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新科目「歴史総合」を読む 1-2-1. 18世紀の東アジア

1-2-1.18世紀の東アジア


1-2-1-1. 18世紀の中国


■清の国際関係

 1644年、女真(満洲まんしゅう)人の王朝である清が中国に建国されると、周辺諸国は新しい王朝に対してどのような態度でのぞむか、対応を迫られた。

 清は、伝統的な華夷秩序を意識し、周辺諸国からの朝貢ちょうこうを受け入れた。しかし、周辺のすべての国々に対して正式に「冊封さくほう」を与えることにはこだわらず、日本、東南アジアの島嶼部、イギリスなどのヨーロッパ諸国との間には朝貢関係は結ばれず、商人同士の貿易(互市ごし)が認められた。
 結果として、清の冊封を正式に受けたのは、朝鮮王朝や琉球王国など数カ国にとどまった。

 17世紀末に国内の平定が終わると、海禁(海上封鎖)はとかれ、貿易が活発に行われるようになった。
 たとえば日本には、中国から冊封を受けることなく、長崎で貿易をおこなうことが認められている。もしも無理やり冊封させようとしたら、戦争に発展するおそれもあっただろう。清の柔軟な姿勢のおかげで、17世紀後半の東アジアは、同時期のヨーロッパと比べて戦争の少ないエリアとなっていくこととなる。

 しかし、18世紀半ばには、キリスト教の布教禁止や治安維持のためにヨーロッパ各国の東インド会社、アルメニア商人、イスラーム商人との貿易の場を広州こうしゅうに限定するようになった。

資料 1728年に、広東省・広西省から皇帝に出された提案書の一部
「日本に渡航した経験を持つ中国人商人の話によると、中国商船および諸外国の貿易船舶は、日本に到着するとすべて特に設けられた一所に居住し、外出することもままなりません。彼の国内の人間・船舶も、情報が漏れることを避けるために、国境から出ることを禁止されています。日本では、キリスト教だけは不倶戴天の敵で、通称も行っておりません。」

 ヨーロッパ諸国は中国産の茶、生糸を大量に仕入れようとしたが、自由に貿易ができないことに不満をつのらせていくこととなった。

 特定の場所に商館を設置し、そこに外国人を滞在させて貿易をおこなうしくみは、18世紀の中国(資料3)のみならず朝鮮(資料2)、日本(資料1)でも見られた。

資料1 長崎の出島と唐人屋敷
1635年(寛永12年)から中国貿易は長崎一港に制限されており、来航した唐人たちは長崎市中に散宿していましたが、貿易の制限に伴い密貿易の増加が問題となっていました。
幕府はこの密貿易への対策として、1688年(元禄元年)十善寺郷幕府御薬園の土地で唐人屋敷の建設に着手し、翌1689年(元禄2年)に完成しました。
広さは約9,400坪、現在の館内町のほぼ全域に及びます。周囲を練塀で囲み、その外側に水堀あるいは空堀を、さらに外周には一定の空地を確保し、竹垣で囲いました。
入口には門が二つあり、外側の大門の脇には番所が設けられ、無用の出入りを改めました。二の門は役人であってもみだりに入ることは許されず、大門と二の門の間に乙名部屋、大小通事部屋などが置かれていました。
内部には、長屋数十棟が建ち並んでいたといわれ、一度に2,000人前後の収容能力を持ち、それまで市中に雑居していた唐人たちはここに集め、居住させられました。
長崎奉行所の支配下に置かれ、管理は町年寄以下の地役人によって行われていました。輸入貨物は日本側で預かり、唐人たちは厳重なチェックを受けた後、ほんの手回り品のみで入館させられ、帰港の日までここで生活していました。
(長崎市「唐人屋敷の歴史」https://www.city.nagasaki.lg.jp/sumai/660000/669001/p006894.html)

資料2 釜山の倭館

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「18世紀の釜山浦草梁倭館図」(CC0、https://ja.wikipedia.org/wiki/倭館#/media/ファイル:초량왜관도_(Choryang_Waegwan_Landscape).jpg)


資料3 広州の商館

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広東のファクトリー(1805年〜1806年)(パブリック・ドメイン、https://ja.wikipedia.org/wiki/広東システム#/media/ファイル:View_of_Canton_factories.jpg)


 ここから海路でイギリスに向けて茶が輸出されていった。17世紀より輸出が始まり、イギリスでは当時高価であった砂糖を入れた紅茶として飲まれた。このことが、カリブ海周辺の奴隷制プランテーションを促すこととなった。

資料A 18世紀初めのイギリスの飲茶を描いた図

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Attributed to Johann Zoffany (German-born British painter, 1733-1810), A Family of Three at Tea, 1727

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Attributed to Johann Zoffany (German-born British painter, 1733-1810), A Family of Three at Tea, 1727

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Jean-Etienne Liotard (Swiss artist, 1702-1789) Still Life Tea Set, 1781-83

資料B 19世紀後半のマンチェスター近郊の女工の昼休みの様子を描いた図(左)、紅茶を受け皿で飲む貧しい女性たち(右)

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Q. 資料AとBとでは、18世紀と19世紀では、紅茶を飲む文化はどのような社会階層の人々に伝わっていったと考えられるか?


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清の統治体制

 満洲人は、もともと中国東北部において拡大していくなかで、モンゴル人と漢人を協力者として政権に取り組んでいた。中国本土を占領した後も、チベット人やトルキスタンのムスリムを支配に取り込んでいった。
 清の皇帝は、武芸を重んじる北方民族のリーダー、学問を重んじる中国王朝の皇帝、チベット仏教の支援者など、さまざまな側面をもちあわせ、大帝国をまとめあげようとした。

資料 「乾隆帝文殊菩薩画像けんりゅうていもんじゅぼさつがぞう」(乾隆年間)



「乾隆帝が創建したチベット仏教の寺院に伝わった仏画。極彩色の世界の中心に鎮座するのは、文殊菩薩に見立てられた乾隆帝。その台座にはチベット文字で、彼が文殊菩薩の化身であり、世界の支配者であると記されている。
 清朝ではチベット仏教が信仰され、乾隆帝の頃最高潮に達した。多くの寺院が建ち、教えが広まるとともに、チベットやモンゴルなど、同じ信仰を持つ国との融和も図られた。」

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清代の経済発展と停滞

 長江の中下流域では、海外向けに茶、生糸、綿布などが輸出向けに生産され、18世紀は空前の好景気をむかえていた。


資料 「姑蘇繁華図こそはんかず」(盛世滋生図)の一部(徐揚じょよう 筆)

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18世紀の江南地方の蘇州(姑蘇)を描いたもの。水上交通の要衝であったため、繁栄を極め、18世紀中ごろに人口50万人を数えた。


 とくに蘇州そしゅう(上記の図)や寧波ニンポーなどでは人口が増え、商業ルートが活性化した。

 また、四川しせん雲南うんなんなどの内陸の辺境地帯に人々が移動。
 さらに東南アジア方面への移民も増えていった。
 現在の東南アジアにいる中国系の人々(華僑かきょう、華人)のルーツはここにある。

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18世紀中国の開発と保全

 しかし、18世紀末になると、社会に弊害もあらわれるようになっていった。この頃の官僚・洪亮吉(こうりょうきつ)という人物による文章を読んでみよう。

Cited from Wikicommons File:洪亮吉.jpg(Public Domain)

資料
ある人は、何代か前にはまだ土地には開墾する余地があり、まだ家には空き部屋があった〔だから、人が増えても何とかなる〕と言うかもしれない。


しかし、そのようなことで増やせるのは2倍くらい、よくても4、5倍だろう。しかし、世帯・人口は10倍、20倍と増えるのだ


こうして、農地・住宅は常に過剰となる

ましてや、金持ちは1人で100人ぶんの広い家に住み、1世帯で100世帯ぶんの農地を持っているのだから、その他方で予想されるように、悪天候のなかで飢え凍えてのたれ死にする者も珍しくない。

(「意言」治平篇、『洪亮吉集』1冊、15頁)

この史料が出される18世紀の中国は、人口の激増期にあたる。17世紀に1億人台であった人口は、18世紀末には3億に達し、19世紀には4億を超えていた[★ 吉澤2020:21]。

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中国の人口の変遷(推計) Cited from wikicommons CC BY-SA 4.0 File:China population growth.svg

 なぜ18世紀にこれほどまで急激に人口がふえたのだろうか? 議論はいまだに続いているがが、その一因として、交易が活発化したこと、お金がたくさん供給されて需要が増大したこと、さらにそれに刺激されて生産が拡大したことが挙げられる[★岡本編2013:199頁]。

 18世紀の中国は、「盛世」(せいせい)と呼ばれる空前の繁栄を迎え、ヨーロッパ諸国には到底太刀打ちできない強大な権力と、活発な経済活動が展開されていた。 
 サトウキビの生産も盛んで、1750年の時点で中国はヨーロッパよりも多くの砂糖を消費していました[★ポメランツ2015:137]。
 また、長江下流域の一部の地域では北方の満洲(まんしゅう)からは肥料として大豆粕(だいずかす)をジャンク船で海上から運び込み、綿花を栽培し、綿系や綿布をつくる農民の手工業も広まっていた[★吉澤2010:22頁、岡本2013:199頁]。   
 17世紀後半以降、中国方面にも進出していたロシア帝国も、清からさかんに綿花や茶を輸入していた。ロシア語で厚手の綿花を「キタイカ」というのは「キタイ」(中国)が語源だし、ロシアのお茶文化のルーツもこの時期にさかのぼる(ロシアは清に対して、クロテンなどの毛皮を輸出していた)。

 同時期には、ヨーロッパ諸国でも農村での工業がさかんになっていたけれど、中国の長江下流域でも、一見すると同様の発展が見られていたのだ[★ケネス・ポメランツ2015]。

 そんな中、中国南部の福建や広東の商人の中には、「移住を禁止するきまり」をおかして東南アジアに移住し、現地で農村と国際マーケットを“接続”するネットワークをつくって富を築く者も現れた。現在の東南アジア経済界において華僑・華人の存在感が大きいのは、このとき以降の“東南アジア移住の流れ“にルーツがある。

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 18世紀には中国の人口が急増し、3億人の大台を突破。その背景には、政治の安定だけでなく、アメリカ大陸から伝わったトウモロコシサツマイモの栽培が飢饉を救ったことがった。山地でも栽培可能で、これまでの平地に代わり山にも農地が広がったのだ。

「民に甘藷の栽培を勧める諭」 陳弘謀(乾隆10年(1745))

 「〔私が〕陝西省に赴任したときには、この地にはサツマイモは存在せず、陝西の民もまたサツマイモが日々の食の助けとなるばかりでなく、栽培も簡単に行えることを知らなかった。......サツマイモに取り組むものを奨励するが、試さないものを詰問する必要はない。」
(『培遠堂偶存稿』文檄巻 22、中林広一訳。上掲、395-396 頁)

 しかし、経済がいくらさかんになっても、一人当たりの土地は不足する。そこで人々は土地や仕事を求め、これまであまり開拓されていなかった土地、とりわけ山地(江西、湖北、湖南、四川)や辺境地帯への移住者が増大した(下図[★古田2018])。
 移住者たちは粗末なバラックを建てて暮らし、自分たちが食べるためにトウモロコシを栽培し、タバコサトウキビを栽培したり、森を伐採して木材をつくったり、それを燃料にして鉄をつくるなどしてひと儲けをねった[★上田1994:199頁]。

 しかし斜面でトウモロコシを無計画に栽培したことで、森林は破壊され、土壌の流出をもたらし、災害も多発する。1788年に黄山周辺で5月に降り始めた梅雨は、7月まで降り止むことがなく、記録によれば祁門県(きもんけん)は未曾有の大洪水に見舞われた。
 この地域の宗族の史料をしらべた歴史学者の上田信さんは、この地をおそった洪水をうたった詩篇に付された解説文を紹介している。


【資料】「洪水嘆」の解説
洪水の由来するところを推し量ってみるに、山を開墾したことがこの害毒を引き起こした。祁門県の山々は、もとは竹木を産するところであった。ところが貪欲な子弟たちが、県外から人を招き入れ山谷を開削し、利益を図ってトウモロコシを植えさせた。

山林や山麓に蔓延し、草木の根を根こそぎに掘り起こし、まず山を禿げ山にしてしまった。

竜や蛇のすみかの洞窟は安らかではなくなり、蛟(みずち)や蜃(はまぐり)は、もはや落ち着いてはいられない。雨が降るたびに、すぐに流出して留まることがなく、水は土砂を巻き込んで勢いをつけ、田畑を押し流す。山からわき上がる水をして、陸の上に海を造らせる

このように大きな損害は、百年を費やしても回復させることはできない。

ああ、悪例の発端を開いたものの罪は、万死をもってしても贖うことはできない。」[★上田信1998:202−203]

 いまとなっては当時の惨状を知る人は、当然誰一人としていないが、この解説からは、当時の人々が洪水を「人災」とみなしていたことがわかるだろう。

 なお、人口の増加ペースが激しくて土地の開発が追いつかず、結果的に土地のない農民も多数現れた。貧しい農民たちは税金を逃れようとして、当局の調査の目をかいくぐって“闇社会”に潜り込み、余計に治安が悪くなる始末。こうした貧しい人々は自分たちの生活を守るために様々な「まとまり」を作っていった。貧民の支持を受けた宗教的なグループは、のちの太平天国のように、大反乱を起こす母体となっていく。

 こうした状況に対する、清朝の政府の対応は、どのようなものだったのだろうか。乾隆帝が四川省への移民について触れた上諭を見てみよう。

「これら無業の貧民が移住していくのは、四川が地広くして糧[=食糧]多きがため、生計の手段を求めてのことに過ぎない。

もし四川に耕すべき土地が乏しくなり、自活が難しいとなれば、勢いとして禁じずとも移住は自ら[=ひとりでに]止むであろう。

しかしもし四川の糧価が安く、働いて賃金の蓄えがなるとするならば、生計の趨くところにして一概に阻絶[=さえぎりたちきる]することができようか。」 

(中国第一歴史档案館編『乾隆上諭』第 5 冊、档案出版社、1991 年。山田賢「地方社会と宗教 反乱―18 世紀中国の光と影」『岩波講座世界史 13―東アジア・東南アジア伝統社会の形成』 1998 年、274 頁)

 このように、対応は消極的なものだった。中国の社会では、中央政府と地方との “距離” には大きな開きがあったのだ[★岡本2013:27]。
 こうした人口増加を憂慮したのが、冒頭の史料を著した洪亮吉だ。彼がその主張を公にした5年後、イギリスで「人口の抑制」を唱えたのは、『人口論』(初版1798年)を著した経済学者ロバート・マルサスだった。その内容は洪亮吉の唱えた説とそっくりで、先に唱えた洪のほうは「中国のマルサス」とも呼ばれる。

 18世紀のイギリスと中国では、開発のもたらした生態系の限界と人口増加が問題となり、「なんとかしなければ大変なことになる」という危機がともに表面化していたわけなのだ。

・上田信(1994)『森と緑の中国史 エコロジカル-ヒストリーの試み』岩波書店
・岡本隆司(2013)『中国経済史』名古屋大学出版会
・岸本美緒(1998)『東アジアの「近世」』山川出版社
・古田和子(2018)「アジア経済史から見た中国」『三田学会雑誌』Vol.110 No.4「慶應義塾経済学会会長講演」 2018 年、361-385 頁
・吉澤誠一郎(2010)『清朝と近代世界—19世紀』(シリーズ中国近現代史①)岩波書店
・ポメランツ,ケネス、川北稔・監訳(2015)『大分岐』名古屋大学出版会


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1−2−1−2. 18世紀の日本


■18世紀の日本の政治

 江戸時代(1603〜1867)の日本の政治の実権は、徳川将軍(幕府ばくふ)にあった( なお、徳川将軍は「公儀」と呼ばれていた)。

 全国は(1)幕府の直轄領ちょっかつりょうと、(2)二百数十ある大名だいみょうが内政を行うはん(領国)に分かれ、幕府の将軍は、天皇の権威をよりどころにして軍事指揮権をにぎっていた。

 古代からの王権である天皇(朝廷)は、江戸時代においては、将軍や大名に官職を与えたり、祭祀さいしをおこなっていたものの、禁中並公家諸法度による制限を受け、政治的実権は幕府に握られていた。




■18世紀の日本の経済

 18世紀の清は、開放的な対外政策をとっていた。 それに比べ江戸時代の日本では、17世紀以来、キリスト教の布教や外国人の入国、日本人の出入国が禁じられていた。そのためこれを、19世紀につくられた言葉を借りて「鎖国」と呼ぶ(つまり、それ以前に「鎖国」という言葉はない)。

 しかし、他国との接点がゼロだったわけではない。限られた場所で朝鮮王朝、琉球王国、アイヌとの貿易はおこなわれていた。
 長崎、対馬、薩摩、松前の四か所は、「四つの口」と呼ばれる。

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出典:荒野 泰典「「四つの口」と長崎貿易――近世日本の国際関係再考のために」https://www.nippon.com/ja/features/c00104/

人や物の出入り口のことを当時は一般に「口(くち)」と呼び、その土地の名前を付けて、例えば「長崎口」のように呼んだ。私がこれら4か所を「四つの口」と名づけ、それらのいずれも近世日本の国際関係の一環として、有機的かつ構造的な関連性においてとらえることを提唱したのは、1978年のことだった。なお、「四つの口」の国際関係は、1つの特権都市長崎と3つの大名(琉球=薩摩島津氏、朝鮮=対馬宗氏、蝦夷地=松前氏)が独占的に管轄し、徳川将軍がそれらの全体を統括した。
長崎と3大名は、それぞれが担当する外国や「異域」との関係を独占的に請け負い、その関係から得られる「所務(しょむ)」(貿易などの諸利益)を独占することを許されていた。将軍と長崎および3大名との間には、「御恩(ごおん)」(恩恵)と「奉公(ほうこう)」(奉仕)という封建的主従制の関係が成立しており、その関係を通じて、それぞれの「口」での国際関係が管理・運営されていた。この場合、「貿易」=「恩恵」と単純化して考えがちだが、実は、貿易には日本の社会などが必要とするものを調達するという「役」(役割・勤め)の面もあり、貿易不調の場合には幕府からけん責された場合もある。長崎および3つの大名は、それぞれの国際関係を「軍役」として担当し、それらは「押えの役」と呼ばれた。たとえば、対馬宗氏の場合は朝鮮押えの役、というように。それぞれの「口」での「所務」の独占は、そのための経済基盤として許されたものであり、他の大名の知行に相当するものと考えられていた。ただ、将軍の代理である長崎奉行の駐在地長崎が、国際関係全般について扱う権限を持たされていたのに対して、他の3口は、それぞれが担当する国や地域との関係しか許されていなかった。
……
長崎口の唐・オランダ人との関係は、朝鮮・琉球の場合とは違っていた。幕府はその「口」における関係には直接関わらず、彼ら(唐・オランダ人)と長崎町人との、現代風に言えば、民間レベルの関係と位置づけていた。オランダ人については、1630年代からオランダ商館長が毎年江戸に参府することが義務づけられた。それは、長崎での貿易を許されているという恩恵に対するお礼というタテマエで、江戸・大坂などの幕府直轄都市の代表(町年寄)たちが毎年将軍に対して行う年頭の儀礼と同等の位置づけだった。
……
「蝦夷地」のアイヌからは、徳川将軍への使節の派遣はなかった。その代わりに、アイヌの代表が毎年松前に出向いて藩主に挨拶をする儀礼(ウイマム)と、将軍の代替わりに派遣される巡検使に対して和人地と蝦夷地の境界上で行う「オムシャ」という服属儀礼がおこなわれた。これは、蝦夷地が「無主(むしゅ)の地」と位置づけられていたことによるが、「無主」とは、住民がいないということではなく、その地に住む人々が独自の政治権力をもたないという意味であり、その地域の住民は、(この場合は、幕府=松前藩による)「撫育(ぶいく)」(守り育むこと)の対象とされ、上述の儀礼は、その恩恵に対するお礼の意味合いをもっていた。……


■アイヌ・モシリ

 ・現在の青森県では松前藩→蝦夷地のアイヌとの交易。
 蝦夷地とは、蝦夷島(現在の北海道本島)、カラフト、千島列島のこと。アイヌ語ではアイヌ・モシリ(アイヌの国)という。


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(出典:野田サトル『ゴールデンカムイ』2巻12話、集英社、2015年)


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アイヌの信仰儀礼であるイオマンテに、日本人(和人)の役人が招かれたところを描いた絵(木村巴江筆)
(出典:北海道大学北方資料データベース、https://www2.lib.hokudai.ac.jp/cgi-bin/hoppodb/record.cgi?id=0D023640000000000。パブリック・ドメイン)


■朝鮮王朝
 ・対馬つしま藩→朝鮮との交易

 1392年に李成桂によって建国された朝鮮王朝(正式な国号は大朝鮮国)。
 豊臣秀吉による文禄ぶんろく慶長けいちょうの役の後、日本と朝鮮王朝の国交は断絶していた。
 しかし、幕府は、日朝・日明貿易の実権が大名に移ることをおそれ、西日本の大名よりも先に朝鮮と国交を結ぼうとした。朝鮮王朝も、日本の動向をつかみ、貿易の再開や北方における女真の台頭といった安全保障の観点から、日本との関係を再開したい事情があった。
 そこで幕府は、17世紀初めに対馬藩を介して朝鮮との国交と貿易を復活させた。日本と朝鮮の関係は対等だったが、派遣された朝鮮通信使の行列は、幕府の権威を日本各地の人々に知らせるイベントとしても利用された。日本(対馬藩)側も朝鮮に使節を派遣していた。

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狩野安信『朝鮮通信使』大英博物館蔵。1655年・承応4年・孝宗6年
(CC 表示-継承 3.0、
File:KoreanEmbassy1655KanoTounYasunobu.jpg、https://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮通信使#/media/ファイル:KoreanEmbassy1655KanoTounYasunobu.jpg)



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東萊府とうらいふ使接倭使図」(一部)
日本側の使節が、朝鮮王の象徴「殿牌チョンぺ」に拝礼している場面




■琉球王国


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天保3(1832)年の謝恩使(琉球使節)。
(パブリック・ドメイン)
Q. 琉球の使節が、中国風の衣装や飾りをしているのは、なぜだろうか?


 ・薩摩さつま藩→琉球との交易。琉球から幕府には、慶賀使や謝恩使が派遣され、幕府はこれを朝貢としてとらえ、薩摩藩にとっては「異国を支配する藩」という権威高揚の目的もあった。
 琉球王国にとっては、中国の清に服属していることを示す意味合いもあった。




 また、幕府の管理下に置かれた長崎では、中国・オランダとの貿易がおこなわれていた。特に日本と中国・朝鮮との通商関係は緊密だ。幕府はオランダ商館長からの「オランダ風説書ふうせつがき」により、世界情勢についての情報も得ていた。


 日本の銀は、朝鮮の人参、中国の生糸と交換される。朝鮮は日本の銀を、清に納める。また、日本の銅は、中国の銅銭の材料となった。日本にとって銀と銅は重要な輸出品だったのだ。

 しかし、17世紀末に日本銀・日本銅の生産高が急落すると、幕府はまず金銀の流出を防ぎ、貿易額を制限するとともに、蝦夷地でとれた北の海の海産物輸出が省れいされるようになった。18世紀以降になると生糸、砂糖、人参の国産化も進んでいった。 
 こうして18世紀半ばから19世紀末にかけて、蝦夷地~日本海沿岸~瀬戸内~大坂を結ぶ西廻にしまわりの商船(北前船きたまえぶね)などの遠隔地開運が発達した。
 19世紀に入ると、織物おりものや製糸などの分野で農村工業が発達し、地域分業や交易が活発化し経済が成長し、人口が再び増加することになる。

 蝦夷地のほうには、日用品(米、綿、反物たんもの、たばこ、稲わら)、嗜好品、各地の特産品が移動。大坂方面には蝦夷地の海産物(ニシン、サケ、コンブなど)が輸送された。北前船の積み荷は、船頭が各地で買い取ってのせるものであったから、その時々のマーケットに合わせた船頭の才覚がものを言った。積み荷のニシン、サケ、マスからは乄粕しめかすと呼ばれる農業用の肥料がつくられたほか、ニシン、サケ、コンブ、ナマコ、アワビなどは、長崎から鹿児島や琉球に輸出され、中華食材として中国に輸出されていた(いりこ・ふかひれ・干し鮑は、俵につめられていたことから、俵物たわらものという)。一方、朝鮮人参、生糸など、輸入品の国産化も進められ、各地で絹織物の産地も現れる。

資料 蝦夷《えぞ》地での昆布採取の様子(『日本山海図会』より)


 江戸は京都と大坂とならぶ巨大な都市となり、三都は幕府により直轄支配された。京都には朝廷、寺社の本山が集中しており、手工業と文化の中心地として新たに繁栄していった。大阪の諸大名が年貢米や特産物を領国から輸送して売却するため、蔵屋敷が置かれていた大坂では、問屋や両替商が地方の商人や生産者に前貸しし、商品を押さえて全国的な流通網をつくりあげた。大坂・江戸と日本各地を結ぶ舟運、流通、三都を結ぶ金融・通信が発達したのはこのためである。諸大名は売却益で幕府が鋳造させた金属貨幣を獲得し、江戸屋敷での支出を賄った。

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■18世紀の日中比較

 このように商品経済が発達すればするほど、民衆の生活は貨幣経済に巻き込まれ、貧富の格差が広がる背景となった。商業経済がさかんになる一方、格差の拡大や災害の頻発がおこり、社会の同様につながった点は、日本と中国に共通する点であったといえよう

 ただ、中国は日本と比べて国土が広大で、地域ごとの地域のネットワークが存在していた点で、全国的な統一市場がつくられていった日本とは状況が異なる
 また、18世紀以降は耕地面積が拡大しなかった代わりに人口が抑制された日本に対し、中国では人口が増加し続けたにもかかわらず耕地面積の拡大がなされなかったため、生活水準の低下する農民もあらわれた(このことを耕地面積が拡大したにもかかわらず人口が増加したと評価する研究者もいる)。

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江戸時代の人口・耕地面積の推移
(https://ja.wikipedia.org/wiki/勤勉革命#/media/ファイル:江戸時代の人口・耕地面積.JPG、パブリック・ドメイン。データ元は速水融・宮本又朗『日本経済史』1988年、岩波書店、40頁)

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江戸時代の農業生産性の推移
(CC0、https://ja.wikipedia.org/wiki/勤勉革命#/media/ファイル:江戸時代の農業生産高.JPG)


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1-2-1-3. 琉球とアイヌ

■アイヌ

資料 夷酋列像図(イトコイ)


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 日本列島の北方にはアイヌという先住民が狩猟、漁労、農耕などを営み、独自の文化を発展させてきた。


 1789(寛政元)年、和人商人の酷使に反発したアイヌが蜂起し、松前藩が鎮圧した。
 この背景には、18世紀に和人とアイヌの交易が、松前藩による独占から商人による請負うけおいとなったため、利潤を追求する動きが強まり、アイヌの和人商人に対する反発が強まっていたことがあった。
 松前藩の家老・蠣崎波響かきざきはきょうは、藩に協力したアイヌ有力者12人の肖像を描いた。
 この図は、厚岸あっけしのイトコイである。
 彼が蝦夷錦えぞにしき(清朝の官服)に、ロシアとみられる赤いコートをまとっていることからも、アイヌが樺太を介し、アムール川下流域(山丹さんたん)の住民との間に盛んに貿易をおこなっていたことがわかる。

 しかし、19世紀になると幕府が蝦夷地を直轄するようになり、山丹交易も管理下に置かれるようになっていった。

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■幕藩体制の動揺


 このように国内の商業経済は活発化したものの、富士山の宝永山噴火(1707年)のような災害が頻発し、格差が拡大するなど、社会の動揺もしだいに目立つようになっていった。

 18世紀後半以降、ロシア、イギリスなど欧米列強が日本に接近しはじめると、幕府は危機感をつのらせ、対外政策の見直しを迫られることになっていく。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊