見出し画像

たまたま隣り合わせた人とふたり、じっと新年をまつ


この数年、年の瀬がせまるといつもすこしさみしくなる。

街は今年の役目を終えてしだいに閉じはじめ、わずかなしごとまわりの連絡もいったん途絶え、まわりの人々もふだんにくらべてよりそれぞれの家族や親しい人達のなかへと消えていき、パートナーとこの世界にふたりきりになってしまったみたいな静けさに包まれていくからだ。

お互いに友人はすくないし、唯一いてくれる友人たちもイベントのたびに集って盛りあがるような間柄ではない。どちらの家族も「家」の色や結束がつよいかといえばむしろ真逆で、それぞれのメンバーがそれぞれに孤独のようなものを抱えながらやってきたようなある意味似ている家族だから、クリスマスだとか大晦日だとかに有無を言わさず、あるいはだれかれともなく、ひとつ屋根のしたに集まってくるようなのもない。

太陽が射しこんでくるのを身を寄せ合いじいっとまつ岩陰のちいさな草みたいに、今年もまた時空のすきまでふたりぽつんとあたらしい年のおとずれを待っている。互いに好きなことに没頭している時間が多いので、身を寄せ合っているという感じでもないかもしれないが。

ふたりとも会社勤めなどで安定した給料があれば年越し旅行にでもいくか、みたいになるのかもしれないけれど、そういう身ではないので、ぱっと気分転換にお金を使うみたいなこととは縁がない。ほかに年末だから、大晦日だからといってとくべつにすることも、あらたまって出かける先もないし、大掃除のことはちらっと頭をよぎるけれど、おおごとにするのが苦手だからふだんからちょこちょこしている程度でじゅうぶん、まあ窓拭きくらいは一緒にやるかなあと思っているくらい。

今年ふたりでやり残したことリストなどもなく、いつもとなにも変わらない日々を過ごしている。あそこの喫茶店、なんとなく年内にいちど行っておきたかったなとか、あの韓国料理はしめくくりに食べておきたかったなとか、ぽつりぽつり思い浮かぶことはあるけれど、行けなくてもまあどうっていうことはないし、それほどつよい願いや思いっていうのもない。

付き合いたて、一緒に暮らしたてのころは、ふたりで年を越せることに対してわたしはわくわくしていたけれど、そういう高揚はもちろんもうないし、ただ今年もこうやって、色々あったけれどそばにいてくれたんだな、ありがたいな、という、ちょうどいい温度のお湯につかっている心地よさみたいな感触だけがある。ただ、ぬるま湯に入りつづけるといつのまにか冷えて風邪をひくので、いいあんばいで湯からあがらないといけないのを知っている。

ふだんからもそうだけれど、節目だからといってふたりですこし先の未来を思い描いてみようというのもない。すこし先のことさえなにもわからない。昔のことを語り合うこともないし、ほんとうにただ今という時、たまたまそばにいる。空気のように。

今のパートナーといっしょにいるようになってから、だれかといるのに感じる孤独を、いちばん味わっていると思う。ひとりじゃないのに孤独なんて、ひと昔前のじぶんには概念でしかわからなかったこと。ひとりでいた頃よりはさみしくはないけれど、これはまたぜんぜんべつの種類のさみしさだ。それは、こうもじぶんとは何もかもちがう人間は初めてかもしれない、とパートナーに対して感じていることと関係があるかもしれない。

とくべつななにかに導かれているような気もしないし、ずっと探していたものをみつけたというのでもなく、たまたま隣りあわせた人と、その時々で交換できるものを交換しながら、目に見えないやりとりを飽きずに絶えずつづけながら、がたがたの道をなんとかならしながら歩いてきた。今となってはそれを、そうしてよかったとか、まちがっていたとか、そういう判断ができてしまう世界の中に放り込むことができない。

相手がこんなにまったく別の星からきた人間だからこそ出来た発見や、感じたさみしさ、もどかしさ、どうしようもなさをくるんとひとまとめにして、きれいな花束とはいかないけれど、未来のじぶんから贈りものとしてあの日受け取ったんだなと思うと、あるがままのすべてにやっぱりありがとうといっておきたい。来年は、相手にみたことのない景色をすこしはみせられる人になろう。






この記事が参加している募集

#とは

57,808件

#眠れない夜に

69,460件

お読みいただきありがとうございました。 日記やエッセイの内容をまとめて書籍化する予定です。 サポートいただいた金額はそのための費用にさせていただきます。