1-2-2.結び付くアジア諸地域
物の交流
祇園祭の月鉾
京都祇園祭の山鉾の一つに「月鉾」がある。
この山鉾をよく見ると、側面に18世紀トルコでつくられたオスマン帝国産のアナトリア絨毯が用いられていることがわかる。
日本の伝統的な祭りにも、遠く離れたアジアのモノが隠されているのだ。
陶磁器
また、オスマン帝国の王宮トプカプ宮殿には、中国の陶磁器のコレクションがあり、日用品としても幅広く使われていた。
このように、18世紀以前のアジア諸国は、モノを通じて密接にむすびついていたのだ。
資料:住司憲史「絵画資料を読み解くための展開方法―中国産陶磁器の取引を描いた絵画(トプカプ宮殿蔵)」『高等学校 世界史のしおり』(2009年4月号)、帝国書院
桟留
もうひとつ、江戸時代の日本で大流行したインドから到来した縦縞の木綿の着物「桟留」についても紹介しておこう。
桟留は、江戸中期に町人の女性たちの間で流行し、やがて国産化が図られるようになった。
実際にアジア諸国の間に、どのような交流が生まれていたのか、具体的に見てみることにしよう。
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■アジアの諸国家の繁栄と動揺のはじまり
18世紀のアジア各地では、諸国家のもとで繁栄がみられた。
しかし、同時に動揺もはじまっていた。
東南アジア
17世紀までの東南アジアでは、島嶼部で、アチェ王国やマタラム王国などのイスラーム教王国が、モルッカ(マルク)諸島のコショウ、ナツメグ、クローブなどの香料の取引によって栄えた。
しかし、17世紀後半になるとヨーロッパでの香辛料価格が低下し、18世紀には衰退する。
内陸部でも、米の輸出や中継貿易で栄えていたアユタヤ朝(1351~1767)が、ビルマのコンバウン朝の攻撃によって滅び、1782年には現在まで続くラタナコーシン(バンコク)朝(1782~)がひらかれた。
南アジア
南アジアでは16世紀以来、イスラーム王朝であるムガル帝国(1526~1858)が南インドをのぞく広い範囲を支配していた。王朝はイスラーム教徒だったが、住民の多数を占めるヒンドゥー教徒との融和をはかったため、社会が安定し、インド=イスラーム文化が花開いた。
17世紀後半にはムガル帝国の領域は最大となったが、経済発展が進むとしだいに地方でも国家が台頭した。18世紀に入ると各地方勢力が自立して抗争を繰り広げ、帝国の解体がすすんでいくことになった。
西アジア
西アジアでは、16世紀前半に最盛期をむかえたオスマン帝国(1299~1922)がイスラームを支配理念にかかげ、キリスト教徒やユダヤ教徒を「啓典の民」として自治を認める融和政策をとった。帝国は比較的安定した経済成長を続け、地中海をはさんだヨーロッパ諸国に対しても軍事的な優位を保った。
オスマン帝国のメフメト2世がコンスタンティノープルを征服したとき、ジェノヴァ人の居留地だったガラタ地区に住む非ムスリムに対して、次のような保護誓約書が付与された。オスマン帝国は、ジェノヴァ人の商業活動を保護し、その信仰も認めたのだ。
その後、ヨーロッパ諸国がオスマン帝国で通商する権利を求めると、皇帝は領事裁判権などの特権(カピチュレーション)をフランスをはじめいくつかの西欧諸国に与えた。
オスマン帝国から17世紀にヨーロッパ諸都市に広まったものにコーヒーがある。原産地はエチオピアで、15世紀にイエメンで飲まれていたものだが、ヨーロッパ諸国で需要が高まると、18世紀前半にブラジルやカリブ海地域のプランテーションで生産されるようになった。
だが、17世紀末にヨーロッパ諸国に多くの領土を割譲すると、徐々に領土を失っていき、18世紀には地方の有力者による支配が強まり、中央政府の支配が弱まった。
同じく西アジアのイランでは16世紀後半にサファヴィー朝が最盛期を迎えた。
イスラーム教のシーア派を国教とし、首都イスファハーンは「世界の半分」と呼ばれるほど繁栄した。
生糸などの工業製品を輸出し、インドやアジア諸国との間に通商関係、ヨーロッパ諸国とも外交・通称関係を結んだ。
その後、イランではナーディル=シャー(1688〜1747)がアフシャール朝を建国し、一時的にアフガニスタン方面にまで支配を拡大。
その後、テヘランを首都とするガージャール朝がおこっている。
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■18世紀アジア諸地域間の経済的な結びつき
東アジアでは、17世紀半ばに明清交替が起き、政治的な混乱によって沿岸部の交易は停滞した。
しかし、17世紀末の清による海禁が解除されたことで、これまで規制されていた東シナ海と南シナ海のあいだの交易がさかんになった。
清では人口が増加したことで、米の受容が高まると、東南アジアの大陸部からさかんに米が輸出されるようになった。通貨としてはこれまでの銀だけではなく、日本の銅や東南アジアの錫が流通するようになった。それだけ少額取引がたくさんおこなわれるようになったからだ。
これらの貿易の担い手として中国人商人が活躍し、商人や労働者として東南アジアや清に移住する者が出てきたため、現在にまでつづく華人社会が東南アジアにつくられていった。
華人たちは海外に移住すると、独自の居住区をつくった。これを中華街という。
関帝廟は、華人の商工業者たちの信仰する商業神・関羽をまつるものだ。
インドではムガル帝国が経済的に成長したため、|更紗《さらさ》やキャラコとよばれる綿織物の生産が増大した。ヨーロッパ諸国や日本だけでなく、アフリカの人々や奴隷の衣服としての受容があった。これらの商品は、ムスリム商人、ユダヤ商人、アルメニア商人などによって各地に運ばれた。とくにアルメニア人は、オスマン帝国やサファヴィー朝のもとで商人として交易活動に従事し、西ヨーロッパから東南アジア、内陸アジアにかけての広い範囲で活躍した。
ヨーロッパ諸国は、アジア・ヨーロッパ間だけでなく、豊かなアジアの貿易に参加しようとしていく。
オランダでは1602年に連合東インド会社が設立され、先に足を踏み入れていたポルトガル王国とイギリスを追い出して、鎖国していたに日本との貿易も認められた。
拠点を築いたバタヴィア(現在のジャカルタ)を本拠地においたオランダは、アジア各地を結ぶ活発な貿易ルートに参入し、中継貿易によって利益を築いた。
しかし17世紀末以降になると、インドに拠点を置くイギリスとフランスに、アジア域内の貿易の地位を奪われるようになった。