見出し画像

新科目「歴史総合」をよむ 1-2-3. 18世紀のヨーロッパとアジア

1-2-3.18世紀のヨーロッパとアジア


■近世ヨーロッパ:宗教改革と科学革命の時代

 思想面においては、宗教改革によってキリスト教が分裂した。また、自然科学や合理性を重んじる思想が発達し、人間の幸福の増大に関心が向けられるようになった点も見逃せない。

 また、自然科学や合理性を重んじる思想が発達し、人間の幸福の増大に関心が向けられるようになった点も見逃せない。

 17世紀のヨーロッパでおきた、自然科学の劇的発達を「科学革命」とよぶ。
 大きな役割を果たしたのは、レンズである。
 まず、高精度の望遠鏡の発達によって、肉眼では見えない天体の運行が解明され、ケプラーによる天体の運動法則の解明につながった。
 また、高精度の顕微鏡の発明によって、肉眼では見えないミクロの世界が観察の対象となり、生物学の発展につながった。

 科学者たちは、諸現象の背後にひそむ法則を、実証的な観察によって解き明かし、たがいに専門的な情報を交換し、科学的な手続きも整えられていった。また、各国の君主は科学者の活動を支援し、科学協会やアカデミーが創設された。

 近代科学の発達により、これまでのように宗教の教義に正しさの根拠をもとめるのではなく、探究の積み重ねによって知識を絶えず更新していくことの大切さが共有されていった。
 また、自然現象も、科学の力をもってすればコントロール可能とする態度や、人間社会を科学の力によって進歩に導いていこうとする姿勢も強まっていった。

 このように、近代化の前提となる要素が成立していった16〜18世紀半ばまでの時代を、ヨーロッパの歴史では「近世」と呼ぶことがある。


 こうしたヨーロッパ諸国と中国の間には、思想や技術の面での交流もあった。

1024px-Kunyu_Wanguo_Quantu_(坤輿萬國全圖)

『坤輿万国全図』(東北大学附属図書館狩野文庫の写本) 
(パブリック・ドメイン)

 1602年にイタリアから派遣された宣教師マテオ・リッチは、中国でヨーロッパで発達した世界地図を作製した(『坤輿万国全図こんよばんこくぜんず』)。日本における世界地図も、この影響を受けて、新たな世界像が受け入れられるようになった。

***

■ヨーロッパの消費を変えたアジアとの貿易

 15〜17世紀のヨーロッパ人による「世界の一体化」は、アメリカ大陸の従属とアジアのさらなる繁栄をもたらした。
 しかし、その繁栄は、ヨーロッパ内部における格差も生み出した。

 大航海時代によって、北西ヨーロッパ、とくに海軍力に優れたオランダとイギリスが台頭し、北東ヨーロッパ地域が、北西ヨーロッパへの穀物供給地となった。

 ヨーロッパと南北アメリカ、アジアとの貿易は、国のみが主導したわけではない。各国の民間商人や、国をこえるネットワークをもつ民間商人たちが、政府と共同するかたちで進んでいったものである。
 すなわち、政府は貿易特許をもつ会社を保護し、外国の産品輸入に高い関税をかけ、自国や植民地の貿易から他国をブロックする体制だ。これを重商主義じゅうしょうしゅぎ体制という。
重商主義のもとで、17〜18世紀のヨーロッパ海外貿易は際立った成長を見せた。

 しかし、こうした重商主義体制の枠組みの中から、まったくあたらしい経済の仕組みが生まれ、19世紀には重商主義体制を崩していった。

 17世紀後半以降、西ヨーロッパを中心とするヨーロッパでは、茶、コーヒー、砂糖などの嗜好品の受容が高まった。いずれも当初は非常に高価で手に入れにくく、上流階級のあいだのステータスとして広まった。
 たとえば17世紀のイギリスで紅茶専門店を開店したのは、トーマス・トワイニング(1675〜1741)という人物。女性の入店が歓迎されたことから人気をよび、上流社会の婦人のあいだにティーパーティーが広まるきっかけをつくった。
 また、インドの更紗さらさを使用したドレスやベッドカバー、壁掛けなども、18世紀のヨーロッパ上流階級の間に広まった。


資料 インド更紗を使用したローブ(18世紀)

画像1


「更紗」とは綿めんや絹の布地に着彩したもの。英語では「更紗」はChintz。名前の由来はヒンディー語のchīntで、「斑点のある」、「変化に富んだ」、「まだら模様の」、「噴霧された」という意味(出典:CC BY-SA 3.0、https://en.wikipedia.org/wiki/Chintz#/media/File:Dress_(robe_à_l'anglaise)_and_skirts_in_chintz,_ca._1770-1790,_shawl_(fichu)_in_embroidered_batiste,_1770-1800.jpg)


 更紗は18世紀になると、ドイツ、イギリス、それにフランスでも生産がはじまる。輸入品を自国でまかなおうとする「輸入代替工業化」である。
 当初はインドから輸入した綿布に彩色する形であったが、ヨーロッパ産の記事に木版や銅板印刷技術によって、細かなデザインをプリントする技術も発明されている。

***


■ヨーロッパの「Imari」ブーム

 ヨーロッパで輸入量が増えていったのは、中国・日本の陶磁器や漆器、インドや東南アジアの綿織物だ。
 たとえば日本の伊万里いまり焼や、中国の青花せいか(青い文様の磁器。染付そめつけ)、五彩ごさい色絵いろえ)が、17世紀なかば以降、ヨーロッパにおける中国趣味(シノワズリ)の流行によってブームとなった。


資料 フランソワ・ブーシェ《中国庭園の眺め》1742年、フランス


資料 フランソワ・ブーシェ《化粧》1742年、フランス

メイドの後ろには屏風が見える。暖炉の前の床や、暖炉の装飾台の上にも、中国のイメージを想起させるものが配置されている。

フランソワ・ブーシェ 《踊る中国人たち》


Q. 中国の文化や思想は、ヨーロッパで、どのようなイメージを持たれていたのだろうか?


史料 ケネー『中国の専制政治』(1767年)
我々ヨーロッパ人は一般に中国の統治に対し否定的な意見を持っているように思われるが、私は中国からの報告にもとづき、以下のような結論を下した。即ち、中国の国制は賢明で不変の法に基礎付けられており、中国の皇帝はこの法を人々に遵守させるとともに、彼自身が注意深くこの法を遵守しているのである。…中国の皇帝たちは、彼らに対する臣民の甚だしい従順さにつけ込んで暴政を行ったりはしない。以下のような金言が、人々の間で広く認められている。…即ち、彼らが君主に対し孝子のように服従すべきであるからには、君主も同様に、彼らに対し父親のような愛情をそそぐべきである、ということである。

歴史学研究会編『世界史史料4』
画像2

資料 シャルロッテンブルク城の「時期の間」(17~19世紀)
ヨーロッパにおいて陶磁器はインテリアの素材としてもちいられていた(CC 表示 3.0、https://ja.wikipedia.org/wiki/シャルロッテンブルク宮殿#/media/ファイル:Berlin._Charlottenburg_021.JPG)。


 しかし、売り物としてヨーロッパ諸国に陶磁器を輸出するからには、「買い手」のことも意識しなければなるまい。どのような絵柄であってもOKというわけではなく、ヨーロッパ人の好みに合わせた絵柄をつけることによって、売り上げをのばしたいという輸出商の思惑もあったはずだ。
 実際に、中国の陶磁器をヨーロッパ諸国に輸出していたオランダ東インド会社(1602年)の陶磁器バイヤーたちはは、まさにその最前線に立っていた。


 とくに1644年、中国の王朝が明から清に交替すると、これまで陶磁器の産地であった景徳鎮けいとくちんかまが壊滅。


 買い付け場所に窮したオランダ東インド会社は、買い付け先を日本は肥前の有田に変更。有田の窯にたいして「景徳鎮と同じような陶磁器をつくれないものか」とかけあったのだ。

資料 景徳鎮と伊万里を結びつけたのは?
「1608 年からオランダ東インド会社は、本格 的に中国の景徳鎮貿易をおこなった。扱っていた磁器は、大皿、小皿、バター皿、ス ープ皿、からし壺、果物皿、コーヒーポット、デザート皿など、ほとんど洋食器であ った。点数として多かったのは、コーヒー、紅茶セットで、これはヨーロッパにおい てコーヒーや紅茶が広く飲まれるようになった食文化を反映している。フランスは、 オランダのアムステルダムを経由して中国磁器を購入していた。  ところが、明朝から清朝への王朝交代( 1644 年に明の滅亡)がおこり、この政変の ため、景徳鎮の製造がストップしてしまう。景徳鎮の衰退によって、着目されたのが 日本の伊万里であったが、景徳鎮と伊万里を結びつけたのは朝鮮窯である。朝鮮半島 には磁器の製造技術が中国から伝播し、すでに水準の高い磁器が製造されていたからである。  たまたま豊臣秀吉の朝鮮出兵のおりに、鍋島藩が朝鮮の陶工、李三平の陶工集団を 九州へ移住させ、その後、かれらは日本初の磁器( 1616 )製造をした。こういう経験 をへて、伊万里にも磁器技術が伝播していた。さらに金彩をほどこし、色彩豊かな柿 右衛門手(手は作風を受け継いだ製品)は、伊万里のひとつの特徴をなすものでもあ った。  オランダはヨーロッパ諸国のなかでは、鎖国後でも日本と交易をおこなっていた唯 一の国であったが、オランダ東インド会社は、1650 年代の終りごろ、かれらの望む製 品を伊万里の窯元に焼かせてみた。その結果、当時の伊万里の製品に満足したので、 景徳鎮に代わって、ヨーロッパへの輸出用に伊万里焼を発注するようになった。とく に地理的にも、長崎に近い有田から製品を搬出できるために、オランダ東インド会社 は伊万里を多数買い付けた。  当時、日本とオランダの貿易が盛んであり、こうして伊万里が太平洋、インド洋、 大西洋をへて、はるかアムステルダムへ輸出された。オランダはすでに東洋貿易によ って莫大な富を獲得していたが、とくにヨーロッパでは、日本風色絵、柿右衛門手の 赤絵が人気で、これは当時のバロック・ロココ時代のヨーロッパの芸術風潮と合致し た。  ただし、日本の伊万里焼がヨーロッパでもてはやされた時代は、それほど長く続か なかった。やがて政情が安定してきた清が、1680 年代後半になると景徳鎮の生産に力 を入れたので、この磁器がヨーロッパにも輸出され、日本を圧倒するようになった。 いずれにせよ 17‒18 世紀の前半まで、アジア製磁器はヨーロッパ人の垂涎の的であった。」

Q1. なぜ当時の伊万里が、ヨーロッパの輸出向け陶器を生産することになったのだろう?
Q2. ヨーロッパの人々は、どのような用途で陶磁器を求めていたのだろう? 
(出典:浜本隆志「12 マイセン磁器と食文化 : 景徳鎮・伊万里・マイセン」、『海の回廊と文化の出会い : アジア・世界をつなぐ』2009年、313-332頁)


 このオーダー通りにつくられたのが、あたかも中国の景徳鎮でつくったかのような肥前磁器である。この肥前磁器は伊万里港から出島経由で輸出されたため、「Imariイマリ」と呼ばれることに。こうして中国の景徳鎮のコピーである伊万里がヨーロッパ市場で人気となったのだ。アジアの陶器の発注に際しては、ヨーロッパ側からの細かい形や意匠の要望も示された。

資料 どちらがマイセン製で、どちらが伊万里製?(→戸栗美術館ウェブサイトへ)

画像3


 しかし、しばらくすると中国の本家本元・景徳鎮も復活。ヨーロッパが伊万里焼のデザインに夢中であったため、今度は中国が伊万里のデザインを逆にコピーし、中国版伊万里を生産し、伊万里焼をしのぐ人気を獲得することになる。
資料  フランス人宣教師フランソワ・グザイエ・ダントルコール『中国陶瓷見聞録』(1700年頃)



 一方、ヨーロッパ諸国も、自前で陶磁器を生産する試みを開始するようになる。
 17世紀以降、オランダのデルフトでは、アジアの焼き物を意識した伊万里写しが製作されていく。

資料 フェルメール

フェルメール《窓辺で手紙を読む女》1657-1659年
デルフト焼が見える


 18世紀にはドイツのマイセン窯でも、伊万里を模した「マイセン焼」の生産がはじまった。

マイセン窯製の龍に鳳凰文皿。1730〜35年。直径は50cm



***


■ヨーロッパ諸国の植民地の拡大

 このように交易が拡大し、アジア諸地域の貿易にヨーロッパがかかわるなかで、ヨーロッパ諸国はアジアの熱帯エリアで、ヨーロッパ諸国に売るための産品を自分たちで育てようと、アジア諸国で本格的に植民地化をすすめるようになっていく。
 綿花もサトウキビも茶も、ヨーロッパでは栽培することができなかったからだ。

 たとえばオランダは、従来のような沿岸部の拠点だけでなく、18世紀になるとジャワ島の内陸部に支配をひろげ、コーヒーやサトウキビのプランテーション開発をすすめていった。
 一方、ムガル帝国が衰退すると、イギリスもインドでの植民地拡大をすすめていった。

***


■大西洋に成立した新たな経済関係

 17世紀後半ごろからヨーロッパを中心に大西洋を舞台とする経済の結びつきが生まれていった。

 18世紀になると、イギリスとフランスの商人がアフリカに鉄砲などの銃器や工業製品、さらにはインド産の綿布を西アフリカに輸出。その対価として黒人奴隷を得ると、カリブ海に輸送し、サトウキビのプランテーションでの人手として使用した。

画像4

資料 ブルックス号の図面(18世紀後半)


 さらにカリブ地域で生産された砂糖、タバコ、綿花などの生産物は西ヨーロッパに運ばれ、ヨーロッパ諸国の人々の消費スタイルを変えていった。西アフリカでは奴隷貿易により大量の人口が流出し、伝統的な社会が破壊されていった。

 カリブ海地域では、ヨーロッパ向けの商品作物のプランテーション経営に依存する、経済のモノカルチャー化が進展していった。

 イギリスとフランスは、大西洋三角貿易によって多くの富を得ることになり、重商主義政策の効果もあって、資本がイギリスとフランスに蓄えられていった。これを「資本の本源的蓄積」という。

 このようにして18世紀ごろから、アジア諸国間の貿易ネットワークが、大西洋をはさんだヨーロッパを軸とする貿易ネットワークと絡み合い、世界経済の一体化がすすむこととなったのだ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊