見出し画像

トウモロコシがもたらした大洪水 7.2.4 清代の社会と文化 史料でよむ世界史

今回は、清代(しんだい)の社会と文化に関する史料を通して、清代の社会のイメージを具体化させていきましょう。

***

舞台は18世紀末。官僚であった洪亮吉(こうりょうきつ)という人物による文章です。

画像1

Cited from Wikicommons File:洪亮吉.jpg(Public Domain)

ある人は、何代か前にはまだ土地には開墾する余地があり、まだ家には空き部屋があった〔だから、人が増えても何とかなる〕と言うかもしれない。


しかし、そのようなことで増やせるのは2倍くらい、よくても4、5倍だろう。しかし、世帯・人口は10倍、20倍と増えるのだ


こうして、農地・住宅は常に過剰となる

ましてや、金持ちは1人で100人ぶんの広い家に住み、1世帯で100世帯ぶんの農地を持っているのだから、その他方で予想されるように、悪天候のなかで飢え凍えてのたれ死にする者も珍しくない。

(「意言」治平篇、『洪亮吉集』1冊、15頁)

***

18世紀の中国は人口の激増期

この史料が出される18世紀の中国は、人口の激増期。
17世紀に1億人台であった人口は、18世紀末には3億に達し、19世紀には4億を超えていました[★ 吉澤2020:21]。


画像3

中国の人口の変遷(推計) Cited from wikicommons CC BY-SA 4.0 File:China population growth.svg


なぜ18世紀にこれほどまで急激に人口がふえたのか。依然として議論はつづいていますが、その背景としてまちがいなくいえるのは、交易が活発化したこと、お金がたくさん供給されて需要が増大したこと、さらにそれに刺激されて生産が拡大したことでしょう[★岡本編2013:199頁]。



***

政治的な安定と経済的な繁栄

18世紀」と聞くと、「ヨーロッパが経済的にイケイケだった時期なんだろうなあ」と思う人が多いかもしれません。

時代のヨコを合わせてみると、18世紀の前半には、日本では将軍・徳川吉宗が将軍につき、18世紀後半にはアメリカ独立革命フランス革命が起きています。


しかし、そんなことはありません。

たとえば18世紀の中国は、「盛世」(せいせい)と呼ばれる空前の繁栄を迎え、ヨーロッパ諸国には到底太刀打ちできない強大な権力と、活発な経済活動が展開されていました。


政治的には、清の中国支配はいよいよ安定したものとなっていました。
4代目皇帝(康熙帝(カンシーディ;こうきてい))によって、漢人の武将による反乱(三藩(さんぱん)の乱)が鎮圧され、さらに台湾での抵抗運動もおさめられたことが大きいですね。

経済的には、「朝貢以外はゼッタイに認めない」という海禁がゆるめられ、中国商人が自由にジャンク船に乗って海外で貿易することを認めるとともに、ヨーロッパ船の来航もOKします。
中国はずーっと厳しく「朝貢」貿易をおこなっていた」イメージがあるかもしれませんが、清の時代になると、じっさいに朝貢する国はわずかで、それ以外の国に対しては「別に朝貢しなくても貿易はできるよ」という形にしたんですね。日本の長崎でおこなわれていた貿易は、後者にあたります。



“くだらない争い”を避けることで、海上貿易はいっそう繁栄を迎えていくこととなりました。

ヨーロッパ諸国やアメリカ大陸のスペイン・ポルトガルの植民地という新たなマーケットとの結びつきにより、生糸(カイコのまゆからとった糸)・陶磁器・茶は “ヒット商品” の座に君臨。
サトウキビの生産も盛んで、1750年の時点で中国はヨーロッパよりも多くの砂糖を消費していました[★ポメランツ2015:137]。

また、長江下流域の一部の地域では北方の満洲(まんしゅう)からは肥料として大豆粕(だいずかす)をジャンク船で海上から運び込み、綿花を栽培し、綿系や綿布をつくる農民の手工業も広まっていました[★吉澤2010:22頁、岡本2013:199頁]。綿花は暑いところでも寒いところでも快適に着用できますから、世界のどこでも売れる ”ヒット商品“ となりました。

17世紀後半以降、中国方面にも進出していたロシア帝国も、清からさかんに綿花や茶を輸入していました。ロシア語で厚手の綿花を「キタイカ」というのは「キタイ」(中国)が語源ですし、ロシアのお茶文化のルーツもこの時期にさかのぼります(ロシアは清に対して、クロテンなどの毛皮を輸出していました)。



同時期には、ヨーロッパ諸国でも農村での工業がさかんになっていましたが、中国の長江下流域でも、一見すると同様の発展が見られたのです[★ケネス・ポメランツ2015]。

輸出の対価として、メキシコで生産された大量のが、太平洋を越えて中国に流れ込みます。

画像2

1600年前後の銀の移動[★岸本1998:15]


そんな中、中国南部の福建や広東の商人の中には、「移住を禁止するきまり」をおかして東南アジアに移住し、現地で農村と国際マーケットを“接続”するネットワークをつくって富を築く者も現れました。

現在の東南アジア経済界において華僑の存在感が大きいのは、このとき以降の“東南アジア移住の流れ“にルーツがあるのです。

***

トウモロコシとサツマイモが支えた数億の人口

18世紀には中国の人口が急増し、3億人の大台を突破。

その背景には、政治の安定だけでなく、アメリカ大陸から伝わったトウモロコシサツマイモの栽培がありました。山地でも栽培可能で、これまでの平地に代わり山にも農地が広がったのです。


「民に甘藷の栽培を勧める諭」 陳弘謀(乾隆10年(1745))

 「〔私が〕陝西省に赴任したときには、この地にはサツマイモは存在せず、陝西の民もまたサツマイモが日々の食の助けとなるばかりでなく、栽培も簡単に行えることを知らなかった。......サツマイモに取り組むものを奨励するが、試さないものを詰問する必要はない。」
(『培遠堂偶存稿』文檄巻 22、中林広一訳。上掲、395-396 頁)


貿易と産業が発展するのはよいのですが、人口増加は新たな問題を生み出します。

経済がいくらさかんになっても、一人当たりの土地は不足します。そこで人々は土地や仕事を求め、これまであまり開拓されていなかった土地、とりわけ山地(江西、湖北、湖南、四川)や辺境地帯への移住者が増大しました(下図[★古田2018])。

画像4


移住者たちは粗末なバラックを建てて暮らし、自分たちが食べるためにトウモロコシを栽培し、タバコサトウキビを栽培したり、森を伐採して木材をつくったり、それを燃料にして鉄をつくるなどしてひと儲けをねらいます[★上田1994:199頁]。

***

無秩序な開発のもたらしたツケ


しかし斜面でトウモロコシを無計画に栽培したことで、森林は破壊され、土壌の流出をもたらし、災害も多発。

1788年に黄山周辺で5月に降り始めた梅雨は、7月まで降り止むことがなく、記録によれば祁門県(きもんけん)は未曾有の大洪水に見舞われます。

この地域の宗族の史料をしらべた歴史学者の上田信さんは、この地をおそった洪水をうたった詩篇に付された解説文を紹介しています。


「洪水嘆」の解説

洪水の由来するところを推し量ってみるに、山を開墾したことがこの害毒を引き起こした。祁門県の山々は、もとは竹木を産するところであった。ところが貪欲な子弟たちが、県外から人を招き入れ山谷を開削し、利益を図ってトウモロコシを植えさせた。

山林や山麓に蔓延し、草木の根を根こそぎに掘り起こし、まず山を禿げ山にしてしまった。

竜や蛇のすみかの洞窟は安らかではなくなり、蛟(みずち)や蜃(はまぐり)は、もはや落ち着いてはいられない。雨が降るたびに、すぐに流出して留まることがなく、水は土砂を巻き込んで勢いをつけ、田畑を押し流す。山からわき上がる水をして、陸の上に海を造らせる

このように大きな損害は、百年を費やしても回復させることはできない。

ああ、悪例の発端を開いたものの罪は、万死をもってしても贖うことはできない。」[★上田信1998:202−203]

いまとなっては当時の惨状を知る人は、当然誰一人としていないのですが、この解説からは、当時の人々が洪水を「人災」とみなしていたことがわかります。


他方で、無秩序な開発により山地に暮らす狩猟採集民たちの生活空間も脅かされました。


人口の増加ペースが激しくて土地の開発が追いつかず、結果的に土地のない農民も多数現れます。貧しい農民たちは税金を逃れようとして、当局の調査の目をかいくぐって“闇社会”に潜り込み、余計に治安が悪くなる始末。こうした貧しい人々は自分たちの生活を守るために様々な「まとまり」を作っていきました。貧民の支持を受けた宗教的なグループは、のちの太平天国のように、大反乱を起こす母体となっています。

こうした状況に対する、清朝の政府の対応は、どのようなものだったのでしょうか。乾隆帝が四川省への移民について触れた上諭を見てみましょう。

「これら無業の貧民が移住していくのは、四川が地広くして糧[=食糧]多きがため、生計の手段を求めてのことに過ぎない。

もし四川に耕すべき土地が乏しくなり、自活が難しいとなれば、勢いとして禁じずとも移住は自ら[=ひとりでに]止むであろう。

しかしもし四川の糧価が安く、働いて賃金の蓄えがなるとするならば、生計の趨くところにして一概に阻絶[=さえぎりたちきる]することができようか。」 

(中国第一歴史档案館編『乾隆上諭』第 5 冊、档案出版社、1991 年。山田賢「地方社会と宗教 反乱―18 世紀中国の光と影」『岩波講座世界史 13―東アジア・東南アジア伝統社会の形成』 1998 年、274 頁)


このように、対応は消極的なものでした。中国の社会では、中央政府と地方との “距離” には大きな開きがあったのです[★岡本2013:27]。


人口増加を憂慮したのが、冒頭の史料を著した洪亮吉だったのです。
彼がその主張を公にした5年後、イギリスで「人口の抑制」を唱えたのは、『人口論』(初版1798年)を著した経済学者ロバート・マルサスでした。その内容は洪亮吉の唱えた説とそっくりで、先に唱えた洪のほうは「中国のマルサス」とも呼ばれます。


18世紀のイギリスと中国では、開発のもたらした生態系の限界と人口増加が問題となり、「なんとかしなければ大変なことになる」という危機がともに表面化していたわけなのです。

***


おもな参考文献

・上田信(1994)『森と緑の中国史 エコロジカル-ヒストリーの試み』岩波書店

・岡本隆司(2013)『中国経済史』名古屋大学出版会

・岸本美緒(1998)『東アジアの「近世」』山川出版社

・古田和子(2018)「アジア経済史から見た中国」『三田学会雑誌』Vol.110 No.4「慶應義塾経済学会会長講演」 2018 年、361-385 頁


・吉澤誠一郎(2010)『清朝と近代世界—19世紀』(シリーズ中国近現代史①)岩波書店


・ポメランツ,ケネス、川北稔・監訳(2015)『大分岐』名古屋大学出版会



このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊