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あと99万回生まれ変わらなくちゃいけないかもしれないけれどOK

文藝別冊総特集「佐野洋子」を読んでいる。なんとなく豪快な人というざっくりしたイメージはあったけれど、読んで改めてびっくり。なんだこのひと!ほんとうにすごい。面白すぎる。光を見ているみたいで全然とらえきれない。

当然といえば当然の流れで、もう何年もひらいていない「100万回生きたねこ」を本棚の隅から引っ張り出す。内容などわからない小さなときから、くりかえしくりかえし触れてきた絵本。久しぶりに読むと、とんでもない物語だったんだなあこれ、と思う。

実家にはぼろぼろになったものがあるはずだけれど、ひとり暮らしの部屋には持ってこなかった。今うちにあるのはだいぶ昔に人から贈られたものだ。その人はわたしを好いてくれていた。じゃなきゃあんな本、贈らないと思う。その好意になんとなく感づいていたわたしは、だから誕生日でもクリスマスでもなんでもないときに突然もらったプレゼントの包みを目の前で「あけてみて欲しい」といわれ、おそるおそる紙を剥いで出てきたのが「100万回生きたねこ」だったとき、まっ先に感じたのは申し訳なさとショックで、ああざんねんだどうしようという気持ちで、心の奥がすうっと寒くなった。できることなら今この瞬間をなかったことにしてしまいたかった。好きを返すことのできない人からこの本だけはどうしてももらいたくないと思ったのだ。

だってこれは、100万回死んでも泣かなくて、100万回生まれ変わっても泣かなかった自分のことしか好きじゃなかったとらねこが、初めて好きなひと(ねこ)をみつけて、そのねこが死んだときにはじめておいおい泣いて、そしてじぶんもやがて死ぬ。そしてもう二度と生まれ変わらなかった。そういう物語だ。

改めてなんて物語だろう。こんな神話みたいな物語を、そう簡単にわたしだったらだれかにあげられるはずがない。だからもしかするとその人は相当の覚悟でくれたのかもしれないし、いやでも、この絵本が有名な上になんとなくわたしが好きそうな絵本だからただ選んだだけかもしれないけれど、真相はもうわからないけれど、とにかくこんなにとんでもない物語を何も返すことのできない相手からもらってしまうことは絶対にしたくなかった。これをどうしろというんだと泣きそうになった。ほんとうに泣きたいのはその人のほうだったかもしれないのに。

…と、ここまでは半分正直で半分嘘つきのわたしが言うことで、ここからは正直なだけのわたしが思ったこと。

わたしは、とても残酷なことしか思っていなかった。わたしにこの物語をくれるひとがいるとして、それはあなたじゃない。わたしがこの物語をもらいたかった人からもらうことはもう絶対にない。だからわたしはだれからも、この物語をもらいたくはない。なんでくれてしまうの。やめてよ。そう思った。

わたしはずっと、もう生まれ変わらなくてもいいと思えるくらい愛する人についに出会える人生を夢見てなんどもなんども繰り返し生まれてきているような気がして怖くてたまらなかった。少なくともこの人生で、いちばんの出会いだったと思う人がもうわたしのもとからいなくなった以上、わたしが次もまた生まれ変わることは確定しているようなもので、わたしはそんな人生を今生きているのだ。その真実が無防備に剥き出しになってしまうことが決してないように、なんとか面と向かってしまわないように、こうして必死にやりすごして生きているのだから、何も知らずにこの絵本をくれてしまうあなたのはわたしよりもずっと残酷だ。そうとまで思った。相手の気持ちをむげにして、ほんとうにひどい人間かもしれない。

この本の内容を理解してからというもの、ついに成仏できたとらねこのように今の人生を生きるつもりで生きていた。この人生が100万回目であってくれなくてはぜったいにならなかったし、これまでに経験させてもらったどの出会いもすばらしかったといえるけれど、この絵本をもらうなら相手はひとりしかいないとそう願う人との出会いは、これがついに100万回目かもしれないと全身が打ち震えるただ一度の出会いだと信じ切っていた。なのにどうして、あの人は今わたしのそばにいないんだろう?出会ったのになぜ別れなければならなかったんだろう?出会いと別れはなぜふたつでひとつなのだろう?またそんなことを思い出してどうしようもなく苦しい気持ちになった。

この本をくれたその人には、それ以降いちどだけ会った。会ったというより見かけたぐらいで、ひとこと二言の会話を交わしただけだけれど。その人がアルバイトをしていたスーパーがたまたま友人の家に遊びにいく途中にあり、そうと知らず差し入れのお菓子をもってレジに並んだわたしの目の前にいつぶりかのその人があらわれたのだ。久しぶりにみたその人は、もともとわたしと同じくらいの身長で小さなひとだったけれど、もっと小さく縮んでしまった気がした。真冬だったから寒さのせいかもしれないけれど。でも、時間が経ったんだなあと思った。それは安堵でもあったし、どうしようもないことだった。

+ + +

2022年の今、こうしてふたたびこの絵本をひらいた。あのときからずいぶん時が流れた。そして、とても冷静にあることに気がついた。わたしが生きている人生は、まだぜんぜん100万回目なんかじゃない。そんなことに、あの頃は気づかなかったのだ。気づかないほど痛く、臆病で、無垢で無謀で、そしてただただ傲慢だった。

運命の人はいると信じてはいる。ただいることはいるが、パターンがいくつかあるのだと思う。たとえば、いて、出会えて、一緒に生きる。いて、出会えて、一緒には生きられない。いるけど、出会うことのないまま、それぞれ終わる。などの。

いて、出会えて、一緒に生きることができるのは、わたしの場合はもっとずっと先なんじゃないかということを、今頭の片隅で冷静に分析して思うようになった。わたしがぜんぜん熟していないからだ。まだそんな段階に移行できるほど修行をしていない。つまりあのとらねこのようには生まれ変わり足りていない。

また同時に思ってもいる。あなたと一緒に泣いて笑って人生さいごの日まで生きられたらもう二度と生まれ変わらなくてもいいわ、というような人にどうやって「生きているあいだに」気付くことができるというのだろう。一生けんめい生きて生きて生きて、ついにこの世を離れるまさにその間際、もしも心にふと浮かぶそういう人がいたら、それで良いのではないだろうか。何もかもを決めつけるにはまだ早い。わたしがはっきり信じてきた運命のその人がもしかしたら運命の人じゃない可能性だってまだあるかもしれない。そんな冷めたことを思ってしまうなんてあの頃のじぶんにとても失礼だし、興ざめで恥ずかしいけれど、冷静に冷静に思う。そして冷静でいることは、思っているよりわるいことではない。

そしてこれが一番重要なのかもしれないけれど、もしもこの人生が運命の人に出会わなかった人生だとしてもなにもなかったように涼しい顔をしてまた次するんと生まれ変わればいいのではないだろうか?わたしは欲張りなうえに面倒くさがりだから、また生まれ変わるのが手間で仕方なかった。だからこの人生でなにもかもを達成しなくちゃいけないんだと意気込んでいた。生まれ変わるということはこの人生が満足できないものだったとか、後悔を残しているとか、叶わなかったことがいくつもあるからとか、そういうことだと思っていたから、それはぜったいに避けなければいけなかった。この人生でいい思いを全部してもうお腹いっぱいになって、あとに何も残さず終わりたいと思ってきた。それが当たり前だと思っていた。誰も彼もが今100万回目なんだと思い込んでいた。3000回目とか78回目とか2回目とか99万9999回目とか色んなひとがいるということをまるで想像できなかった。

後悔のない人生なんてつまらないと思う歳にはなったと思う。ほんとうに思う、後悔があったっていい。後悔がある人生には味があるし、後悔するほど一生けんめいやったのだとも言える日がきそうな気がする。

そういえば昔、三つくらい年上の友人と人生の計画について話していて、そのときのわたしにはまったく理解できなかったことを彼は言った。「たぶんおれはこの人生、思いっきりやりたいことやって行きたいとこ行って自由で仕事もたのしんで生きるんだけど、それでも最終的な夢は達成できないで道半ばで死ぬんだ。それがはっきりみえる。つづきは次の人がやるんだ。それでいいんだ、一生懸命生きてそれなんだから」いつも豪快で思いきりも頭も良すぎて機関銃のようにしゃべる友人は、謙虚だった。この人生には先があることを知っていた。なにもかもがここで完結するわけじゃないことを、次の人とか次の世代とかにできなかったぶんを託すことを、そうやってひとは人生を超えて繋がりつづけながら生きていくんだということを、もうとっくに分かっていた。おとなだ。わたしはぜんぜん子どもだった。

この人生はこの人生で、たとえ思うように生きることができなくても不満をもたずに、というか思うように生きようなどという欲は捨ててしまって、こつこつとできることをやり、たまに力を抜いて、基本的に楽しんで、周りにいてくれる人に少しでも穏やかな気持ちになってもらえるようにできることをして悔いのないように日々を重ねていこう。悔いなく生きようとして悔いが残るのと、とくに努力をしないで悔いが残るのとでは、きっと大きな違いなんだと思う。無作為な欲はもたずに、でもここだけはという欲は大事にして、折り合いをつけながら、時にはだましだましでもどうにかバランスを取りながら、ちゃんと色々ありがたがって生きていこう。それができれば、次生まれ変わっても、生まれ変わらなくても、もうなんでもいい。

それから、この本をくれた人に言えなかったありがとうを言いたい。こんなわたしをたとえ短いあいだでも思ってくれて、この本を選んで贈ってくれて、ありがとうと。あのとき素直にありがとうがいえなくてごめんなさい。そんなことが去来するこの小さな胸がここにあることを面白がりながら感謝しながら「100万回生きたねこ」をそっと本棚に戻す。次ひらくときはいつになるのか、あの世の佐野洋子さん、いやとらねこだけがこっそり知っているのかもしれない。いや、それより佐野洋子さんにこっそり聞いてみたい。次はまた生まれ変わりますか?




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