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"何者か"になりたくて苦しいけど、たぶん、未来から見たら愛おしいのだろう。

家に「Emilia(エミリア)」という名を持つ、テディベアがいる。サラサラと滑らかな美しい光沢のある毛並みに、反射した光を内包するつぶらな黒い瞳。ほんのり口角を上げた口元で、いつもじっと、そこにいる彼女は、日々変わらず"愛らしい"という癒やしをもたらしてくれる。

「Emilia(エミリア)」という名を持って生まれた彼女は、表参道にあるSteiff青山店に並べられ、わたしという人間に見初められた。

わたしに買われる前ーーまだ店で売られていた頃、彼女はまだ「Emilia(エミリア)」という美しい名前を持っただけのテディベアだった。

__

彼女に与えられた使命は、誰かに迎え入れられること。テディベアとして至高の存在になるためにも、まずは"人に買われる"ことが絶対条件。

テディベアは、主人に愛されて初めて、最高の存在になることができるのだ。

エミリアは話すことも、動くこともできないけれど、店の扉が開くたびに、主人が来店したのではないかと、ソワソワとした心で時を過ごした。陽が沈み、店の灯りが消されると、焦り混じりの寂しいような、虚しいような気持ちで心がいっぱいになる。

大丈夫、大丈夫。明日がある。明日にはきっと、主人が迎えに来て、愛してくれる。

瞳の端から見える窓の奥で、夜明けが迫ってくるのを感じる。息の詰まるような長い夜を過ごした後、不安で絡まった糸を解くように優しく昇る朝日が、彼女は好きだった。杏色の柔らかい空が、澄んだ亜麻色の空に重なり、白に近い肌色の空につながって、白藍色の空が全面に広がっていく。

もう何度、繰り返して見ているのか分からない空。けれど、それでも、まだ経験したことのない今日が来たことに安堵する。

きっと今日、運命の人と出会うための"これまでの日々"だったのだ。朝日が赤く燃えると彼女の心も温かくなった。

その日は休日だったからか、それともクリスマスの気配が近づいてきたからか、大勢の人が店にやってきた。

ベビーカーに乗せた赤子を連れた若夫婦、店内のあちらこちらを駆け回って怒られながらも目を輝かせる女の子と、そのお母さんとお父さん。手を繋いだまま仲睦まじくテディベアを眺めるデート中のカップル、笑い皺を濃くしながら、どれがいいかしらと頭を悩ませるおばあさんとおじいさん。

老若男女に愛されるテディベアのお店には、日々さまざまな人が来店するけれど、それにしても今日は"人数の多さ"だけでも類を見ない盛況ぶりだった。

人は、わたしたちテディベアの"表情"にも注目して選ぶようだから、今日は一段と気合いを入れよう。主人が少しでも、1秒でも早く、わたしの存在に気付いてくれますように願いを込めて。

人が出入りするたびに、ひとり、またひとりと、主人に出会ったテディベアが旅立っていく。

テディベアはみな、主人に抱えられた瞬間に瞳をキラキラと輝かせる。見初められるという愛をいっぱいに受け取るからだろう。

よかったね、よかったね。
たくさん愛されておいで。おめでとう。

テディベアの仲間が旅立つのは、とても嬉しいことだった。自分に向けられた愛ではないけれど、それでもこうして愛される瞬間を見るのは嫌いじゃない。むしろ、あそこにいるのがわたしだったら一体どんな気分なんだろうと心が弾む。その奥底で、何かがチクチクとしている気もするけれど、気にしない。考えない。おめでとう、よかったね。行ってらっしゃい。そう繰り返して旅立つ仲間の背を送る。

ふと、一人の男の子と瞳があった。睫毛が長く、まるっとした大きな瞳を開いて、じぃっと見つめられる。小さな手のひらが伸びてきたと思うと、わたしの身体はふわりと浮いた。間近に男の子の顔が見える。息遣いも聞こえる。店中に鳴り響いてしまうんじゃないかってくらい、心がドキドキと高鳴った。

男の子は「かわいいねぇ」と呟いた。嬉しくて、嬉しくて、どうにかなってしまいそうだった。

男の子がわたしを抱きしめて、母親の元へ向かう。

「ねえ、ママ。このくまさんはー?」
「あらかわいいね。 見てほら、こっちのくまさんも大きくてかわいいよ」
「 ほんとだー! かわいいー!」

男の子はわたしを母親に預けると、大きくフワフワとした毛並みのテディベアを抱き上げた。男の子の半分の背丈ほどもある、そのテディベアはぎゅっと男の子の腕に強く抱かれた。

「 ママー! やっぱりこっちにするー!」

男の子に抱えられたテディベアが、わたしを見て、笑った気がした。

気がついたら陽はとうに暮れ、店の灯りも消えていた。今日はすごく盛況だった。男の子にかわいいと言ってもらうこともできた。そう、よかったんだ。良いことだ。だって初めての経験だったもの。かわいいって思ってくれる人がいることを知れた、良い機会だったじゃないか。

雲が多く月明かりの見えない今宵は、いつもより気持ちが暗くなる。前向きな言葉をどれだけ心に訴えかけても、余計に虚しくなるだけだった。心が震える。ぎゅっと強く握られたように、痛くも感じる。持て余された感情が行き場を失くして、身体中を駆け巡る。どうにもできないのに、抑えられない。

こういうとき人間はどうするんだろう。主人だったら、どうするんだろう。あの男の子だったらーー。考えれば考えるほど、深く深くに堕ちていった。

また、朝が来た。地上の底から噴き上がるように昇る赤い光を浴びて、毛並みが赤茶色に染まる。このまま、何か別の……何者かに変身してしまえたら、いいのにな。

店に灯りが灯る。ガラス戸の施錠が解かれ、営業が開始された。シーンと静かな店内に、外車の滑走音がたびたび聞こえる。昨日と違って客足は少なく、ぼうっとしている時間が多かった。

ただただ時が過ぎるのを待つ。窓の外には往来する人々の群れ。自分の意志で、自分の足で、何かを待つこともなく、自由に動き回れる人間が初めて羨ましく思えた。

「わったくさんいるよ」
「本当だね」

店のドアが開いて、20代程のカップルが足を踏み入れてきた。上京したての学生のように、ぐるぐると首を右へ左へ、前へ後ろへ、動かして"くまの景色"を堪能する彼女。紫色のプリーツスカートからのぞく黒いローファーがコツコツと床を鳴らしていた。

1階と2階に分かれた店内には、およそ50体ほどのテディベアがいる。とはいえ、大人が2人並んでギリギリ程度の狭く細長い店内はあっという間に見終わってしまう。けれど彼女は棚一つひとつに並ぶテディベアたちを脳に焼き付けるかのように、ゆっくりと、じっくりと、時間をかけて眺めていった。

「エ……エ、ミ、リ、ア?」

思いがけず名前を呼ばれて、ドキッと心が跳ねる。榛色の澄んだ瞳の彼女に見つめられて、ドッドッドッと心のボリュームが上がる。

「この子、かわいい〜〜」

ありがとう。嬉しい。けれど、期待はしない。

「ねえねえ、この子……エミリアちゃんにしようかな」
「うん、かわいいじゃん」

ありがとう。あなたがそう言ってくれるだけで、わたしは幸せ。候補になれただけで、すごく嬉しい。だからもう、それくらいにしておいて。期待をさせないで。

「おめめがまんまるだ〜。手足も動くんだ」

ふわっと身体が持ち上がる。右腕を上下に動かされて、少し気恥ずかしい。そして彼女の人差し指がそっと、頭のてっぺんを優しく撫でた。心に朝日が昇ったように、ぽうっと熱く、燃え上がる。

喜んでしまっては、だめ。嬉しい分、あとで悲しくなってしまうから。なのに、彼女の指が頭を撫でる度に全身がポカポカと温まって、涙なんて出ないのに、どうしようもなく泣きたくなった。

「決めた。エミリアちゃんにする」

彼女の腕に抱かれ、レジ横の白い台にそっと連れられる。夢に見た瞬間がすぐ近くにやって来ていることを唐突に実感する。見上げると、彼女ーー主人と瞳があった。ニコッと微笑まれて、恋に似たトキメキが脳天を突く。その刹那、わたしの隣に同じ背丈のテディベアが2体並べられた。わたしと同じ品番、同じ名前を持つ、テディベアだった。

「テディベアによって、表情が異なるんですよ。良かったら見比べて選んでみてください」

きっと店員としては気の利いた100点満点の接客なのだろう。けれど、ここまできて、そんな仕打ちはないだろうと冷水を浴びた心地になる。ああ、お願い。どうかお願い。もう一度、わたしをーー。

「この子で。最初に選んだこの子でお願いします」

祈りを捧げる間もなく、愛が降ってきた。

愛の軌跡をたどると、やはり彼女は微笑みを返してくれた。これが"愛"。愛なのだと、わたしは初めて、実感した。わたしが、"わたし"で良かったと、初めて心から自分を誇りに思えた。

ああ、やっぱり。

運命の人と出会うための"これまでの日々"だったのだ。

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何者かになりたいと、わたしは常々思ってしまう。才能を目にする度に、「わたしだって」と嫉妬にまみれた感情をぶつけて目を背ける。けれど青山で出会ったエミリアを眺める度に、"何者"とはなんだろうと思う。

テディベアが、何を思い考えて、お店に並んでいたかなんて知らないし、単なるわたしの妄想でしかないのだけれど、同じ品番・同じ名前・ほぼ同じ容姿を持つものが存在するエミリアを見ると、「何者かになりたい」と苦しむわたしを、"大丈夫"だとやさしく励ましてくれる気がするのだ。

だって、"何者か"なんて考える以前に、わたしはわたしであり、他の何者でもないのだから。

何かを残したくて、何かを認められたくて、何かを自慢したくて、何かに愛されたくて、何かを持つ自分を愛したいだけ。

その何かを手に入れるためには"何者か"にならなければいけない、なんて勝手に思っているだけ。

本当は、何者かになろうとなんて、しなくていいのだ。今のままで充分にわたしは素敵で、わたしにしかないものを持っている。あとはその輝かせ方に気づき、運を引き寄せられるかどうか、だけなのだ。

人生はきっとその繰り返しで、もしかしたら確固たる答えを見つける日は来ないのかもしれない。

けれど、自分を愛したくて、そして誰かに愛されたくてもがく日々こそ"生きるという行為"であり、きっといつか、愛おしく思う日が来るのかもしれない。

そんなことを考えながら、今日も精一杯、生きていく。

by セカイハルカ
画像 : circle_3mi8さん ハートいっぱいで可愛い♡

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