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新科目「歴史総合」をよむ 1-2-2. 結びつくアジア諸地域

1-2-2.結び付くアジア諸地域


物の交流

祇園祭の月鉾

 

 京都祇園祭ぎおんまつり山鉾やまぼこの一つに「月鉾つきほこ」がある。
 この山鉾をよく見ると、側面に18世紀トルコでつくられたオスマン帝国産のアナトリア絨毯じゅうたんが用いられていることがわかる。
 日本の伝統的な祭りにも、遠く離れたアジアのモノが隠されているのだ。

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鉾頭に新月型(みかづき)をつけているので、この名で呼ばれる。 
真木のなかほどの「天王座」には月読尊を祀る。古い鉾頭と天王の持つ櫂には「元亀4年(1573)6月吉日大錺屋勘右衛門」の刻銘がある。また正徳4年(1714)の鉾頭もあるが昭和56年から田辺勇蔵氏寄進の18金製の鉾頭にかえている。屋根裏の金地彩色草花図は天明4年(1784)円山応挙(1733~95)の筆。天井の金地著彩源氏五十四帖扇面散図は天保6年(1835)に町内の住人岩城九右衛門の筆。破風蟇股の彫刻は左甚五郎の作と伝えられる立派なものである。軒桁貝尽しの錺金具は松村景文(1779~1843)の下絵、四本柱の錺金具、破風飾の金具などはいずれも華麗なもので山鉾のなかでも最高のものである。天水引の霊獣図刺繍は天保6年(1835)円山応震の下絵である。前懸、後懸は華麗なインド絨毯、胴懸はインドやトルコの絨毯を用いており、北面の「中東蓮花葉文様」は平成22年(2010)に、南面の「幾何菱文様」は平成23年(2011)に復元新調された。近年下水引は皆川月華作の花鳥図に、見送も同作の湖畔黎明図にかえている。また、平成12年(2000)には前懸のインド絨毯も復元された。
(出典:公益財団法人祇園祭山鉾連合会ウェブサイト)

陶磁器

 また、オスマン帝国の王宮トプカプ宮殿には、中国の陶磁器のコレクションがあり、日用品としても幅広く使われていた。

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 このように、18世紀以前のアジア諸国は、モノを通じて密接にむすびついていたのだ。

資料:住司憲史「絵画資料を読み解くための展開方法―中国産陶磁器の取引を描いた絵画(トプカプ宮殿蔵)」『高等学校 世界史のしおり』(2009年4月号)、帝国書院


桟留さんとめ

 もうひとつ、江戸時代の日本で大流行したインドから到来した縦縞の木綿の着物「桟留さんとめ」についても紹介しておこう。

インド産の織物が北西ヨーロッパへ大量に輸入され、社会問題となっていた同じ一七~一八世紀には、日本へもインド産の織物が相当な量輸入されていた。重松伸司氏の『マドラス物語』や石田千尋氏の『日蘭貿易の史的研究』を参考に、そのあらましをまとめておこう。  インドの綿織物は、すでに一六世紀にポルトガル人によって日本に持ち込まれており、一七世紀に彼らの日本への渡航が禁じられて以後は、華人とオランダ人がこれにかわった。  華人やオランダ人が運んできたインドの織物には平織で縞柄のものが多く、これらは江戸で唐桟、上方で奥嶋と総称された。南東部のコロマンデル海岸産のものが多かったが、ベンガル産、北西部のグジャラート産のものも見られた。特に人気のあったのが、コロマンデル海岸産の桟留縞と呼ばれる織物で、これは今日のチェンナイ(マドラス)の南にあるサントメという地名に由来した名である。桟留縞の基本的な色調は、藍、白、薄茶、濃茶で、これらを組み合わせた縞柄は斬新で、異国情緒に満ちたものだった。色の鮮やかさや柄のユニークさ、保温や肌ざわりのよさといった点で、一五世紀末から一六世紀に始まった日本の綿業では太刀打ちできなかった。  奥嶋の名がオランダ東インド会社による将軍への献上品としてはじめて記録されるのは、一六三八年のことである。ちょうど徳川政権がポルトガル人の締め出しを考慮している時で、オランダ人は将軍をはじめ政権の有力者に贈り物攻勢をかけ、会社の対日本貿易を有利に導こうとしていたのである。その後一七世紀を通じて、オランダ東インド会社による対日本貿易のもっとも主要な商品は中国産の生糸だったが、一八世紀になると奥嶋もしばしば長崎にもたらされた。オランダ側の史料を見ると、奥嶋はギンガムという織物を意味していたことがわかる。  一八世紀の後半までは、奥嶋=唐桟は舶来の高価な織物であり、とりわけ江戸では、縦縞の着物が「粋」を体現するものとして珍重された。唐桟の着物を着ることができたのは当初は、将軍や幕臣以外には富裕な商人と遊女くらいだった。遊女や若衆がしばしば身につけている縦縞の着物はインド産の織物で仕立てられたのだと知って浮世絵を見ると、また興味深いだろう。西のヨーロッパと東の日本で、ほぼ同じ頃にインド産織物のブームが起き、人々がインドの織物を仕立てた服を着て町を歩いていたのである。

ヨーロッパで起こった模倣という現象は、日本でも生じていた。唐桟や奥嶋の人気を見て、そのコピーを大量に製造する業者が現れたのである。江戸周辺の川越や館山がその主な産地だった。国産の綿糸を用いていたため、糸の細さや布のやわらかさ、柄の密度などではかなわなかったものの、それぞれ川唐(川越唐桟の略)、館山唐桟として知られ、とりわけ舶来の高級品を手に入れることができない人々の間では人気が高かった。お富与三郎で知られる歌舞伎狂言「与話情浮名横櫛」の源氏店の場で、「久しぶりだなあ」とお富に詰め寄る与三郎はいなせな縦縞の着物姿である。あれは物語の発端となる木更津に近い館山産の唐桟なのかもしれない。ヨーロッパとの違いは、紡績機や蒸気機関の発明がなく、模倣のレベルにとどまっていたという点である。  もう一つ別の種類のインド産の織物として更紗をあげることができる。これはオランダ側の史料では、chitsと記されており、イギリスでチンツ(chintz)と呼ばれたのと同じ織物である。コロマンデル海岸やベンガル各地、スーラトなどで生産された更紗が、一七~一八世紀を通じて相当な量輸入された。江戸時代の初期には、陣羽織や小袖、帯、茶道具、祇園祭の装飾品などに使われ、中期以後は、風呂敷や煙草入れなどの袋物、下着、襦袢や着物の裏地などに用いられた。

出典:羽田正『東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫より



 桟留は、江戸中期に町人の女性たちの間で流行し、やがて国産化が図られるようになった。

出典:同上

神奈川県世界史教材研究会「桟留から世界を見る-世界に大きな影響を与えたインド綿織物」『世界史のしおり2003年9月号』帝国書院、2003年も参照。

更紗とは、木綿の布地に茜や藍などで染め上げた染織品で、日本では16世紀以降オランダを通じてもたらされたインド更紗を意味します。18世紀後期から19世紀には、ヨーロッパ製や日本製の更紗も含まれるようになったようです。
本作は、江戸時代に輸入されたと推定されるインド更紗、オランダ更紗、唐桟、和更紗など大小様々約240枚の裂(きれ)を縫い合わせた男性用の下着です。上部には浅葱地、及び白地に茜色で彩られた葉鶏頭などの草花文を中心とする意匠を施した比較的大きさのある裂が占めています。これらはインド更紗と考えられています。 

更紗縫合下着、文化遺産オンライン(文化庁)、https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/448930


実際にアジア諸国の間に、どのような交流が生まれていたのか、具体的に見てみることにしよう。


***


■アジアの諸国家の繁栄と動揺のはじまり

 18世紀のアジア各地では、諸国家のもとで繁栄がみられた。
 しかし、同時に動揺もはじまっていた。


東南アジア

出典:鶴見良行『マングローブの沼地で―東南アジア島嶼文化論』朝日新聞社、1984年、7-8頁


 17世紀までの東南アジアでは、島嶼部とうしょぶで、アチェ王国やマタラム王国などのイスラーム教王国が、モルッカ(マルク)諸島のコショウ、ナツメグ、クローブなどの香料の取引によって栄えた。

 しかし、17世紀後半になるとヨーロッパでの香辛料価格が低下し、18世紀には衰退する。

 内陸部でも、米の輸出や中継貿易で栄えていたアユタヤ朝(1351~1767)が、ビルマのコンバウン朝の攻撃によって滅び、1782年には現在まで続くラタナコーシン(バンコク)朝(1782~)がひらかれた。

南アジア

 南アジアでは16世紀以来、イスラーム王朝であるムガル帝国(1526~1858)が南インドをのぞく広い範囲を支配していた。王朝はイスラーム教徒だったが、住民の多数を占めるヒンドゥー教徒との融和をはかったため、社会が安定し、インド=イスラーム文化が花開いた。
 17世紀後半にはムガル帝国の領域は最大となったが、経済発展が進むとしだいに地方でも国家が台頭した。18世紀に入ると各地方勢力が自立して抗争を繰り広げ、帝国の解体がすすんでいくことになった。



西アジア

 西アジアでは、16世紀前半に最盛期をむかえたオスマン帝国(1299~1922)がイスラームを支配理念にかかげ、キリスト教徒やユダヤ教徒を「啓典の民」として自治を認める融和政策をとった。帝国は比較的安定した経済成長を続け、地中海をはさんだヨーロッパ諸国に対しても軍事的な優位を保った。
 オスマン帝国のメフメト2世がコンスタンティノープルを征服したとき、ジェノヴァ人の居留地だったガラタ地区に住む非ムスリムに対して、次のような保護誓約書が付与された。オスマン帝国は、ジェノヴァ人の商業活動を保護し、その信仰も認めたのだ。

史料 メフメト2世の保護誓約書(1453年)
朕は次のように宣誓する。…いまガラタ(ジェノヴァ人の居留地)の人々と貴族たちは、…朕に、下僕となることへの服従を示した。朕もまた次のことを受け入れた。彼ら自身の慣習と規則を実行すべし。…彼らも、朕の他の国土とおなじく、商売をすべし。海上・陸上を旅行すべし。何者も妨害し、迷惑をかけぬように。〔特別な税を〕免除されるべし。朕もまた彼らにイスラーム法上の人頭税を課そう。彼らは、他の〔非ムスリムの〕者たちとおなじく、年ごとに支払うべし。そして朕もまた、朕の他の国土とおなじく、この者たちの上から朕の貴き眼差しをそらさず、保護しよう。また彼らの教会は、彼らの手中にあるべし。彼らの儀礼に従って祈祷すべし。しかし鐘を打ち鳴らさないように。そして朕は、彼らの教会を奪ってモスクとはすまい。そして彼らもまた新しい教会を建てないように。そしてジェノヴァの商人たちは、海上・陸上をつうじて商売し、往来すべし。関税を慣習にしたがって支払うべし。彼らに対して何人も侵害しないように。

歴史学研究会編『世界史史料2』一部改変(実教出版『世界史探究』

 その後、ヨーロッパ諸国がオスマン帝国で通商する権利を求めると、皇帝は領事裁判権などの特権(カピチュレーション)をフランスをはじめいくつかの西欧諸国に与えた。

ルイ14世の覇権した大使がオスマン帝国のスルタンであったアフメト3世に謁見しているところ
(パブリックドメイン、https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_ambassadors_of_France_to_the_Ottoman_Empire#/media/File:Jean-Baptiste_van_Mour_005.jpg)。ヨーロッパ諸国の使節・商人は、貿易の条件をよくするために、貢物をスルタンに贈った。

 オスマン帝国から17世紀にヨーロッパ諸都市に広まったものにコーヒーがある。原産地はエチオピアで、15世紀にイエメンで飲まれていたものだが、ヨーロッパ諸国で需要が高まると、18世紀前半にブラジルやカリブ海地域のプランテーションで生産されるようになった。

コーヒーを飲むムスリムたち(16世紀のオスマン帝国の細密画)
(パブリックドメイン、https://en.wikipedia.org/wiki/Ottoman_coffeehouse#/media/File:MeddahOttomman.png)




 だが、17世紀末にヨーロッパ諸国に多くの領土を割譲すると、徐々に領土を失っていき、18世紀には地方の有力者による支配が強まり、中央政府の支配が弱まった。

 同じく西アジアのイランでは16世紀後半にサファヴィー朝が最盛期を迎えた。
イスラーム教のシーア派を国教とし、首都イスファハーンは「世界の半分」と呼ばれるほど繁栄した。

史料 パリ生まれの宝石商人ジャン・シャルダンの旅行記(17世紀後半)

ペルシア人はこの町[イスファハーンのこと]の大きさをうまく言い表すために、こんな一口話を作っている。ある商人の奴隷が稼ぎを着服して、持ち物を洗いざらい持って逃げ去り、イスファハーンの町のいちばん遠くの地区に身を潜めると、そこで主人と同じ商売の店を初めたが、元の主人が何とか手がかりをつかむのに10年かかった、という話。この大都会には、キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラーム教徒、異教徒[インドの宗教を信仰する人々]、拝火教徒といったあらゆる宗教を信仰する住民がいる。またここには、世界中から来た貿易商が集まっている。ここはまた、全東方世界全体に、とりわけインドに学問が広がっていく。私の覚え書きには、イスファハーンの市壁内には、モスク162、学院48、隊商宿1802、浴場273、墓地12があると記されている。

(出典:歴史学研究会編『世界史史料2』より)



 生糸などの工業製品を輸出し、インドやアジア諸国との間に通商関係、ヨーロッパ諸国とも外交・通称関係を結んだ。
 
 その後、イランではナーディル=シャー(1688〜1747)がアフシャール朝を建国し、一時的にアフガニスタン方面にまで支配を拡大。
 その後、テヘランを首都とするガージャール朝がおこっている。

***


■18世紀アジア諸地域間の経済的な結びつき


 東アジアでは、17世紀半ばに明清交替みんしんこうたいが起き、政治的な混乱によって沿岸部の交易は停滞した。


 しかし、17世紀末の清による海禁が解除されたことで、これまで規制されていた東シナ海と南シナ海のあいだの交易がさかんになった。


 清では人口が増加したことで、米の受容が高まると、東南アジアの大陸部からさかんに米が輸出されるようになった。通貨としてはこれまでの銀だけではなく、日本の銅や東南アジアの錫が流通するようになった。それだけ少額取引がたくさんおこなわれるようになったからだ。
 これらの貿易の担い手として中国人商人が活躍し、商人や労働者として東南アジアや清に移住する者が出てきたため、現在にまでつづく華人かじん社会が東南アジアにつくられていった。

 華人たちは海外に移住すると、独自の居住区をつくった。これを中華街という。
 関帝廟かんていびょうは、華人の商工業者たちの信仰する商業神・関羽かんうをまつるものだ。

横浜中華街の関帝廟(CC 表示-継承 4.0 File:Yokohama Chinatown Emperor Guan's Shrine Halle Innen 6.jpg by zairon, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E9%96%A2%E5%B8%9D%E5%BB%9F#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Yokohama_Chinatown_Emperor_Guan's_Shrine_Halle_Innen_6.jpg)


 インドではムガル帝国が経済的に成長したため、|更紗《さらさ》やキャラコとよばれる綿織物の生産が増大した。ヨーロッパ諸国や日本だけでなく、アフリカの人々や奴隷の衣服としての受容があった。これらの商品は、ムスリム商人、ユダヤ商人、アルメニア商人などによって各地に運ばれた。とくにアルメニア人は、オスマン帝国やサファヴィー朝のもとで商人として交易活動に従事し、西ヨーロッパから東南アジア、内陸アジアにかけての広い範囲で活躍した。


右からユダヤ人、ギリシア正教徒、アルメニア正教徒の大商人(「トゥッジャール」とよばれ、活動が保護された)。林佳世子『オスマン帝国の時代』山川出版社、1997年、78頁。


 ヨーロッパ諸国は、アジア・ヨーロッパ間だけでなく、豊かなアジアの貿易に参加しようとしていく。
 オランダでは1602年に連合東インド会社が設立され、先に足を踏み入れていたポルトガル王国とイギリスを追い出して、鎖国していたに日本との貿易も認められた。
 拠点を築いたバタヴィア(現在のジャカルタ)を本拠地においたオランダは、アジア各地を結ぶ活発な貿易ルートに参入し、中継貿易によって利益を築いた。
 しかし17世紀末以降になると、インドに拠点を置くイギリスとフランスに、アジア域内の貿易の地位を奪われるようになった。



資料 ジャガイモの伝播経路

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