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行合う人のなかで

2022.3.17

鎌倉駅付近を歩いていると、ご高齢のマダム三人組とのすれちがいざまに、ひとりのおばあさまが「どうせ死ぬならぷうちん暗殺してから死にたいわ」と張りのあるきれいな声で言った。


2022.3.21

祝日のターミナル駅の改札前でパートナーを見送った。もうすぐ夜がはじまる。四方八方に行き交う顔と背中の海にその人がまぎれゆくのを何も考えずただ眺めていたそのとき、それを分かってしまった。わたしはその人の背中がみえなくなることが悲しくも寂しくも、ほんとうはないのだと。

それでも悲しいとか寂しいとかいう感情がわたしの中にたぷんと波打つようにみえるのは、そういう別れがこの世界を作ってきたからだ。世界は出会いではなく、別れで出来ている。さんざん別れてきたから今があるのだ。今日もまたこうして。次に会う日が決まっていたとしても、その日がじっさいにやってくる保証はない。別れの瞬間というものにはいつもそんな事実がほんのすこしだけ胸によぎってちくっとなったりするけれど、だからってじゃあなにかするわけでもなく、そのままにしておくだけ。でもわたしだけじゃなくみんないっぱい別れてきたから、あちこちでそれぞれに別れて別れて、それで今日があるから、そういうことが自然として襲ってくる。それは共感と呼ぶものではないと思う。共感というとじぶんと他者とが分かれていることが前提だ。わたしが感じるのは、ぜんぜん真逆の、みな一緒という感覚だと思う。わたしたちは皆、ひとつのものの違う顔なだけだ。

背中がみえなくなってからゆっくり数えて五秒もすれば、わたしは何ごともなかったかのように踵を返し右足を進行方向へと踏み出す。人はいつも出会い、いつもただ別れる。それだけをくりかえしている。



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