3-3-2-1. いくつもの顔を持つ清 新科目「世界史探究」をよむ
多民族を統治した清
アフガニスタンから北インドを支配したムガル帝国(インドのティムール朝)、イラン高原を支配したサファヴィー帝国(サファヴィー朝)、地中海一帯を支配したオスマン帝国(オスマン朝)、いずれもイスラーム教を国教に掲げた帝国が繁栄した16世紀末、東アジアでも新たな帝国が産声を上げようとしていた。
大清帝国(1636〜1912、ダイチングルン)、いわゆる清(しん)である。
その領域の広大さは、明(1368〜1644)の領域と比べてみれば一目瞭然。
また、19世紀末にロシア帝国との紛争に発展した中央アジア方面、20世紀初めに独立したモンゴルや、1949年以来政治的緊張のつづいている台湾を除いては、現在の中華人民共和国(1949〜)の領域の基盤となっていることもわかるだろう。
清は、モンゴル人の元の支配や漢民族の中華帝国の遺産を引き継ぎ、農耕エリアと遊牧エリアにまたがって暮らす、他宗教を信仰する多民族を、ゆるやかにまとめ上げる統治を実現させていくことになる。
その支配の特徴に注目しながら、軌跡をふりかえってみよう。
清による中国征服
農民反乱のリーダー 李自成(リーツーチァン;りじせい)が明(ミン)を滅ぼすと、「順」(じゅん)の皇帝に即位することを宣言。北京を中心に新たな王朝を建設しようとする。
しかしその頃、万里(ばんり)の長城の東の端にある関所「山海関」(シャンハイグァン;さんかいかん)のゲートでは大変なことが起きていた。
北方から清軍が押し寄せていたのだ。
緊迫化する事態を受け、「山海関」の防備を担当していた明の武将 呉三桂(ウーサングイ;ごさんけい、1612〜78年)は次のように判断する。
こうなったら、清を山海関のゲートから導き入れ、代わりに治安維持のために流賊を討伐してもらったほうが得策だ。
こうして開け放たれた山海関の扉を、清の皇帝 (じゅんちてい;イジシュンダサン、在位1644〜1661年)の摂政(摂政。サポート役)であったドルゴン(1612〜50年)ひきいる大軍が次々に通過。
呉三桂麾下の軍事力を吸収し、そのまま北京に入って李自成の軍をやっつけることに成功。
これを「明清交代」という(のちに述べるように、これを野蛮な北方民族(=夷)が中華(=華)にとってかわった異常事態であるとみなす立場からは「華夷変態」とよぶ)。
都も現在の瀋陽(しんよう)から北京にうつされ、父祖以来の宿願が果たされた。
つまり、明を倒したのは清ではなく、李自成。
その李自成を倒したのが、呉三桂の招き入れた清の摂政ドルゴン(皇帝は順治帝)だったということになる。
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康煕帝(こうきてい)による領土拡大
こうして紫禁城におさまった清であったが、中国全土を平定したわけではない。
明の配下にあった漢人の武将たちの協力を得る形で、南部に逃れた明の皇帝一族による亡命政権(南明(なんみん;ナンミン))や農民反乱軍(大西など)を倒す必要があったからだ。
清に協力した漢人の武将たちは“ごほうび”に、中国南部の雲南、広東、福建の支配をまかされた。特に関所をひらき清軍を北京に導いたに呉三桂(ごさんけい)には、格別の功績が認められ、「三藩」と呼ばれる所領が封ぜられた。
しかし、陸の支配がひと段落しても、まだ海の様子はさわがしいままだ。
東シナ海で自由な商業活動をおこなっていた武装勢力「倭寇」のリーダー鄭芝龍(ていしりゅう、1604〜1661)はその一人。
彼は日本から台湾、さらに福建に拠点を移し、オランダ東インド会社(台湾のゼーランディア城に拠点があった)との間の私貿易で莫大な富を築いていた。
その鄭芝龍が、現在の長崎県の平戸藩士の娘とのあいだにもうけた子が、鄭成功(ヂァンチァンゴン;ていせいこう)だ。
しかし風雲急を告げる清の北京占領。
中国各地に残存する明の皇帝一族たちの亡命政権(南明(ナンミン;なんみん))は、鄭芝龍の倭寇を頼るのだが、内部抗争が起き、鄭芝龍は清朝に降伏することに。だが、息子鄭成功が清への帰順を拒んだために、処刑されてしまう。
こうして鄭成功はアモイ(厦門)に拠点をうつして、南明勢力をサポートし続け、明の皇帝の姓「朱」をたまわった。
さらに1661年には台湾のオランダ人勢力を追い出し、本拠を置くことに。その翌年に亡くなるまでの激動の人生は、国境を超える一大スペクタクル『国性爺合戦』(近松門左衛門)として作品化され江戸時代の日本人が涙した。
これに対し第4代の康熙帝(こうきてい;アムフラン=ハーン;エルへ=タイフィン、在位1661〜1722年)は、沿岸部の人々に海賊たちとの接触を固く禁じ、内陸部に移住させた。
倭寇たちの物流ルートを遮断し、兵糧攻めにしようとしたのだ。
こうした粘り強い戦争の末、1683年に鄭氏一族は降伏。
ついに台湾も清朝にくだることとなる。
それ以降、台湾には清朝南部から中国人の移住が進んでいく。特に福建(ふっけん:フージエン)の福州(ふくしゅう;フーヂョウ)や広東(かんとん;グヮンドン)の潮州(ちょうしゅう;チャオヂョウ)の人や、
客家(ハッカ)と呼ばれる人々
の移住が多く見られた。
それに対し、マレー=ポリネシア系の先住民族たちは、山地を中心に生活を営み、しだいに生活エリアが狭まっていくこととなる。
さて、こうして清朝は、
故郷の東北地方(のち満洲と呼ばれた)、
モンゴル高原(2代目のときに南部のチャハル、4代目のときに北部のハルハ)、中国本土(3代目のときに一部、4代目のときに漢人の功労者に与えた南部(三藩(さんぱん))での反乱を鎮圧し、中国南部をふくめた本土全体を掌握)、台湾(4代目のとき)を含む広大なエリアを支配する国家に成長。遊牧民エリアに加え農耕民エリアも支配する、スケールの大きな国となったのだ。
いくつもの顔をもつ清
清の最盛期は4代目康熙帝(カンシーディ;こうきてい、在位1661〜1722年)、5代目雍正帝(イォンヂァンディ;ようせいてい、在位1722〜35年)、6代目乾隆帝(チエンロォンディ;けんりゅうてい、在位1735〜95年)の3人。
優秀な皇帝のつづいたこの時代は、”三世の春”とうたわれ、この時代に領域はさらに拡大する。
雍正帝の時代に、図中の「青海ホシュート」「チベット」(いずれもチベット人の領域)を支配。
さらに乾隆帝の時代には、図中の「ジューンガル帝国」(ジュンガル)を支配し、タリム盆地のウイグル人(トルコ系のイスラム教徒)とあわせて新疆(しんきょう)として統治することとなった。
漢人に対する顔
中国本土の漢民族に対しては、独裁的な権力を確立するため、科挙や役人の制度、行政区画は明の制度を受け継いだ(故郷の満洲(直轄地)を別として、北京周辺の直隷省(現在の河北省)、その他の各省は科挙官僚が統治した)。
なにせ清は、わずか数十万の満洲人に対し、漢人は1億人以上もいる。
中国王朝伝統の学問である儒学も積極的に受け入れ、正統性を保とうとしたのだ。
ただ、どうしても避けられない問題がある。
清が、辺境地帯出身の女真人の築いた王朝であるという点だ。
中華思想において、伝統的に世界の中心は漢民族の暮らす世界に置かれてきた。
では、東北地方の女真は、中華(=文明)に対する夷狄(=野蛮)ではないのか?
それを覆い隠すように、歴代皇帝は儒学の学習に奮励する。
たとえば、 雍正帝が文武の学業について述べた史料を紹介しよう。
これに対し、当時の儒学者の一人はこのような意見を表明している。
以下は、歴史学者・平野聡氏による紹介だ。
こんな意見がひろまってしまっては、清の正統性が揺らいでしまう。
この批判に対する、雍正帝の再批判はこうだ。
曾静は清に反抗する主張を広めたとして1728年に逮捕される。しかし、その後、上記の再批判のような雍正帝とのやりとりを通して、その誤り(=迷い)を認め、目を「覚まさせた」という話になっている。一連の記録は『大義覚迷録』(たいぎかくめいろく)として1729年に雍正帝の命令によって刊行されている。
青海、チベットを支配領域に組み込んだ、雍正帝にとって、こうした新たに拡大した地域(「大中国」)を支配するための論理を組み立てることは、急務であったのだ。
ちなみに曾静は、『大義覚迷録』におさめられた「帰仁説」の中で、このようにも語っている(語らされている)。
多民族国家である中国が、異民族に対してどのような視点を持っていたのか?
「多様性」(ダイバーシティ)がキャッチーなフレーズとして氾濫する現在、そのありかたを考えるヒントともなる史料だと思う。
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モンゴル人の大ハーンとしての顔
一方、清はモンゴル人の君主(大ハーン)としての称号も持っている。
そもそも国号である「大清国」(ダイチン・グルン)も、かつての元(「大元国」(ダイオン・ウルス))に対するオマージュである(なお、歴史学者杉山清彦氏によれば、「大清」とは、「大」+「清」ではなく、モンゴル語で戦士を表す「ダイチン(daicin)」からとったものであるという)。
そもそも清朝がモンゴル人を服属させたのは、第2代ホンタイジが、中国に近いほうのモンゴル、すなわち内モンゴルを帰服させたのが初め。
国号からもわかるとおり、清朝にはモンゴル帝国の後継者という意識があったわけだが、第4代康煕帝の即位後も、すべてのモンゴルが清朝にくだったわけではなかった。
当時のモンゴルは、東はハルハという部族、西はオイラトという部族がわかれて支配権をにぎっていたのだが、康煕帝即位のころにガルダン(1644〜97)がジューンガル部族を平定してオイラトの盟主となり、タリム盆地を中心とする東トルキスタンを制圧。
さらにハルハを1688年に平定し、大帝国(ジューンガル帝国)を建設し、内モンゴルにまで攻め込んで清軍と交戦した。
この事態をおさめるべく、康煕帝はハルハに遠征し、これを帰順させることに成功。
こうして西方のジューンガルを除き、現在のモンゴルとほぼ重なる領域は清朝の支配下に組み込むことになったのだ。
では清朝は、その支配をどのようにしてモンゴル人たちを納得させたのだろうか?
これは清朝皇帝が訪問した内モンゴル(モンゴル南部)の様子だ。左の方に座っているのが乾隆帝。巻狩り、暴れ馬乗り、モンゴル相撲といった国家的イベントをひらき、モンゴル人の支配者としての正統性をアピールしたのだ(イエズス会士カスティリオーネなどの作)。
また、こちらは乾隆帝がモンゴル人の首長らにたいしてふるまった宴会を描いたもの。
草地に巨大な移動式テント(ゲル)を配置し、あたかもモンゴルの君主のごときイメージをつくりだした。
なお、この宴会のひらかれた場所は熱河地方の避暑山荘にある。
ここにはモンゴル人の信仰したチベット仏教の寺廟が、避暑山荘の東側と北側に多数建立され「外八廟」(がいはちびょう)として知られる。
以上の絵画が伝えようとしたことからわかるように、清の君主は、遊牧民に対しては「ハーン」、農耕民に対しては中国歴代王朝を継ぐ「皇帝」の称号として君臨。だから、いつもは農耕民エリアの北京の宮殿(紫禁城(しきんじょう))で政治をおこなう一方、夏になると遊牧民エリアのクラス北方の離宮(りきゅう)で過ごすのが清朝前半の皇帝の習わしとなったんだよ。
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チベット人に対する顔
清がチベットの支配に向かうのは、最後の騎馬遊牧帝国ともされるジュンガル帝国と、その支配権をめぐる対立がおきたからだ。
モンゴル人の信仰していたのは、チベット仏教の中でもゲルク派の総帥ダライ=ラマ。清の皇帝はその支持を得ようとして、康煕帝のころからアプローチをこころみていた。
清はチベット仏教を保護することで、チベットを支配するだけでなく、モンゴル人の支持をとりつけようとしたのだ。
清はチベット仏教の寺院を多数建立し、厚く保護した。
その代表例が、北京市内の雍和宮(ようわきゅう)。雍正帝が即位する前に邸宅として使われていたものを、乾隆帝の時代にチベット仏教の寺院としたものだ。
また、こちらは乾隆帝が、西洋画の技法でチベット仏教で信仰される「菩薩王」の姿に描かせた肖像画。乾隆帝自身もチベット仏教を信仰していた。
その後、中国の政権とチベットの政権との関係がどのように変遷していったのか?
現在の中華人民共和国とチベット自治区との関係を考える上でも、当時の中国とチベット、そしてモンゴルとの関係を知ることが大切だ。
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女真人としてのプライド
清の皇帝は、他方で女真人としてのプライドも忘れない。
軍は他民族混ぜこぜの部隊とはせず、漢人は漢人の軍隊(緑営(ルゥーイュン;りょくえい))を設置し、はじめは女真人だけで実施していた「八旗」(バーチー;はっき)を、モンゴル人と漢人に分けて整備し、各所に配置した。
また、政治の中枢部の人事には、女真人(満洲人)だけでなく漢人も採用。その人数は同数だった。雍正帝は、万事を自ら決裁するため、皇帝直属の諮問機関(政策について協議する機関)として軍機処(ぐんきしょ)を設置し、情報を一括して権力を高めるために利用した。
都合の悪い情報を締め出すため、“公認の考え方”が何かをハッキリさせた。『康熙字典(こうきじてん)』『古今図書集成(ここんとしょしゅうせい)』『四庫全書(しこぜんしょ)』といった大規模な編纂事業に学者を動員。逆にこれらに収録されていない思想は “非公認” 思想ということになったわけだ。
一方、清朝に批判的な言論については厳しく対処をした(文字の獄(もんじのごく))。公文書の中の表現や漢字の使い方ひとつまで、厳しい管理の対象になったんだよ。また、白蓮教(びゃくれんきょう)などの民間の宗教も、邪教としてきびしく弾圧を受けることとなった。
なお、漢人の男性たちに、「辮髪」(ビエンファー;べんぱつ)という、トップの髪の毛だけ長く伸ばしてポニーテールに結ばせるスタイルを強制。清朝は、漢人による厳しい抵抗を受けつつも、滅亡するまで髪型の強制をやめなかった。
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いくつもの顔をもつ清
これまで見てきたのは、16世紀の大航海時代が世界規模の商業ブームをもたらし、毛皮や薬用人参をあつかう軍事的商業勢力のひとつであった女真が、かつてのモンゴルが実現したような広域秩序を実現していくプロセスだ。
こうして18世紀の東部ユーラシアには、実に広大な帝国が出現する。
しかし、清の領域はすべてが同じ制度によって支配されていたわけではなかった。
主に漢人の暮らすところは直轄地。
モンゴル、チベット、新疆など、遊牧民や商業民の暮らすエリアについては、理藩院という役所を通して、現地の支配者に一定の自治が認められた。
清朝では、満洲語、チベット語、モンゴル語、ウイグル語、漢語の5つの言語が行政言語として用いられ、清朝中期には下図の『五体清文鑑』のような辞書もつくられた。
それぞれの領域を、一つの統治手法で支配することなく、いくつもの顔を使い分けることで支配しようとした清の手法は、同時代の西アジア・南アジアの帝国にも通じるものといえるだろう。
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