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5.2.2 ビザンツ帝国の社会と文化 世界史の教科書を最初から最後まで

いわゆる「ローマの東西分離」(395年)以降、ローマ帝国の東部領土であったエリアは「東ローマ帝国」として、西側のローマとは違った”キャラ”を確立していった。

ラテン語をお祈りの言葉とするローマ教会との差別化も進んでいき、

7世紀以降にはギリシア語が公用語として用いられるように。

古代以来、ギリシア語の通用するエリアは非常に広い。

西ヨーロッパではとうに忘れ去られていた古代ギリシアの古典が研究され、キリスト教の教義解釈の中などに受け継がれていったんだ。

「東ローマ帝国」という呼び名のほかに、首都コンスタンティノープルの旧称ビザンティオンにちなんだ「」という呼び名で呼ばれることが多いのは、そのためだ。


ローマ教会との教義のミゾは、8世紀の聖像崇拝論争のときに特に表面化する。
お祈りや儀式はローマ=カトリックに比べ、どちらかというと神秘的だ。


近くへ行く機会があれば、東京の神田のニコライ堂を見学させていただくといい。

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聖像崇拝論争が燃え上がった一方で、イエスとマリアを描く聖母子像などの聖なる絵(イコン)が、お祈りの対象となっていった。イエスもマリアも、どこか人間的ではなく、無表情に描かれているものが多いね。

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美術もドームモザイク壁画を特色とするビザンツ様式が発達していった。
ドームは『聖書』に出てくる幕屋をイメージしたものだ。

首都のハギア=ソフィア聖堂や

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イタリア北東部ラヴェンナのサン=ヴィターレ聖堂が代表だ。

このようなギリシア文化とキリスト教がミックスされた文化は、周辺のスラヴ人にも影響を与える。


バルカン半島に移動してきた南スラブ系セルビア人


ボスニア人などがその代表例。

ほかにも、現在のブルガリアにつながるブルガール人


ルーマニアにつながるワラキア人、

それにアルバニア人なども、


南スラヴ系の人々と混じり合いながら、ビザンツ帝国の文化を受け入れていった。


また現在のロシア人のルーツとなる、キエフ公国の「ルーシ」と呼ばれる東スラヴ人たちも、ビザンツ帝国と良好な関係を築くとともに、国内のグループを従えるために、ギリシア正教を受け入れた。



このようにして「ヨーロッパ」は、ギリシア文化の影響の強い「ローマ皇帝」が、コンスタンティノープルのキリスト教会の権威を利用して支配するエリアとして「ひとつのまとまり」を形成していくことに。
ビザンツ文化やギリシア正教は、周辺のスラヴ人をはじめとする民族の”憧れの的”だった。

「西ヨーロッパ」のエリアでは、支配層がラテン語を公用語としていったのに対し、「東ヨーロッパ」がギリシア文化を保存したことは、古代ギリシア文化の内容が後の世に受け継がれる上で重要な役目を果たすことになるよ。

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