたすら説得にあたる物語で、サリンジャーのキリスト教観や東洋哲学観が盛り込まれています。この「ゾーイー」は「ライ麦」のホールデンの夢を具現化させた作品のような気がするんですよね。ライ麦畑から落ちかかっている妹フラニーを兄ゾーイーが捕まえる。僕はホールデンやフラニーを生んだサリンジャーに深く共感しますが、ゾーイーの登場によりその共感は敬愛へと高まりました。学生の頃は「フラニー」に共感していたけど、今の僕は「ゾーイー」の方が好きです。


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『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』(Raise High the Roof Beam,Carpenters)1955年

「バナナフィッシュにうってつけの日」の前日譚であり、グラース・サーガの中核を成す中編。発表順としては「ゾーイー」より先なので、この作品で初めてシーモア・バディ・ブーブー・ウォルト・ウェーカー・ゾーイー・フラニーが兄弟であることが明かされます。シーモアの結婚式当日の様子を次男バディの視点から描いているのですが、「バナナフィッシュ~」の謎に取りつかれている読者にとってこれほど興味深い作品はないですよね。というか、後半のシーモアの日記においては、余計に謎が深まってしまうと言えなくもないのですが・・・。今回改めて読み返してみると、ひとつの小説としてもすごく面白いですね。(もちろん「バナナフィッシュ~」を読んでからの方が絶対にいいですが)前半なんて見方によってはコントのような設定だし。思想色も抑えめなので、後期の中ではわりと読みやすい一編です。バディは兄弟の要なんですよね。


『シーモアー序章ー』(Seymour : An Introduction Stories)1959年

この作品によってサリンジャーは物語というものを完全に放棄してしまいましたね。バディが饒舌な文体で回想しながらシーモアの人物像に迫る小説。ただその迫り方が手ぬるいというか、最後まで精神的な核心に踏み込まないんですね。結局表面的(身体的)な人物像を語って終わってしまい、読者としては肩透かしをくらいます。それはたぶん「序章」だからだと思うんですよね。幻の未発表作の中にこの続編があるのではないかと。サリンジャーは死ぬまでシーモアの追究をやめなかったはずだ。僕はそう信じています。


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『ハプワース16,一九二四』(Hapworth 16,1924)1965年

生前最後に発表した小説であり、本国では未単行本化。これもまたストーリーは皆無で、7歳のシーモアが家族に向けて書いた手紙がほぼ全編を成す書簡体小説となっています。これは残念ながら小説的魅力に欠けた作品と言わざるを得ません。色々な面でリアリティがなさすぎるんですよね。いくらシーモアが天才と言っても7歳が書いた手紙としてはあまりに難解で長すぎるし、キャンプ先に送ってほしいと依頼する本の数もちょっと現実離れしすぎていますよね。当時も読者や評論家から酷評だったようです。これが雑誌に掲載されたのを最後にサリンジャーは一切作品を発表しなくなります。


というわけで、今年生誕百周年のJ・D・サリンジャーの全小説を再読しました。サリンジャーが亡くなったとき「未発表作5編が遺言により2015年~2020年に発表」というニュースが流れたんですね。で、それは百周年にあたる今年(2019年)なんじゃないかと密かに期待していたんですよ。ところが先日「遺族が未発表原稿の出版準備を進めているが、分量が多く出版は何年も先に~」という記事が・・・。ガッカリ。でも、「分量が多く」という情報は初めてでちょっと興奮してしまいました。5編以上発表されるのかなあ。いずれにせよ楽しみに待ちたいと思います。


【補足】(2023年1月追記)

荒地出版の初期短編集『若者たち<短編集Ⅰ>』『倒錯の森<短編集Ⅱ>』と『ハプワース16,一九二四』は既に絶版となっていますが、2018年に刊行された『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年』と2022年に刊行された『彼女の思い出/逆さまの森』(いずれも金原瑞人訳・新潮社)では、以下の作品が新訳として収録されています。(つまり一度絶版になった22作品中18作品は再び日本語訳で読むことができるようになっています)参考までにタイトルを旧訳→新訳で並べておきます。

『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年』

「マディソン街のはずれの小さな反抗」→「マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗」
「気ちがいのぼく」→「ぼくはちょっとおかしい」
「最後の休暇の最後の日」→「最後の休暇の最後の日」
「フランスのアメリカ兵」→「フランスにて」
「マヨネーズぬきのサンドイッチ」→「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」
「他人行儀」→「他人」
「若者たち」→「若者たち」
「ルイス・タゲットのデビュー」→「ロイス・タゲットのロングデビュー」
「ハプワース16,一九二四」→「ハプワース16、1924年」


『彼女の思い出/逆さまの森』

「彼女の思い出」→「ある少女の思い出」
「ヴォリオーニ兄弟」→「ヴァリオニ兄弟」
「やさしい軍曹」→「おれの軍曹」
「できそこないのラヴ・ロマンス」→「ボーイ・ミーツ・ガールが始まらない」
「じき要領をおぼえます」→「すぐに覚えます」
「二人で愛し合うならば」→「ふたりの問題」
「ある歩兵に関する個人的なおぼえがき」→「新兵に関する個人的な覚書」
「ブルー・メロディ」→「ブルー・メロディ」
「倒錯の森」→「逆さまの森」


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