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世界中に台所があるのだと思うと

2022.1.4

神奈川県立美術館葉山へ行く。2022年美術館初め。「矢萩喜從郎 新しく世界に関与する方法」という企画展をみる。写真、ドローイング、彫刻、デザインなど色々やった人とのことだけれど、私はコンセプチュアルポスターがいちばん面白かった。シンプルな絵が描かれたポスターにあとからひとこと言葉をつけたもの。「OTHERWISE」と「WITNESS」が好きだった。前者はサイコロらしきものの目だけが宙に浮いている(線も面も表現されてはいない)もの。後者は鉛筆で丸を書いている手と、その丸のしたに赤い水たまりのような染みが描かれているもの。

彼の言ったことばで、クリエイターはまだ誰もみたことのない表現をすることが絶対の義務だ、それでなければ作る意味がない、みたいなことが書かれてあった。はたしてそうなのかな、と少し疑問に思った。クリエーションというものがが消費物であることを前提としているようにも思えた。私としては、斬新さや真新しさは見る人の中で好きに見つけることができて、見た目の珍しさや真新しさを意図して作られた作品よりも、そういった意図などが強くなく作者がとにかく作らずにはいられなかったから作ったもの、出来上がったものののほうがさまざまなな届き方をするだろうし、心の奥まで一瞬で届いてくるような気がした。ただアーティストというよりクリエイターという側の人はそういうものなのかな、とも思いはした。

美術館は、松の木が沢山植えられた一色海岸の目の前に建つ。小寒を間近にして、天気は良いけど海の近さもあってか風が強くて余計に寒い。いつも被っている分厚い白のニット帽を忘れた。以前、映画と実験的舞台で共演した方が誕生日祝いにと思いがけずくれたもの。あの時は、驚いたなあ、そういえば。ほとんどお話したことのない人だったから。強い風が頭というかおでこの上のあたりめがけて射してくるのできんきん冷たく痛い。そんな痛さから守ってくれるニット帽ってすごいんだと思った。

美術館の近くでお昼を食べようとするも、まだ正月休みでほぼ空いていない。唯一やっていた地元で採れた魚などを出す食堂は十二人待ち。待ち時間は一時間半くらい。美術館でもらってきた冊子を読んだり、近くをうろうろしたりジャンプしたりしながら待ったけど、途中で太陽が雲に隠れてしまってからさらに風がつよくなり、がまんできないくらいに寒かった。食べ物を食べるのに待つのは考えられないと改めて思った。テーマパークのアトラクションに二時間並ぶほうはまだ平気。非日常だから平気なのかもしれない。食べるは私にとってエンターテイメントでもアトラクションでもない大切なただの日常だからだと思う、延々並んで散々待って何かを食べるというのはやっぱり無理だ。どんな有名店だろうと美味しいと評判だろうと。そもそも「行列」を信用していない。三浦大根とぶりの煮付けがついた釜揚げしらす丼を食べる。大根がほろほろのしみしみで舌先ですぐとけたのが美味しかったような気がしたけど、よく考えたらぶりも大根もぬるかったからか力が抜けていた。

だんだん寒さによる頭痛がはじまってきたので散策はせず帰ろうとするも、駐車場の近くにある森戸神社にはなんとなく寄って、源頼朝が参拝したとき伊豆の三島神社(三島大社のことかな)から飛来してきたといわれる十五メートルの松の木が生えているのを見る。こんなに海と至近距離に神社があるのを、境内に砂がこんなに舞い込んでくるのを、面白いと思った。みかんを買おうと葉山ステーションに寄るもこちらもまだ休みで、パン屋とプリン屋が出店をしていたので全粒粉の食パンなどを買う。鎌倉で八幡宮の通りにある初めて行くローカルスーパーでみかんと魚などを買い、いっこうに進まない海岸沿いを陰になった富士山の裾の広さに少しだけ感動しながら帰る。あっというまに一日が終わる。夜は作ってもらったお味噌汁だけ食べる。


222.1.5

朝起きてすぐ書いたり動画の編集をしたりする。昨日の夜から脚がやけにむくんで重いので沢山ジャンプをしていると、月にいちどの日がくる。いつも満月前後にきていたのが少しづつずれて今回は新月の二日後。お昼前、藤沢のオーガニックストアの初売りへ行く。ここのパンが滋味があって丁寧にできていて美味しいのでいくつか買う。人気があって、いつもあっというまになくなる。併設のレストランでお昼を食べる。新年初なのでサービスです、とうつくしい緑色のスープをもらう。ほうれん草のような味。のんびり食べていたら、あっというまに二時。帰りにオートバックスで窓につける日よけを、ホームセンターでペンチを買う。脚が壊れたままの古いデロンギヒーターが直せることがわかって、そのために必要なペンチ。

夕飯のぶり大根を途中まで準備して、近くの小さな森にひとり散歩に行く。富士山がよくみえるポイントがある。もう夕暮れだからシルエットの富士山で、最近はその方が気迫を感じる。ラジオで落語を流しながら歩くおじさんがうしろをついてくる。散歩やハイキングの数人とすれちがう。出口まで差しかかったころ、子供連れの母親ふたりと出くわす。母親はわたしと変わらないくらいの歳だと思う。小さな女の子は一生懸命になんども「おかあさん、人がいるよ」と声を張り上げる。お母さんは笑いながら大丈夫だよ、と言う。すれちがい際、男の子が「あけましておめでとうございます」と小さく棒読みで言う。わたしもおなじ言葉を返す。ふと、この人に子供がいて、わたしにはいないことを思う。わたしがもっと若かったら感じることがちがった。いつから「側」が変わったんだろうと思いながら、残りを歩き続ける。森は窪みも丘も茂みもその内に抱えて今日もしんとしている。あちこちにいるりすが、薄暗くなりかけた森をかさこそ移動する。

帰ってきてぶり大根を煮ながら、実家からもらった座布団半枚ほどの大きさののしもちを切る。三色あり、白いものはもう切ってあるので、よもぎと紫いものに包丁をいれる。硬くなっているので難儀かなと思いきや意外とすぐ切れる。おかずはレタス。冷たくなった玄米と赤飯を土鍋で蒸して、お味噌汁は昨日のもの。いつもはカバーをかけたままほぼ見ることのないテレビを大晦日に解禁してから、なんとなく番組表をチェックしてしまう。昨日は教育テレビのハートネットTV「ふたりの台所」という番組が面白かった。世界中に台所があるのだと、決して広くはないそのスペースを小さくうろちょろしながら生きるための食べものをこしらえている人が今日も必ずどこかにいるのだと思うと安心する。


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