見出し画像

3-3-2-1. いくつもの顔を持つ清 新科目「世界史探究」をよむ

多民族を統治した清

アフガニスタンから北インドを支配したムガル帝国(インドのティムール朝)、イラン高原を支配したサファヴィー帝国(サファヴィー朝)、地中海一帯を支配したオスマン帝国(オスマン朝)、いずれもイスラーム教を国教に掲げた帝国が繁栄した16世紀末、東アジアでも新たな帝国が産声を上げようとしていた。


大清帝国(1636〜1912、ダイチングルン)、いわゆる清(しん)である。


出典:『世界史のミュージアム』とうほう、2022年、111頁。

その領域の広大さは、明(1368〜1644)の領域と比べてみれば一目瞭然。

また、19世紀末にロシア帝国との紛争に発展した中央アジア方面、20世紀初めに独立したモンゴルや、1949年以来政治的緊張のつづいている台湾を除いては、現在の中華人民共和国(1949〜)の領域の基盤となっていることもわかるだろう。

出典:岡田英弘編『清朝とは何か』(別冊環16)藤原書店、2009年、口絵。


は、モンゴル人の元の支配や漢民族の中華帝国の遺産を引き継ぎ、農耕エリアと遊牧エリアにまたがって暮らす、他宗教を信仰する多民族を、ゆるやかにまとめ上げる統治を実現させていくことになる。

その支配の特徴に注目しながら、軌跡をふりかえってみよう。



清による中国征服

農民反乱のリーダー 李自成(リーツーチァン;りじせい)が明(ミン)を滅ぼすと、「順」(じゅん)の皇帝に即位することを宣言。北京を中心に新たな王朝を建設しようとする。

しかしその頃、万里(ばんり)の長城の東の端にある関所「山海関」(シャンハイグァン;さんかいかん)のゲートでは大変なことが起きていた。

渤海に向けて突き出している万里の長城の東端が山海関である。
Prince Roy - https://www.flickr.com/photos/princeroy/30299290652/、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%B5%B7%E9%96%A2#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Old_Dragon's_Head_of_Great_Wall.jpg、CC 表示 2.0


北方から清軍が押し寄せていたのだ。


「明朝政府は李自成の軍が北京に迫るとの報を受けると、呉三桂を北京にもどして首都の防衛に当たらせることとした。ところが、呉三桂は途上の州で北京陥落の報を受け、間に合わなかった。長城東端の要衝、山海関に引き返そうにも、そこにはドルゴン率いる清軍が迫っていた。東のドルゴン、西の李自成と挟まれる形になって、窮地に立たされる。どちらにつくかは、呉三桂のみならず、歴史の命運を決定づけるものであった。」

出典:冨谷至ほか編『概説中国史 下 近世―近現代』昭和堂、2016年、190頁。


緊迫化する事態を受け、「山海関」の防備を担当していた明の武将 呉三桂(ウーサングイ;ごさんけい、1612〜78年)は次のように判断する。

こうなったら、清を山海関のゲートから導き入れ、代わりに治安維持のために流賊を討伐してもらったほうが得策だ。

こうして開け放たれた山海関の扉を、清の皇帝 (じゅんちてい;イジシュンダサン、在位1644〜1661年)の摂政(摂政。サポート役)であったドルゴン(1612〜50年)ひきいる大軍が次々に通過。
呉三桂麾下の軍事力を吸収し、そのまま北京に入って李自成の軍をやっつけることに成功。

これを「明清交代」という(のちに述べるように、これを野蛮な北方民族(=夷)が中華(=華)にとってかわった異常事態であるとみなす立場からは「華夷変態」とよぶ)。



都も現在の瀋陽(しんよう)から北京にうつされ、父祖以来の宿願が果たされた。


つまり、明を倒したのは清ではなく、李自成。
その李自成を倒したのが、呉三桂の招き入れた清の摂政ドルゴン(皇帝は順治帝)だったということになる。

紫禁城の中にある乾清宮(けんせいきゅう)では皇帝が日常の執務を執り行った。


乾清宮のなかにある「正大光明」という扁額の掲げられた玉座。http://m-mikio.world.coocan.jp/kenseikyuu.html



***

康煕帝(こうきてい)による領土拡大

こうして紫禁城におさまった清であったが、中国全土を平定したわけではない。
明の配下にあった漢人の武将たちの協力を得る形で、南部に逃れた明の皇帝一族による亡命政権(南明(なんみん;ナンミン))や農民反乱軍(大西など)を倒す必要があったからだ。

清に協力した漢人の武将たちは“ごほうび”に、中国南部の雲南、広東、福建の支配をまかされた。特に関所をひらき清軍を北京に導いたに呉三桂(ごさんけい)には、格別の功績が認められ、「三藩」と呼ばれる所領が封ぜられた。

しかし、陸の支配がひと段落しても、まだ海の様子はさわがしいままだ。
東シナ海で自由な商業活動をおこなっていた武装勢力「倭寇」のリーダー鄭芝龍(ていしりゅう、1604〜1661)はその一人。
彼は日本から台湾、さらに福建に拠点を移し、オランダ東インド会社(台湾のゼーランディア城に拠点があった)との間の私貿易で莫大な富を築いていた。
その鄭芝龍が、現在の長崎県の平戸藩士の娘とのあいだにもうけた子が、鄭成功(ヂァンチァンゴン;ていせいこう)だ。

しかし風雲急を告げる清の北京占領。
中国各地に残存する明の皇帝一族たちの亡命政権(南明(ナンミン;なんみん))は、鄭芝龍の倭寇を頼るのだが、内部抗争が起き、鄭芝龍は清朝に降伏することに。だが、息子鄭成功が清への帰順を拒んだために、処刑されてしまう。
こうして鄭成功はアモイ(厦門)に拠点をうつして、南明勢力をサポートし続け、明の皇帝の姓「朱」をたまわった。
さらに1661年には台湾のオランダ人勢力を追い出し、本拠を置くことに。その翌年に亡くなるまでの激動の人生は、国境を超える一大スペクタクル『国性爺合戦』(近松門左衛門)として作品化され江戸時代の日本人が涙した。


これに対し第4代の康熙帝(こうきてい;アムフラン=ハーン;エルへ=タイフィン、在位1661〜1722年)は、沿岸部の人々に海賊たちとの接触を固く禁じ、内陸部に移住させた。


康煕帝の肖像画


倭寇たちの物流ルートを遮断し、兵糧攻めにしようとしたのだ。

こうした粘り強い戦争の末、1683年に鄭氏一族は降伏。

ついに台湾も清朝にくだることとなる。

それ以降、台湾には清朝南部から中国人の移住が進んでいく。特に福建(ふっけん:フージエン)の福州(ふくしゅう;フーヂョウ)や広東(かんとん;グヮンドン)の潮州(ちょうしゅう;チャオヂョウ)の人や、

客家(ハッカ)と呼ばれる人々

の移住が多く見られた。

それに対し、マレー=ポリネシア系の先住民族たちは、山地を中心に生活を営み、しだいに生活エリアが狭まっていくこととなる。

さて、こうして清朝は、

故郷の東北地方(のち満洲と呼ばれた)、


モンゴル高原(2代目のときに南部のチャハル、4代目のときに北部のハルハ)、中国本土(3代目のときに一部、4代目のときに漢人の功労者に与えた南部(三藩(さんぱん))での反乱を鎮圧し、中国南部をふくめた本土全体を掌握)、台湾(4代目のとき)を含む広大なエリアを支配する国家に成長。遊牧民エリアに加え農耕民エリアも支配する、スケールの大きな国となったのだ。



いくつもの顔をもつ清


清の最盛期は4代目康熙帝(カンシーディ;こうきてい、在位1661〜1722年)、5代目雍正帝(イォンヂァンディ;ようせいてい、在位1722〜35年)、6代目乾隆帝(チエンロォンディ;けんりゅうてい、在位1735〜95年)の3人。

優秀な皇帝のつづいたこの時代は、”三世の春”とうたわれ、この時代に領域はさらに拡大する。



出典:杉山清彦「近世ユーラシアのなかの大新帝国」、岡田英弘編『清朝とは何か』(別冊環16)所収、藤原書店、2009年、290頁。


雍正帝の時代に、図中の「青海ホシュート」「チベット」(いずれもチベット人の領域)を支配。
さらに乾隆帝の時代には、図中の「ジューンガル帝国」(ジュンガル)を支配し、タリム盆地のウイグル人(トルコ系のイスラム教徒)とあわせて新疆(しんきょう)として統治することとなった。




漢人に対する顔


中国本土の漢民族に対しては、独裁的な権力を確立するため、科挙や役人の制度、行政区画は明の制度を受け継いだ(故郷の満洲(直轄地)を別として、北京周辺の直隷省(現在の河北省)、その他の各省は科挙官僚が統治した)。


行省の起源は、モンゴルの王朝元が中国の地方統治の最高単位として設置した行政機関「行中書省」にある。清は明代の両京と十三布政使司を基本的に踏襲し、まず、山東・山西・河南・陝西・浙江・福建・江西・広東・広西・湖広・四川・雲南・貴州の13省を置いた。さらに順治元年(1644年)に北京を都と定め、盛京から遷都。翌二年(1645年)に北直隷を直隷省に、南直隷を江南省とし、康熙三年(1664年)には湖広を湖北湖南の二省に分割。康熙六年(1667年)には江南省を江蘇安徽の二省とし、康熙七年に甘粛省を設置。これらを総称して「内地十八省」という。


現在の中華人民共和国の行政区分(https://ja.wikipedia.org/wiki/Template:%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E3%81%AE%E8%A1%8C%E6%94%BF%E5%8C%BA%E5%88%86_imagemap)



なにせ清は、わずか数十万の満洲人に対し、漢人は1億人以上もいる。


中国王朝伝統の学問である儒学も積極的に受け入れ、正統性を保とうとしたのだ。

ただ、どうしても避けられない問題がある。
清が、辺境地帯出身の女真人の築いた王朝であるという点だ。

中華思想において、伝統的に世界の中心は漢民族の暮らす世界に置かれてきた。

出典:『世界史のミュージアム』とうほう、2022年、117頁。


では、東北地方の女真は、中華(=文明)に対する夷狄(=野蛮)ではないのか?


それを覆い隠すように、歴代皇帝は儒学の学習に奮励する。

たとえば、 雍正帝が文武の学業について述べた史料を紹介しよう。


「文武の学業は一体であるべきで 、どちらかが重く 、どちらかが軽いというようであってはならない 。しかし 、文武を兼ねる人物は世間に少ない 。我々満洲人は漢地に居住し 、やむを得ずもとの習いからは日々遠くなってしまった 。
(中略 )
今もし文芸を崇ぶとすれば 、子弟の中ですぐれ た者ももっぱら意を読書に注ぎ 、武備に心を留めなくなってしまうだろう 。それで果たして江南の漢人にどうしておよぶことができるだろうか ?
どうしてわざわざ己の長技を捨てて 、無理なことを強 引に習おうとするのか ?我々満洲人は 、ひたすら上につかえ 、誠を尽くして父母に孝行し 、貨財を好まず 、たとえ極貧と困窮に追い込まれても無恥で卑鄙なふるまいを行わないことを心がけている 。これこそ満洲人の長所なのである。
読書 (儒学経典の学習 )もまた 、このことを知りたいがために行うのだ !
読書しても行動がともなわないのならば 、むしろ読書せずに行動できるほう がよいのだ !
(中略 )本朝の龍が興り 、区宇 (天下 )を混一したのは 、ただ実行と武略を恃み にしたのみである 。未だかつて 、虚文を恃みにして粉飾したことはないのだ!」

『大清十朝聖訓 ・世宗憲皇帝 』雍正二年七月甲子 、太字は引用者。


これに対し、当時の儒学者の一人はこのような意見を表明している。
以下は、歴史学者・平野聡氏による紹介だ。


当時の学者(曽静(1679〜1735))の意見

「「戦国時代の皇帝は孟子、宋代の皇帝は朱子、明代の皇帝は呂氏(呂留良)がなるべきだった」 とし、呂留良の議論にしたがって、天下を支配する皇帝の権力が正しく漢人へと引き継がれるべきであることを強調した。

なぜなら曾静によれば、皇帝となりうる真の人間は、陰陽が絶妙に合致して正しさと徳に満ちあふれた漢人の「中土」「中国」にしか生まれ得ず、その周辺は「傾いて、険しく、 邪(よこしま)な僻地である」がゆえに夷狄しか生まないからである

さらに曾静は、住む場所が遥か遠くにあって、言語や文字が中国と通じない存在は、夷狄にももとる「禽獣(きんじゅう)だ」と決めつけ、漢語とまったく異なる語順の満洲語や、ソグド文字に紀元を持つ表音文字である満洲文字を暗に 「禽獣」の表れだとして、漢人の優越を強調した。」

出典:平野聡『興亡の世界史 大清帝国と中国の混迷』講談社、2007年。強調は筆者による。



こんな意見がひろまってしまっては、清の正統性が揺らいでしまう。

この批判に対する、雍正帝の再批判はこうだ。

「『書経』には、「天は差別なく、ただ徳ある者のみを助ける」とある。徳のある者のみが天に従うことができるのであって天が味方する際にその出身地によって区別をすることがあり得ようか。
わが清朝は東の地方から興り、優れた君主が相次ぎ、天下を安んじ、天の恵みを受け、徳を広め恩を与え、民に安定した生活をさせ、内外の人々に慕われること、すでに百年にもなる。
......漢・唐・宋な どの王朝は全盛時代にあっても、北狄や西戎の侵入に苦しめられ、その土地を服従させることができなかったために、華夷の区分を建てざるを得なかったのだ。
わが王朝が中国の主人となってからは、天下に君臨し、モンゴルの辺鄙な諸民族に至るまでわが領土に入っている。これは中国の領域が広大になったということで、中国臣民の幸いであるのに、どうして華夷・内外の区分を論ずることがあろうか
逆書(曽静が清を批判した書)では、夷狄は人類と異なるといって禽獣であるかのように罵っている。
そもそも人と禽獣の違いは心に仁義があるかということだ。山中の野蛮人で道徳も礼儀も知らないというなら禽獣と同じかもしれないが、今日のモンゴル四十八旗、ハルハなどを見るなら、君主を尊び目上を敬い、法を守り、盗賊は起こらず、殺人事件も稀で、詐欺や盗みの習慣はなく、穏やかでなごやかな風俗がある。これをどうして禽獣といえようか。
種族的な意味では満洲族は確かに「夷」であり、わが王朝は夷狄の名を避けようとは思わない。孟子は、古の聖王である舜も「東夷の人」であり、周の文王も「西夷の人」だと言っているではない。ここで夷といっているのは出身地 のことで、現在の本籍のようなものにすぎないのだ。

出典:上掲書、116 頁。

曾静は清に反抗する主張を広めたとして1728年に逮捕される。しかし、その後、上記の再批判のような雍正帝とのやりとりを通して、その誤り(=迷い)を認め、目を「覚まさせた」という話になっている。一連の記録は『大義覚迷録』(たいぎかくめいろく)として1729年に雍正帝の命令によって刊行されている。

青海、チベットを支配領域に組み込んだ、雍正帝にとって、こうした新たに拡大した地域(「大中国」)を支配するための論理を組み立てることは、急務であったのだ。

ちなみに曾静は、『大義覚迷録』におさめられた「帰仁説」の中で、このようにも語っている(語らされている)。

「およそ生民の大迷が、いま大覚を得るに至ったことは、たいへんな幸いである。......(わたしは)その名は大義を正すことを欲しながら、かえって生民の大義に反していたことを知らなかった、明らかな道と思いながら、かえって当然の常道に 暗かったことを知らなかった。」


多民族国家である中国が、異民族に対してどのような視点を持っていたのか?
「多様性」(ダイバーシティ)がキャッチーなフレーズとして氾濫する現在、そのありかたを考えるヒントともなる史料だと思う。


***


モンゴル人の大ハーンとしての顔


一方、清はモンゴル人の君主(大ハーン)としての称号も持っている。
そもそも国号である「大清国」(ダイチン・グルン)も、かつての元(「大元国」(ダイオン・ウルス))に対するオマージュである(なお、歴史学者杉山清彦氏によれば、「大清」とは、「大」+「清」ではなく、モンゴル語で戦士を表す「ダイチン(daicin)」からとったものであるという)。

そもそも清朝がモンゴル人を服属させたのは、第2代ホンタイジが、中国に近いほうのモンゴル、すなわち内モンゴルを帰服させたのが初め。
国号からもわかるとおり、清朝にはモンゴル帝国の後継者という意識があったわけだが、第4代康煕帝の即位後も、すべてのモンゴルが清朝にくだったわけではなかった。

当時のモンゴルは、東はハルハという部族、西はオイラトという部族がわかれて支配権をにぎっていたのだが、康煕帝即位のころにガルダン(1644〜97)がジューンガル部族を平定してオイラトの盟主となり、タリム盆地を中心とする東トルキスタンを制圧。
さらにハルハを1688年に平定し、大帝国(ジューンガル帝国)を建設し、内モンゴルにまで攻め込んで清軍と交戦した。

この事態をおさめるべく、康煕帝はハルハに遠征し、これを帰順させることに成功。
こうして西方のジューンガルを除き、現在のモンゴルとほぼ重なる領域は清朝の支配下に組み込むことになったのだ。

では清朝は、その支配をどのようにしてモンゴル人たちを納得させたのだろうか?



モンゴル相撲を皇帝が天覧している

これは清朝皇帝が訪問した内モンゴル(モンゴル南部)の様子だ。左の方に座っているのが乾隆帝。巻狩り、暴れ馬乗り、モンゴル相撲といった国家的イベントをひらき、モンゴル人の支配者としての正統性をアピールしたのだ(イエズス会士カスティリオーネなどの作)。


また、こちらは乾隆帝がモンゴル人の首長らにたいしてふるまった宴会を描いたもの。
草地に巨大な移動式テント(ゲル)を配置し、あたかもモンゴルの君主のごときイメージをつくりだした。

『万樹園賜宴図』(1755年、同じくイエズス会士のカスティリオーネらとともに、清の乾隆帝の宮廷画家として活躍したジャン・ドニ=アティレの作。アティレといえば、ジューンガルとの戦争を描いた連作が有名である)

なお、この宴会のひらかれた場所は熱河地方の避暑山荘にある。
ここにはモンゴル人の信仰したチベット仏教の寺廟が、避暑山荘の東側と北側に多数建立され「外八廟」(がいはちびょう)として知られる。



以上の絵画が伝えようとしたことからわかるように、清の君主は、遊牧民に対しては「ハーン」、農耕民に対しては中国歴代王朝を継ぐ「皇帝」の称号として君臨。だから、いつもは農耕民エリアの北京の宮殿(紫禁城(しきんじょう))で政治をおこなう一方、夏になると遊牧民エリアのクラス北方の離宮(りきゅう)で過ごすのが清朝前半の皇帝の習わしとなったんだよ。


https://4travel.jp/travelogue/10460728熱河離宮の麗正門「満州文字(現在は使われていない)、モンゴル語、漢字、チベット語、ウイグル語で書かれている。」


***


チベット人に対する顔

清がチベットの支配に向かうのは、最後の騎馬遊牧帝国ともされるジュンガル帝国と、その支配権をめぐる対立がおきたからだ。

モンゴル人の信仰していたのは、チベット仏教の中でもゲルク派の総帥ダライ=ラマ。清の皇帝はその支持を得ようとして、康煕帝のころからアプローチをこころみていた。

清はチベット仏教を保護することで、チベットを支配するだけでなく、モンゴル人の支持をとりつけようとしたのだ。


雍正帝による上諭(1727年)

朕は天下全体のために教化を維持し宣揚する宗主であり、黄教(こうきょう)もまた内外東西を分かたず至るところで広めるべき教えである。
 (中略)
朕がこのように黄教を推し広め、寺院を建造し、西域と同じようにラマに居住させて経典の講習を行わせれば、彼らモンゴル人にとって経典の学習や善行は甚だ容易になるだろう。(中略)朕の意図は、ダライラマ、パンチェンラマの教えを宣揚しようとするにほかならないのだ。

出典:『世界史史料4』岩波書店。黄教とはゲルク派のこと。パンチェンラマとは、ダライラマに次ぐチベット仏教の高位の活仏(ブッダの生まれ変わり)のこと。


●もうすこし詳しく

 チベットではオイラト系部族の一つ(ホシュート部)の君主グーシ・ハーン(トゥルバイフ、1582~1654)が、チベットの全土を占領し、その領土をダライ・ラマ5世に献上していた。おりしもダライ・ラマ5世も、チベットに宗教的な政権を築き上げようとしていましたから、両者の意志が一致した結果です。
 これによりダライ=ラマ5世にはチベットの支配が認められ、自らを観世音菩薩の生まれ変わりとし,チベット仏教の主要5派(元の時代に保護されたサキャ派や,ツォンカパの立ち上げた紅帽派など)の上に君臨することになった(チベット高原のラサに壮大なポタラ宮殿が完成することになるのは、1660年のこと)。
しかし,17世紀初頭にグーシ・ハーン一族で内紛が起きると、これに雍正帝(ようせいてい)が介入し、チベットを分割してその東部を割譲させた。
こうしてチベット政府はカムとアブドを失い、チベット高原南部(ツァン地方)のみを支配領域とすることとなり、清の皇帝の保護を受けることとなったわけだ。

ツァン(Tsang)、カム(Kham)、アムド(Amdo)の位置関係。雍正帝によるチベット分割によって、カム(現在のチベット自治区〜青海省〜四川省にまたがる地域)とアムド(主に現在の青海省)はツァン(ラサの位置するチベット中央部)から切り離されることとなった。


清はチベット仏教の寺院を多数建立し、厚く保護した。
その代表例が、北京市内の雍和宮(ようわきゅう)。雍正帝が即位する前に邸宅として使われていたものを、乾隆帝の時代にチベット仏教の寺院としたものだ。


雍和宮の扁額(へんがく)には満洲文字、漢字、チベット文字、モンゴル文字が併記されている。



http://www.toyo-bunko.or.jp/museum/mablog/2012/04/who-am-i.html(石濱裕美子「清朝とチベット仏教―菩薩王となった乾隆帝」(『早稲田大学学術叢書』、早稲田大学出版部、2011年)からの引用)

また、こちらは乾隆帝が、西洋画の技法でチベット仏教で信仰される「菩薩王」の姿に描かせた肖像画。乾隆帝自身もチベット仏教を信仰していた。



その後、中国の政権とチベットの政権との関係がどのように変遷していったのか?
現在の中華人民共和国とチベット自治区との関係を考える上でも、当時の中国とチベット、そしてモンゴルとの関係を知ることが大切だ。


***


女真人としてのプライド


清の皇帝は、他方で女真人としてのプライドも忘れない。

軍は他民族混ぜこぜの部隊とはせず、漢人は漢人の軍隊(緑営(ルゥーイュン;りょくえい))を設置し、はじめは女真人だけで実施していた「八旗」(バーチー;はっき)を、モンゴル人と漢人に分けて整備し、各所に配置した。

また、政治の中枢部の人事には、女真人(満洲人)だけでなく漢人も採用。その人数は同数だった。雍正帝は、万事を自ら決裁するため、皇帝直属の諮問機関(政策について協議する機関)として軍機処(ぐんきしょ)を設置し、情報を一括して権力を高めるために利用した。

都合の悪い情報を締め出すため、“公認の考え方”が何かをハッキリさせた。『康熙字典(こうきじてん)』『古今図書集成(ここんとしょしゅうせい)』『四庫全書(しこぜんしょ)』といった大規模な編纂事業に学者を動員。逆にこれらに収録されていない思想は “非公認” 思想ということになったわけだ。

一方、清朝に批判的な言論については厳しく対処をした(文字の獄(もんじのごく))。公文書の中の表現や漢字の使い方ひとつまで、厳しい管理の対象になったんだよ。また、白蓮教(びゃくれんきょう)などの民間の宗教も、邪教としてきびしく弾圧を受けることとなった。

なお、漢人の男性たちに、「辮髪」(ビエンファー;べんぱつ)という、トップの髪の毛だけ長く伸ばしてポニーテールに結ばせるスタイルを強制。清朝は、漢人による厳しい抵抗を受けつつも、滅亡するまで髪型の強制をやめなかった。


***


いくつもの顔をもつ清


これまで見てきたのは、16世紀の大航海時代が世界規模の商業ブームをもたらし、毛皮や薬用人参をあつかう軍事的商業勢力のひとつであった女真が、かつてのモンゴルが実現したような広域秩序を実現していくプロセスだ


高級毛皮をとるために乱獲されたクロテン。明朝・清朝の支配層のまとう服装での需要が高まったほか、江戸時代の日本には北海道のアイヌを通じて日本にもさかんに輸出され、アイヌも交易の利を求めて沿海州や樺太に進出していった。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%86%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Zobel_(Martes_zibellina).png、パブリックドメイン)



クロテンの毛皮を用いた皇帝の冬宮廷衣裳。1662-1722年(康熙帝時代) 青色繻子織文様、茶色セーブル。長さ150 cm x 幅208 cm(北京故宮博物院)、http://elogedelart.canalblog.com/archives/2010/12/07/19809352.html。


イルクーツクの市章。トラがクロテンをくわえている。



こうして18世紀の東部ユーラシアには、実に広大な帝国が出現する。

しかし、清の領域はすべてが同じ制度によって支配されていたわけではなかった。

主に漢人の暮らすところは直轄地。

モンゴル、チベット、新疆など、遊牧民や商業民の暮らすエリアについては、理藩院という役所を通して、現地の支配者に一定の自治が認められた。


出典:川北稔ほか監修『最新世界史図説タペストリー』(19訂版)帝国書院、2021年、119頁。


清朝では、満洲語、チベット語、モンゴル語、ウイグル語、漢語の5つの言語が行政言語として用いられ、清朝中期には下図の『五体清文鑑』のような辞書もつくられた。


上から満洲語、チベット語、モンゴル語、ウイグル語、漢語の順。(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a9/Yuzhi_Wuti_Qingwen_Jian_Tian.svg/1111px-Yuzhi_Wuti_Qingwen_Jian_Tian.svg.png、パブリックドメイン)。



それぞれの領域を、一つの統治手法で支配することなく、いくつもの顔を使い分けることで支配しようとした清の手法は、同時代の西アジア・南アジアの帝国にも通じるものといえるだろう。


関連記事



この記事が参加している募集

世界史がすき

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊