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10.2.2 アメリカ合衆国の成立 世界史の教科書を最初から最後まで


ボストン・ティーパーティー」を受け、イギリス政府が強硬な態度をとろうとしていることがわかると、1774年、植民地側の人々は「大陸会議」をひらき、本国に対して自治の尊重を要求。


平行線をたどったまま、1775年にレキシントン

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というところでアメリカの植民地側の民兵とイギリス軍との間に武力衝突が発生する。




これが「アメリカ独立戦争」の発端だ。



植民地側の総司令官は、のちにアメリカ合衆国初代大統領となるワシントン(1732〜99年)だ。

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1776年7月4日、13植民地の代表はフィラデルフィアのホールで「独立宣言」を発表。

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この宣言は、イギリス国王ジョージ3世の統治に対し、「人民が革命をおこす権利を持つ!」と訴えたもの。

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イギリスの社会思想家であるロックの影響を受け、トマス=ジェファソン(1743〜1826年)がしたためたのだ。


史料 アメリカ独立宣言
……われわれは自明の真理として,すべての人は平等に造られ,造物主によって,一定の奪いがたい天賦の権利を付与され,そのなかに生命,自由および幸福の追求の含まれることを信ずる。また,これらの権利を確保するために人類のあいだに政府が組織されたこと,そしてその正当な権力は,被治者の同意に由来するものであることを信ずる。そしていかなる政治の形体といえども,もしこれらの目的を毀損するものとなった場合には,人民はそれを改廃し,かれらの安全と幸福とをもたらすべしとみとめられる主義を基礎とし,また権限の機構をもつ,新たな政府を組織する権利を有することを信ずる。(『人権宣言集』岩波書店)


この独立宣言をよむと、彼らが「自由・平等は人間がうまれながらにもっている権利であること」「イギリスはそれを侵害していること」「独立は正当であること」を主張していることがわかる。
こうした考えは、王様による支配が当たり前だった当時のヨーロッパにおいてはとっても過激な考え方。しかしその後の歴史を経て、現在では世界でひろく普及しているすっかり当たり前の考え方となっているよね。


さて、植民地の人々はこうした事態の進展に対し、はじめはどっちつかずの態度をとる者(中立派)や国王に忠誠を誓う派(国王派)もいた。だって国王の認可を得て建設された植民地もあったんだからね。また、同時にイギリスの支配層も、アメリカへの対応をめぐり “一枚岩” であったわけでもない。

そんな中、1776年に出版されたトマス=ペイン(1737〜1809年)のコモン=センスというパンフレットが「イギリスから独立することがコモン=センス(常識)だ!」と訴え、それが飛ぶように刷られると、人々の意識はしだいに独立へと傾いていくことになった。

植民地軍は、ワシントン司令官の下、複数の州が連合した寄り合い所帯。

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彼らをサポートしたのは、ヨーロッパにおいてイギリスと敵対していたフランス(その背景には外交官フランクリンの活躍があった)や、フランスの王家の支配するスペインだった。
また、ロシアのエカチェリーナ2世も中立国の航行の自由を要求する武装中立同盟を近隣諸国と結成し、植民地側に間接的に味方している。

革命のおこる前のフランスからはラ=ファイエット、大国に分割されて消滅する前のポーランドからはコシューシコがボランティアの軍を率いてやって来た。


アメリカの植民地における革命は、自由の時代の幕開けを象徴するものであり、太平洋を挟むヨーロッパ諸国の人々はアメリカの革命に「新しい時代の到来」を期待したんだね。





結局1781年のヨークタウンの戦いに敗れたイギリスは、

1783年にパリ条約を締結。1763年のパリ条約とは異なるものだから注意しよう。

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パリ条約締結を描いた絵画。ベンジャミン・フランクリンやアダムズが描かれている。イギリス側がスケッチを拒んだため、左側のアメリカ側の使節しか描かれていない。



これによりイギリスは、ミシシッピ川よりも東にひろがる広大なエリア(ミシシッピ川以東のルイジアナ)をアメリカ植民地にゆずりわたす形で、独立をみとめることとなった。



このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊