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著書「自宅出産を経て」を全ページ公開しました【第一章:身体の働き】

おはようございます。

大空の下大前です。

つい先日完成しました、僕の著書「自宅出産を経て」(限定500冊)が、続々と全国に旅立っています。

随分前からご予約をいただいてお待たせしていた方もおられて、こうして届けることが出来て嬉しい限りです。一冊一冊丁寧にサインをして、雨に濡れても大丈夫なように梱包をして発送しています。

購入いただいた皆様、本当にありがとうございます。

とはいえ…

僕もそうなんですが、よほど知っている著者の本なら中身をみずに購入することもありますが、どこの馬の骨ともわからない僕の本を「買ってみよう」という方がいるはずもないので…

色々考えた結果、僕の本が売れることよりも、内容をいろんな方々に知って欲しいと思い全てのページをnoteに公開することにしました。
(この記事は前半部分です、後半は下部にリンクがあります)



ちなみに「まえがき」部分は、僕のラジオでも公開しています↓


本屋さんで、冒頭部分を少し立ち読みして「おもしろそうだし買ってみるか?」「この本は面白くないから買わない」って判断しますよね。

あの感じです。

記事の最後に、「自宅出産を経て」をネットで購入できるショッピングサイトを貼っています。(「BASE 大空屋」というサイトです)

もし、以下を読んでいただいて、「なるほど!これは面白い!紙本で保管しておこう!」と思った方はご購入いただけると嬉しいです。

最近では、「大切な方へのプレゼント」ととしてご購入いただくケースも増えてきて涙が出るほど嬉しい限りです。。

価格は、ネットで買っても、僕に直接ご連絡いただいても同じ価格にしています。もし、購入に際してご質問がある方は、下記の公式LINEリンクからお問合せください。

それでは、以下「自宅出産を経て」の文章になります。

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『自宅出産を経て』 

目次



まえがき


【お前は病気をみていて、人をみていない】
西洋医学が最新最善の医学であり、それを学ぶことが人の役に立つことだと息巻いてい た十数年前、僕の恩師である宮島充史先生に言われた言葉です。 僕は当時、この言葉にハッとしましたが、その言葉の奥深さは、当時よりむしろ今の方 がはるかに深いものだと感じています。

知識を学び、技術を身につけ、経験を重ねることが治療家として重要なことで、誰かの 役に立つ上でも、重要な武器になると当時は考え、心のどこかに大切なことを忘れている ような薄い違和感がありながら、見て見ぬふりをし、日々医学を勉強していました。

それが誰かの役に立つと信じて日々を過ごしていましたが、やればやるほど疑問が湧き、 矛盾を知り、その矛盾から目を背けるように、わからない自分を誤魔化すために休むこと なく仕事と勉強をしていました。今思えば、自分が感じていた薄い違和感と向き合う暇を 作りたくなかっただけなのかもしれません。

そんな悶々とした日々の最中、ご縁があって出会った宮島充史先生から言われたのが、 冒頭の言葉です 

本当に大切なことは、自分を取り繕うための知識や技術ではなく、知識を知識たらしめ ている働きを知ること。治療がなぜ、治療として成立することができるのか この原理を 知ることにあります。僕がその働きを垣間見れた経験は大きく二つで、一つは治療家とし ての日々の経験、もう一つは僕たち家族みんなで体験した「二度の自宅出産」です。 体験といっても、出産の大変さや不安、目まぐるしい身体の変化は男性の僕には想像する ことすら出来なくて、夫としてサポートできることも少なく、ただそこに居ることしか出 来ませんでしたが、家族と共に体験した「身体の働き」はとても尊いものでした。

それらの体験から実感できた私たち一人一人に備わる「身体の働き」について本書では できる限りわかりやすくまとめました。

本書を執筆している二〇二二年三月。
新型コロナウイルス問題は収束する気配もなくこの二年程で我々の生活は一変しました。 社会のオンライン化は進み、人との関係が希薄になり、多種多様な課題が浮き彫りにな り、この社会の変化はもう元へ戻ることなく、さらに加速してオンライン化は進んでいく ことでしょう。

一見役に立ちそうな膨大な情報とともに、健康不安や病気への恐怖で悩まれている方が 増え、多くの方が、病院に行っても解決しない。薬を飲んでも解決しない。一度改善して も再び同じ悩みを繰り返す、など大きな不安が世界全体を包み込んでいます。その解決に 表面上の知識や、小手先の技術がもはや通用しないことは、新型コロナウイルス問題を目の前に、多くの方が痛感しているのではないでしょうか?

幸運にもそんな時代を生きている私たちは、知識や技術そのものではなく、知識と技術 たらしめている働きに目を向ける準備は整っています。 人はもちろん、動物や植物、この自然世界の全てを形作る働きそのものと、いまこそ謙虚 に向き合うべきではないかと思います。

知識や技術は先人たちが開拓してくれた叡智であることは間違いありません。 僕はこの本で西洋医学を否定したいわけでも、自宅出産を広めて、病院出産を否定したい わけでもありません。 僕も皆さんと同じように体調が悪くて病院へ行くことも当然あります。何かを否定して 自分を肯定したり、表面上の情報や知識では、もはや誤魔化しきれないところまで私たち はもう足を踏み入れていて、このまま誤魔化し続けて一生を終えるか、それとも、謙虚に 自分と向き合うか、その分岐点に私たちはいます。

繰り返しですが僕は本書の執筆で何かを否定して自分を肯定したいわけではありません。

「医療が医療として作用できるのはなぜか?」

病院であれ、整体であれ、「治る」という結果が得られますが、そもそも、 「なぜ、治ることができるのか?」 そこを知ることで見える景色では、不安が希望にみえるかもしれません。

本書が、読んでくださった方の充実した人生のヒントになれば執筆者としてこれ以上の 幸せはありません。

第一章 身体の働き

一、医療の矛盾


●常に身体が先
私たちは日常的に医療に助けられています。これは事実です。 ケガをすれば病院に行くし、体調が悪ければ相応の検査や診察、治療もしていただきます。

僕のもとにも、日々体調不良を抱えた方が相談に来られます。 これが当たり前な現代ですが、ここで考えたいのは、医療(整体含む)に身体を治す力が あるのかどうか?という点です。もしかすると、多くの方は医療に身体を治す力があると 思われるかもしれませんが、僕はどうしてもそうは思えません。

医療が医療として成り立つ上で欠かせないことはなんでしょうか?

当たり前ですが「身体」です。生命といった方がいいのかもしれませんが、あえてここ では普段使う言葉として「身体」と表現します。

 僕の施術はもちろん、手術も薬も皆さんの身体を治す力があってはじめて効果を発揮し ています。施術そのもの、医療そのものに身体を治す効果はありません。こけて擦りむい たら擦り傷は治ります。それは誰しも経験がありますが、なぜ擦り傷は治るのでしょう。 「絆創膏を貼ったから?」「傷を綺麗に洗ったから?」「消毒をしたから?」 どれも間違いではないかもしれませんが、身体にはそもそも擦り傷を治す働きがあるか ら治るわけで、絆創膏そのものに傷が治るのを助ける働きはあっても、傷そのものを治す 力はありません。 絆創膏のサポートを受けて治ったことは事実でも、仮に絆創膏を貼らなくても治ります よね。医療は、本来身体があって初めてその力を発揮できて、医療の力で身体が生かされ ているわけではありません。

 あくまで主役は身体であって、医療は身体の働きを引き出したり、補助するような位置 付けであるはずですが、いつの間にか身体ではなく医学や健康法などの情報、知識、方法 論が主役になりがちです。ここに大きな問題があると思います。主体が自分の身体ではな く、医療におかれてしまっています。 その結果、本来の主役である自分の身体への信頼は忘れ、検査結果や画像を通してしか 自分の健康を測ることができず、健康なのに病気に怯えて生きている人生や、専用アプリ を用いないと自分の睡眠の質や幸福度を把握できず自分の感覚が信じられなくなっている のが私たち現代人です。 検査でわかる病気がなく、目立った症状のない状態を「健康な身体」と思い込み、数値 上病気ではないけれど、元気がなく、将来の健康に不安を抱えて過ごす方が多いです。 身体の働きは信頼できないけれど、医療が信頼できるのはなぜでしょうか? 身体の働きはもはや、信頼されていない以前に「ないもの」として扱われ、自覚されるこ ともなく、目に見えるものだけに囚われ、自分の感覚ですら信用できなくなっています。 西洋医学も東洋医学もどんな医療のどんな方法であれ、大切なことは、身体がなければ、 どの医療もその力を一切発揮しないことです。

 そういう視点で観察すると、病気になったとしても、医療はきっかけにしかなっておら ず、他の誰かに治してもらったのではなく、自分自身の力で治っているということがわか ると思います。 こういった当たり前の「身体の働き」を、私たちは一人一人、必ず持って生まれます。 だからこそ、今こうして肉体を維持できています。 どんなに優れた医療であっても、医療で身体が治るのではなく「身体が医療を利用して治 した」という表現の方がまだ正確だと思います。 当たり前すぎて忘れがちな「本来身体が持っている働き」をもう一度思い出すことが大切 ではないか?と僕は考えています。

「何か特別なことをしないと、うまくいかないんじゃないか?」


妊娠や出産も、ケガや病気に対しても、この心理は根強くありませんか? もちろん僕にも皆さん同様にまだまだ無自覚な課題はたくさんあります。もしかするとそ んな前提があることすら無自覚かもしれません。

 例えば、お産。犬や猫は安産と言われますが、お産の知識をたくさん勉強しているから 安産なのでしょうか?健康に生きようとして生きている野生の動物はいるでしょうか? 犬が安産なのは、本能的に生命を信じきっている(むしろそれでしかない)から、安産な のかもしれません。もしかすると、本当の医療を知っているのは人間ではなく、犬の方か もしれません。

 現代医学は、過去たくさんの偉人たちが創意工夫して作られてきた叡智ですが、医学の 力は「生命」という力があって初めて発揮されることは逃れ難い事実で、身体に対する信 頼がある前提で医療を受けるのか。それとも、医療がなければ生きていくこともできない という前提で、安心を求めた依存先として医療を受けるのか。一見やってることは同じで も、ここには大きな差があります。健康情報が溢れかえっている現代社会において、この本が医学的情報としてではなく、 医療を医療として成立させるために不可欠な「身体の働き」に触れて、自分の身体を信頼 するきっかけになればと思います。


●医療とは

僕は十八歳の時、スポーツ医学から治療家としての人生をスタートしました。 そこからスポーツ現場での治療やトレーニング指導、整形外科、整骨院、産婦人科での整 体経験を経て今の『大空』に至ります。 最初の十年ほど現代医学を学び続けてきたことで、現在、現代医学に対して二つのこと を感じています。

一つ目は「医学の素晴らしさ」、とくに「対処する力」です。 痛みを止める注射や薬、救命をはじめとした緊急処置には即効性が求められます。 ここに西洋医学の大きなメリットがあると思います。
そして二つ目は「矛盾」です。 現代医学は私たちの生活を支えてくれるライフラインの一つであることは間違いありま せん。しかし、医学は常に進歩しているものの、それと同時に病気になる人、健康に不安 を感じる人、そして医療費、これらは現代では常に右肩上がりで、医学の進化と共に悩む 人が増えて、必要な治療費が増え続けているのが現状です。

 これって冷静に考えると大きな矛盾がありますよね。進歩とは何か?という基準は曖昧 ですが、医学の進歩においては「病人が減り、病気で悩む人が減り、年間医療費は減少す る」と定義した方が健全だと思います。 患者さん側の立場でも、国全体としても、健全ではありますが、この定義に異論がある とすれば、病人が増えて、死人が減ることで恩恵を受ける業界の方々だけだと思います。みなさんは、医療の進歩をどう考えますか? 


医療は、医療をできる限り必要としなくて済む世の中に変革していく道を歩むべきです が現状はどうでしょうか。病院は増え、病気は増え、悩みも増え、健康法もずっと増え続 けています。これが矛盾した状況であることは小学生でもわかるはずです。 でも、僕は十八歳で医療に携わりだしてからの七、八年はこの矛盾がわからず医療を学 ぶことが正義で患者様のニーズに応えることが医療(サービス)だと思い込んでいました。 患者様の要望にお応えして、それが出来たら満足して、「どうだ!」と言わんばかりの顔 をしてました。そんなのはただの自己満足で、人の身体のことを考えておらず、今思えば反省しかありません。 僕がしてきたことは「病気で悩む人」を作り、その人の役に立つことで、善人のふりを していただけでした。



●情報は不安も呼ぶ

身体の働きは目には見えないので、そこが身体を信頼できない理由なのかもしれません。 正直、これに関しては小学校の授業で教えるべきことだと思います。

 本来、何もしなくてもうまく経過するはずのことでも、身体の働きを信頼できないから、 安心を得るために特別な手法を医療に求めます。 身体の働きが根底にあることを忘れ、有益そうな健康情報を集め始めると、情報が不安 を呼び寄せるように不安が大きくなっていきます。何か体調で気になることがあったとき に、スマホなどで健康情報を調べれば調べるほど不安が大きくなって怖くなった経験があ る方も多いと思います。
身体には「症状を出すこと」で身体のバランスを整える働きがあります。身体に不要な ものを食べれば下痢や嘔吐として排出するし、栄養バランスに偏りがあれば、ニキビや吹 き出物で調整をしてくれることもあります。 

 身体の働きとして「調整」することを目的にした症状を「ただ、悪いもの」とし、早く改 善させるための手段を調べては、症状が治らず不安になる人は多いと思います。「症状」 自体は身体にとって必要な現象なので、時として症状を抑えようとしても身体は治りたく ない(必要な症状なら)こともあるので、治そうとすれば余計にこじれることもあります。
「出ている症状は、そのままにしておいた方がいい」 という言葉もよくみかけますが、それでも「はい、そのままにしておきます」とは即答で きない方が多いと思います。僕は、薬で抑えるのがいいか、出ている症状を放置するのがいいかは、どちらも正解だ と考えていますが、少なくともその根底にあるのは、繰り返しますが「身体の働き」があ るからこそです。そこへの信頼を前提として選択するかが大切だと考えています。



二、健康な身体


●健康ってなに?

病気はできる限り予防するもので、もしなったら一刻も早く治すべきこと、できる限り 病気にはならない方がいい、そう考えるのが当然ですよね。 僕も以前そう考えていたので、当時はできる限り病気やケガはしないようにするのがベス トだと考えていました。しかし、今ではその考えが少し変わりました。皆さんはそもそも「病気ってなに?」と考えたことはありますか? 辞書で「病気」と調べるとこんな記載があります。


『生体がその形態や生理・精神機能に障害を起こし、苦痛や不快感を伴い、健康な日常 生活を営めない状態。医療の対象。』


苦痛や不快感などの症状があること=異常であり病気である状態であるので、早く治す べきで、できることなら病気にならないように予防すべきである。 一見、なんの矛盾もない話のようにも聞こえますが、どれだけ予防に予防を重ねても何か しらの病気と言われる状態にはなります。 今後「予防医学」はますます発展していくはずですが、果たして病気にならないように することは可能なのでしょうか。 今、現存する病気を予防できたとしても、新しい病気(病名)が増え、あらゆる身体的、 精神的な病気が予防される日は来るのでしょうか。


「健康になりたい」「健康を維持したい」とは誰しも思うものですが、病気とは?と同様 に健康についても深く考えることはしません。 学生時代に習ったWHО(世界保健機関)の健康の定義には、 『健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的に も、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること』と記載されています。 これも矛盾です。病気でない状態だけを指すのではないと書かれてはいても、一般的な感覚とすると「病 気がない状態」が健康という認識を持っているのが現状で、病気ではないけれど、元気が ない人が多くいます。


 テレビやネットの健康情報をみていて、あらゆる症状が当てはまる病名も存在していて、 自分が当てはまらない状況を探す方がもはや大変です。そして医学的に原因がわからない ものにも「病名」がつき、その病気を治す治療ガイドラインが設置されます。 不思議ではないですか。原因がわからずどうやって治療するのでしょう。 これって普通に考えておかしいことですよね。こういった側面において、従来の西洋医学 の考えは限界を迎えていて、方向転換が必要であると感じる人も多いはずです。

「健康とは何か?」「病気とは何か?」について考えることもなく曖昧にしたまま、健康 になるための情報をネットで調べ続けることで、より不安になったという方は多く、病気 が本来存在する意味、健康という概念について、まずはしっかり考えてみることが大切です。

では、健康とはなに、ということを少し考えてみましょう。

 「健康とは病気や症状がない状態」というのが一般的な感覚としてあります。 ですが、ここでも矛盾が生じます。 例えば身体によくないものを食べてしまい、下痢や嘔吐などの体調不良が出たケース。 下痢や嘔吐が止まらないというのは非常に辛い症状ですし、ひどい場合だと脱水傾向で危 険な状態に陥ることもあります。しかし、身体に悪いもの(例えば腐敗した食べ物など) を食べた時に、下痢や嘔吐をすること自体は、身体としては正常な反応ではないでしょう か。 もし身体に悪いものを食べ、下痢や嘔吐が必要な時に起こらなかったとすればどうでしょ うか?もしそうなら、このほうが危険ですよね。

そう考えると、「症状がある」ということが「健康でない状態」とは言い切れません。 むしろ症状が出せる身体・病気になれる身体であることが健康体ではないか?とさえ思え てくるはずです。



●風邪

この本を書いていた年末に、風邪をひきました。 毎年一回か二回は発熱することがあるのですが、今回は普段よりも風邪が経過する速度が 速かったんですね。普段は三〜四日間で動けるかな?程度に体調が戻るのですが、今回の 風邪は約三十九度まで発熱したものの、一日で平熱に戻り、動けるようになったのです。 発熱し始めたのはお昼頃。午前中は全く問題なしでしたが、急激に発熱し、喉も痛くなっ てきました。 ですが、驚くことに翌朝には平熱に戻り、動けるようになって体調もほぼ万全でランニ ングにも行ける程回復していました(普通に走りました)。普段僕がひく風邪よりも、経 過時間がとても短かったです。今回の風邪で、改めて面白い!と感じたのは、この風邪を ひく一週間前から、身体のねじれが強まり、左半身でできることが右半身ではできない、 立った時の体重の乗り方が左右で違うといったことが顕著になっていました。

この時点で「風邪をひきそうだな〜」という感じはありました。
それに加え、過去のパターンでは、風邪をひく前に食欲が出てきて、常に「食べ過ぎ」と いう状況だったので、今回は実験的に少食にしたり、断食をしたりして様子を見ていまし た。それもあって、二十四時間もかからず風邪が経過したのかなと思います。 もう少し自分の身体で試してみたいことがあったので、それがうまくいけば風邪をひかな くてもいい状況にできたのかなと思います風邪症状は、発熱や喉の痛み、頭痛、関節痛、下痢や嘔吐など、その時の身体の状態に 合わせて様々な症状が出てきますよね。 こういった症状を、通常は解熱鎮痛剤や風邪薬などで「抑える」ことが多いですが、僕は もちろん、妻も子どもたちも基本しません。時々病院に連れていくこともありますが、そ れは、ケガをして出血がひどかったり、嘔吐や下痢で口から長期間栄養が摂れない、下痢 が続きおしっこが普段より少ない(脱水症状)時など、応急処置が必要なケースです。 こういった緊急を要する状況にならない程度であれば自宅で様子をみて過ごします。


「風邪で発熱したら、熱を下げる方がいいんじゃないの?」と思われるかもしれませんが、そもそもなぜ「発熱」するという仕組みが身体に備わって いるのでしょうか? 発熱や嘔吐、下痢、関節痛を起こすことで身体のゆがみを解消したり、日頃蓄積した疲労 を取り除いたり、内臓の疲れを回復したりと、風邪には色々なメリットがあります。

 もちろん、「症状が辛い」ことは心地良くはありませんが、その裏側では様々なメリット があります。症状そのものが異常ではなく、出ている症状は、身体の中で何かしらの調整 をしたいという理由があると考える方が自然です。 風邪は自然治癒力で治ると言いますが、これはたぶん間違っていて、風邪をひくこと自体 が「自然治癒力」です。

僕も今回の風邪の時に「面白いな〜」と自分の身体で感じたのは、風邪をひく前、身体 が大きくねじれていたのに、三十九度ほど熱が出ている時に風邪の前にやり辛くなってい たストレッチをしてみると、はっきりあったねじれがなくなり、節々は痛いものの左右差 が改善されていました。

症状が辛いのは間違いありませんが、症状がピークの時はすでに身体が良くなっている ことをはっきり感じ取ることができました。興味ある方は風邪の前と、症状がピークの時、 風邪が治った後と身体を観察してみてください。身体の働きに触れられて面白いですよ。

 日常的にこのような「身体の働き」を感じてみることで身体のことを今よりも少し、信 頼するきっかけになるのではないでしょうか。 明らかに健康情報過多な現代で最も問題なのは、身体の働きをすっ飛ばして「健康情報」 だけに触れてしまい、情報がただの不安を呼ぶ要素になってしまっている点にあります。 「こうすれば健康にいいよ」という情報をみると、その裏側では「そうしないと病気にな るよ」という情報も同時に無自覚的に受け取っています。情報に健康を求めると、不安に しかならない理由の一つはここにあります。 どの健康法にしても、その健康法が作用できるのは「身体の働き」があるからこそです。

 健康情報を身体の働きを知るきっかけになる意味で活用できれば有効ですが、ただ健康不 安を呼ぶだけになってしまいます。健康情報はこれからもたくさん、そしてより細かくなっ ていくことは間違いない流れなので、より「身体の働きを知る」という視点が大切な世の 中になってきているのではないでしょうか。



 ●病気で開ける道

 病気にならないことを目的とした「予防法」は世間に溢れていますが、それらの予防法でも病気そのものを完全に消し去ることはできません。
健康法・予防法を批判したいわけではありませんが、そもそも、
「病気が身体に悪いだけの出来事」という前提を疑ってみても良いと思います。

「それ以外にも病気としての意味があるのではないか?」

病気は、肉体的にも精神的にも苦痛であることは事実ですが、施術をしていてそう感じさせられる瞬間は何度もありました。

 ごく一部にすぎませんが、その事例を二つお話します。

 事例①  右の上腕骨の骨折をしたTさん(六十代女性)

 当時、僕は整骨院で治療をしていました。その頃来てくださっていたTさんは太極拳に打ち込んでおられるとてもアクティブな方でした。

 施術の中でいつもバランス訓練を取り入れていたのですが、その日はたまたま時間的に余裕もあったので、「いつもより、難しいバランス訓練の道具を使用してみたいな~」というTさんに難易度の高い器具を使った訓練を行うことにしました。
この器具を使った訓練は現役アスリートがやるような方法だったので、通常六十代女性には用いないのですが、「Tさんなら大丈夫かな」ということでやってみることにしました。

 しかし、結果的にこの訓練中にTさんは転倒してしまい、右の上腕骨を骨折する重傷を負うことになります。もちろんこのケガの責任は、担当していた僕にすべてあります。
 その場ではとにかく応急処置を施し、急いで病院に連絡して搬送しましたが、翌日骨折箇所の転位が強まり手術することになりました。
 このケガ自体、Tさんにとっては大変な苦痛でしたし、僕自身、責任を感じてとても落ち込み申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

 手術が無事に終わり、翌日、お見舞いに伺った時のことです。利き手である右腕を手術したTさんはちょうど食事をされており、慣れない左手で苦労しながら食べていました。
その姿をみた時に改めて「大変なことをしてしまったな…」と、なんとも言い表せない感情になっていたところ、Tさんが僕に向かって大きな声で話しかけてくださいました。

「先生、ありがとう!」

僕はその言葉の意味がわからず、一体なんの話をされているんだろう?と呆気に取られていました。詳しく話を聞くと、

 「こんなに左手が使えないということを今まで全く知らなかった
 「太極拳でずっと苦手でなかなか克服できない課題があったんだけど
 その原因が今回のケガで分かった。それに気づけたのはこのケガをしたから。だから、先生ありがとう!」


 そう話すTさんのベッドには太極拳で使用されている剣がありました。

驚くことに、Tさんは手術翌日からベッドの上で、できる範囲の太極拳の練習をされていました。トップアスリートでも術後翌日にここまで意識できる人は少ないのではないかと思います。

 それから時が流れ、Tさんは太極拳をさらに打ち込み、師範を指導する立場としてご活躍です。

 Tさんの事例から、皆さんもケガや病気をプラスに捉えましょうみたいな話をしたいわけではなく、ケガを負わせてしまった僕の責任を無かったものにしたいわけでもありません。指導においての安全性をきちんと確保した上で実施すべきだったという反省は当然ながらありますし、Tさんにとっては右の上腕骨を骨折するという身体的な苦痛とメンタル的なストレスがあったことも事実です。

 だけどそれと同時に、「ケガによって気づくこと」があったことも事実として受け止める必要があって、Tさんがおっしゃられていた、
「利き手が使えなくなることで、自分が使えなかった身体の部位に気づく」
という点は、とても大切な視点だと思います。

 自分が今まで使うことができなかった部位を自覚すると、より自分の身体全体を、イメージして扱えるようになります。それにより、ケガを防いだり、疲れにくく動くことも可能で、ケガをすることは苦痛ではありますが、その中でしか訓練できない筋肉や動作もあって、それをうまく「利用」することができれば、ケガはマイナスな出来事から、将来長期的な目線では大きくプラスに転ずることもあります。

 ケガ以外にも起こる出来事は、出来事そのものに良い悪いのどちらかだけが存在するのではなく、良い悪いの両方の要素が含まれていて、良い悪いのどちらかを自分自身で決めています。どう捉えるも自由ですが、どちらの要素も含まれていることは知っていて損することはないはずです。



 事例② 頭痛やめまいなど重度の自律神経失調症に悩まされたYさん(三十代女性)

 Yさんは、飲食店や美容サロンなど幅広く経営をされている女性経営者です。
もともととても頭の切れる方で、お話しをしていてもすごく聡明だなという印象でした。
 ただ、非常に体調も精神的にも追い込まれており、僕のところへ相談に来られた時には、体調が悪いことで全ての仕事を整理するかどうかを考える寸前でした。

 Yさんは、ご自身がとても優秀な方であったことから、自らが先頭に立ち、現場で手本を示しながら引っ張っていくという、まさに親方のような働き方をされていました。(実際は小柄でとても美しい方です)

ですが、体調を崩されてから、なかなか現場に立つこともままならず、スタッフさんにお店を任せざるを得ない状況になっていました。
 紆余曲折ありましたが、Yさんの体調は順調に回復し、今回の体調不良を通して、以前のように自分が先頭に立って引っ張るのではなく、スタッフさんに以前よりも多く裁量を任せる形の経営方針に舵きりをされて、気づけば以前よりも幅広く事業を拡大して、ますます活躍の域を広げておられます。
今では自分の体調不良をきっかけに、より自然で安全な健康商品を開発したりと本当にすごいなと感嘆するばかりです。

 Yさんが体調不良を通して自覚したことは、

【自分だけではなく、人を信頼し人に任せることの大切さ】を学んだこと、

だと教えてくださいました。
そうすることで、自分の身体と頭にゆとりが生まれ、より色々なことに取り組めるし、スタッフさんのやる気も以前にも増して高まり、成長にも繋がったとおっしゃっていました。

 Yさんが悩まされた体調不良は決して楽なことではなく、真剣に事業を辞めることを検討するほど辛いものであったことは言うまでもありません。
それと同時に、体調不良を通して「より人を信頼し、人に任せることの大切さ」を学ばれたことも事実で、その経験があってYさんの今があることもまた事実です。

 今まで無理を重ねてきた生き方が、病気になったことで、無理が是正され更なる成長につながる。そういう側面が病気という現象にはあると思います。病気がただのマイナスな出来事だとしか捉えないとすれば少しもったいない気もしますね。


三、食事は一食より「一生」


 身体の働きを知る上で重要になる食生活についてお話します。
 食事バランスの乱れは心身の疲労の原因になると言われたりしますよね。僕は過去、僕の師匠に紹介していただいた和尚さんに「食養と望診法」を学ばせていただきました。
望診法とは、その方の顔の様子から、体調や性格の癖などを統計的にまとめた学問です。望診法で相手の状態を確認し、その手当としての食事法が「食養」です。
 食養を学んでいく中でハッとした内容は多々あるのですがその中で気づいたこと。

 【食事は一食のバランスを考えすぎなくても、一生の中でバランスはとれる】

僕は学生時代の部活動で管理栄養士さんが食事指導してくれていた縁もあり身体のことを学び始めた当初から「栄養学」は大好きな分野だったので独学で学んでいました。しかし、いざ実践するとなると一食のバランスにフォーカスするのでバランスをとるために美味しさを犠牲にしたり食材コストがかかったりと現実問題難しいと感じることもありました。


 ●栄養学の矛盾

 栄養学はとてもおもしろい学問で、色々な体調不良を改善させてきた実績ある学問です。それは間違いありませんが、一方で疑問に感じることもあります。
 例えばダイエットについて。栄養学はエネルギーをカロリーで表記し、一日の摂取カロリーの目安が性別年代でそれぞれ設定されています。しかし実際には、とても少食だけど肥満の方もいれば、大食いタレントさんのように尋常でない程食べてもほとんど太らない方もいます。

 野菜を中心にした和食は身体に良く病気になりにくいと言われていますが、実際は、とても食生活に気を遣っていても病気がちな方もいれば、スナック菓子や食品添加物、砂糖などを中心にした食生活を続けていても、病気にならない方もいます。
 こういう話になると「統計上の話だから…」となりますが、それを統計的な問題として片付けてしまうと、本当の身体の働きを知ることから遠のいてしまうし、何よりその統計的に優位な情報を「絶対的に正しい情報」としてしまうことに大きなリスクもあります。
 栄養学の基本として、五大栄養素(糖質、タンパク質、脂質、ビタミン、ミネラル)これらが一食の中に多様な品目でバランス良くあり、三食食すことというのがあります。
 ですが、前述の通りこれを実践することは難しいことで、実践しても何かしら病気になるケースもあるし、バランスが乱れた食生活を続けていても、なぜか元気な方もいますよね。

「その差はなんだろう?」というのが栄養学を学んで数年たった頃に僕が感じた疑問でした。確かに個人差と言われればそれまでだし、確率論で言えばバランスの良い食生活を継続していた方がいいのかもしれませんが、僕はどことなく納得したようでできない心地悪さを感じていました。
 

 ●食養を学んで気づいたこと

 僕は子どもの頃、野菜はとにかく嫌いで魚も嫌いで、お肉かご飯かお菓子、この三つくらいしか食べないくらいかなりの偏食でした。
 でも、三十代半ばになった今では、野菜の素焼きは好きになり、魚のおいしさも知りました。そしてお肉を食べる量も十代後半の頃と比べると減っていますし、三食は胃腸が辛くて食べれないので、食事回数は一日一食~二食になっています。

 一日のバランスとしてはこれ以上なく乱れていますが、今までの僕の三十数年間のバランスではどうでしょうか。お肉やお菓子、白米を食べていた幼少期~思春期、二十代では徐々に野菜の味のおいしさを覚え、魚の旨さも感じられる味覚になりました。三十代になると、食事量がだんだんと減ってきています。

 どうでしょう。その一時期だけをみると偏食かもしれませんが、僕の今までの人生全体でみると、案外悪いバランスでもないですよね。
 私たちの味覚は年々変化していくことは誰しも感じていることだと思います。
 恐らく人は「味覚」を変化させることで、その時に必要な食べ物を食べるようにできています。赤ちゃんが離乳食を始めた時、数種類の野菜を小さく煮込んでも、その中から大根だけを選んで食べたり、また違う日にはご飯ばかり食べたり、食べない日もあれば、いつもの二倍くらい食べたりと、その日その日で変わります。当然ですが、赤ちゃんには、どの食品にどんな栄養素があるなどといった知識はありません。
 それなのに「その日に必要なもの」を、知識がなくても、自然と選び、必要な分だけ食べられる能力を生まれながらに持っているのではないでしょうか?

 離乳食中のお子さんがおられる患者様から、
「野菜が嫌いで食べてくれなくて、どうしたら食べてくれるか悩んでいるんです」
と相談されることがありますが、こういう質問を受けるたびに思うことがあります。
「偏食でもいいのにな」
「そもそもこれだけ子どもを想う優しいお母さんなら、何を食べても食べなくてもお子さんは元気に育つだろうな」
 この悩みは「一食をバランスよくとる」という大前提があって、その前提が悩みを悩みとさせています。にんじんしか食べない時期があっても、次はごはんばかり食べる時期もあるかもしれません。そうして長い視点で見れば自ずとバランスは整ってきます。
もっといえば、身体に良いとされる食べ物を食べることが健康に良いと言われますが、身体に負担をかけない食べ物しか食べていない人は、何かで負担がかかればすぐにくたびれる弱い身体になります。身体に悪いものを食べると、身体は消化や解毒に大忙しで、結果強靭な内臓になるかもしれません。
こういった前提のもとで、食事のバランスを考えれば、「子どもが野菜嫌い」という悩みは、悩みではなくなるかもしれませんね。
 実際、僕の子ども達は、とても偏食で、限られたものしか食べません。お菓子は大好きで、飲み物は基本的にコーラです。
余談ですが、元プロ野球選手のラミレスさん(ベネズエラ出身)がインタビューで話されていたことですが、ベネズエラではコーラが水のような存在らしく、食事中もコーラを飲む習慣があるそうです。日本に来て食事中に水やお茶を飲む習慣に戸惑ったそうです。
そんな方々も地球にはいるわけで。
 野菜は身体に良い食べ物と言われたり、野菜をしっかり食べることが長寿の秘訣と言われたりもしますが、人によっては「お肉をたくさん食べること」だという人もいるし、百十二歳の高齢の方は「毎日甘いお菓子を食べて、笑うことが長寿の秘訣」だともおっしゃっていました。

 一体どれが秘訣なのと思いますが、栄養素が○○だから長寿になるというよりも、それ以外の部分に秘訣があるのではないでしょうか。

 「何を食べるか?」それよりも、その時「美味しい」と感じられることが大切かもしれませんね。

 どんなに美味しいものでも、毎日食べれば美味しくはなくなります。
 食事のバランスを整えようと努力して整えることも、短期的に見れば悪いことではないかもしれません。

 しかし、その裏側にある「身体の働き」として、味覚が変化していくことで一生の中でバランスを整えようとする働きがあるとすると矛盾が少なく感じます。
その働きを信頼できると、食事を健康を保つための手段ではなく、まず美味しい食事として心から楽しめるのではないかなと思います。

 四、バランスは常に整っている


 僕は以前、食事でも運動でもバランスをとることが身体を維持する上で重要なことだと考えていました。
前述した食事のバランスも偏らないよう彩りを整えたり、五大栄養素(糖質・タンパク質・脂質・ビタミン・ミネラル)をバランスよく配分することなどもそうです。それ以外にも、筋力の偏りがあれば、弱い側を多めにトレーニングし、硬いなと感じた側は多めにストレッチをしてバランスをとろうと考えていました。
 しかし、今思えば大切なことがすっかり抜け落ちた偏った考えだということに気づかされました。本書で繰り返しお話ししている「身体の働き」つまり、「バランスを整えようとする身体」の存在を完全に忘れていた頃の話です。

 身体は常にバランスを保つためにあらゆることをしてくれています。
生理学では「ホメオスタシス(恒常性)」とも呼ばれ、身体を最適な状態に保つ働きのことです。簡単にいうと、
「身体は自動でバランスを整えようとする働きをそもそも持っている」
と理解していいと思います。

 バランスは整えようとして整うものではなく、むしろ整えようとすればより崩れる結果となります。睡眠が少なければ眠たくなり、栄養不足になればそれを補うために味覚が働きます。僕たちが持っているバランスの概念は一生懸命整えようとして初めて整うものというイメージが先行しすぎているのかもしれません。
バランスを整えようとする意識は、身体にとっては余計なお世話で、かえってバランスを崩すきっかけになります。指導の際にも、動かしにくい苦手な部分に意識を強く持って動かすことが普通に行われていますが、実際には身体の一部を意識することは、身体全体としてのバランスが崩れ不自然な動作になっていることも少なくありません。

「バランスは整えるものではなく整うもの」

この事をもう少し具体例を上げてお話します。


 ●身体が硬い理由

 ストレッチをしたとき、多くの方は右は柔らかいけれど左は硬い、前は動きやすいけど、後ろへは動きにくい、といった「差」があると思います。
 以前僕は、この差がケガの原因だと思い込んで「この差をいかになくせるか?」ということを課題に整体や体操を行っていました。身体の左右差やゆがみが痛みの原因になるというのはよく聞くワードです。
ですが、実際にはこの硬さに「差」があることが身体のバランスを保つ上で重要な意味を持っていることに気付かされました。
右は柔らかく、左は硬い。このこと自体は悪いことではなく、左を硬くしていた方が今の身体には好都合だから「あえて、硬くしている」と考えた方が自然です。身体のゆがみが悪いのではなく、

 「身体はゆがみを作ることで自ずとバランスを整えている」

ということです。

例えば、山の斜面に生える木は、うまくバランスを保つように斜めにねじれながら生えていて、枝の生え方も左右対称ではないですが、全体としては絶妙なバランスです。
 私たちの身体も自然界の動物ですから、もともと整っていなければ、今こうして生きて歩いて走ることはできません。それにも関わらず、そのゆがみ自体を悪いものと捉えて、左右対称にすることこそバランスが良いと矯正するのは、身体にとっては、バランスの悪い状態を作っているケースもあります。

 そして、身体が硬いことも、それ自体が身体に悪いということはありません。
僕が経験してきた範囲では、身体が柔らかい人にケガが少なく、硬い人はケガをしやすいということはありませんし、むしろ身体が柔らかい人の方がケガにおいては起こしやすいのではないか?とさえ感じています。

 その事例をひとつお話します。

 ●柔軟性と慢性痛

 僕は以前、小学生から高校生のフィギュアスケートチームでトレーナーをしていました。
フィギュアスケートは皆さんご存知のように柔軟性が高いことが高得点に結びつく競技でもあります。
なので、柔軟性を高めるストレッチの時間が結構長いんですが、柔軟性には個人差があり、もともと柔らかい人もいれば、硬い人もいます。これ自体はその人の身体の個性なので、良し悪しはありません。
 しかし、フィギュアスケートという競技においては柔軟性が必要(点数に影響する)なので、硬い人はかなり努力して柔らかくしなければいけません。
人の身体は環境に対しての順応性が高いですから、毎日ストレッチを何時間もやりこめば徐々に柔らかくはなりますし、競技をしている間はストレッチをやり続けるので、柔らかい状態を保つことは可能です。

 しかし、問題は競技を離れた後です。
フィギュアスケートを離れた後、身体は筋肉や関節が過度に柔らかくなると、不安定になるので緊張を作り安定させようとします。
身体が緊張を作る手段として手っ取り早いのは「痛み」を作ることです。痛いと誰だって緊張しますよね。

 そういう意味で、痛みには重要な意味がありますが、過度に柔軟な身体を求めてストレッチなどをやりこむことに、一般的に抱く良い身体のイメージには程遠い身体が出来上がることが、わかると思います。

 過度に柔軟性のみを求めて、日々ストレッチすることは、かえってケガを引き起こしやすい身体を作ることもあるので、日々ストレッチをするのであれば、日常の身体の状況を把握したり、自分の身体を客観視する意味合いで行うことをおすすめします。


 五、養生とは

 一般的に、養生には「できるだけ無理をせずに休む。」というイメージを持たれると思います。しかし、時として無理をしないことよりも、無理を強いることが養生になることもあります。

 先日、あるブログでバリアフリーに関する記事を読みました。
その内容を簡単に説明すると、「バリアフリー化はこれからの高齢化社会においてスタンダードで高齢者の転倒などによるケガの予防にとても重要だ」といった内容でした。

 この話は一見違和感のない話ですが、僕は少し違和感を感じました。バリアフリー環境が重要な役割を果たしていることは事実だし、車椅子の方や障がいをお持ちの方、人工肛門の方向けのオストメイトなど、物理的な段差だけでなく、トイレなど含めたバリアフリー化は社会的に重要な意味を持っていることも事実です。

 一方で、段差などに関するバリアフリー化が進むほどに、その環境を利用する人は足元に気を使わなくても生活できる環境になっていて、バリアフリー環境は、段差もなくつまずいて転ぶ危険性は少なくなります。
 日本中すべての環境がバリアフリーであれば問題はないのかもしれませんが、外出すれば段差もあるし、道に物が落ちていたりもするかもしれません。曲がり角から自転車が飛び出してくるかもしれません。日常、バリアフリー環境で過ごしていると、足元に注意を払わなくても歩きまわれてしまうので、その状態のまま外に出てしまうと、途端に転倒するリスクが上がります。「転倒しないように」という意味合いで、バリアフリー環境で長い時間を過ごすことで、結果的に外出時の転倒リスクを高めてしまう可能性は上がるわけです。

 人の身体は、無理をしないことが重要な時もありますが、それだけでは本来の働きが損なわれてしまうリスクも同時にあります。 
「逃げれないストレスからは、逃げないことがかえって大切」なこともあります。

 例えば身体にいい食べ物や綺麗な水しか飲まない人は、それしか食べられない貧弱な身体とも言えます。泥水や化学物質まみれの食材を飲んだり食べたりしても、それを害のないように体内で処理できる人は健康体とも言えます。
 辛いストレスから逃げることも時には重要ですが、ストレスから逃げてばかりだと、少しのストレスで精神が押し潰されるかもしれません。たくさんのストレスと向き合ってきた人や失敗を重ねてきた人は、どんな環境でも自分自身と向き合い成長できる人でもあるはずです。

 身体が痛い人が、養生と思って無理をせず便利な乗り物や道具に頼ってばかりいれば、いずれは自らの足で歩けなくなるかもしれない。それならいっそ痛みが辛くても、歩き続けた方が「養生」と言えるかもしれません。無理をしないこと、無理をすること、そのどちらもが身体にとっては「養生」になり得ます。僕は雨の日以外毎日十キロほどランニングをしていますが、足が痛くても基本的に走ります。それが自分にとって養生だと思っています。

 ●身体に悪い良さ

 どれだけ身体に良いとされる健康法も、それだけに偏れば身体は悪くなります。
 例えば、野菜が身体に良いからとひたすら食べ続け、久々にお肉を食べるとお肉を消化できずに急激な腹痛と下痢になるかもしれません。野菜だけを食べ続ければ胃腸や肝臓は脂分を消化吸収することをサボるからです。逆もそうで、お酒を飲むことで肝臓を痛めることもあれば、時として肝臓をサボらせないことにもなります。
 しかし、世の中では「煙草やお酒は身体に悪い」「肉食や砂糖は良くない」といけないものを知識(情報)として頭に入れます。身体の声(味覚)に従って「今の自分に良いか悪いか」を判断するのではなく「これは身体に良いもの」「これは悪いもの」と知識で切り分けて判断してしまっています。身体に悪いものが良いものになる状況もあると思います。
 喉が痛くて煙草が不味くて吸いたくないからやめるのと、吸いたいのに「身体に悪いから」と禁煙をがんばるのとでは意味がまったく変わります。今の自分の身体に「良いか悪いか」ということを感覚的にわかる方が動物として健全な状態ではないでしょうか。
 六、人に与えられたもの

 二〇二二年現在、依然として新型コロナウイルスが蔓延し、社会は混沌とした様相を呈しています。人との接触は少なくなり、オンライン化が急速に進み、一時的なことだと思っていた社会の変化は、一時的ではなくスタンダートになりつつあります。
 そして、ブロックチェーン技術の進歩は目まぐるしく、オンライン世界での選択肢も増えました。ベーシックインカム制度(国民一人に毎月一定額のお金を国が支給する制度)の検討もされていて、現状社会が進む方向は、「オンライン空間の与えられた選択肢の中」で、「ベーシックインカムとして与えられたお金」で暮らすことになるでしょう。
ごく一部の人たちが作ったシステムの上で、与えられた選択肢の中から自分が良いと思うことや、楽な道を選んで(選ばされて)生きていくことになります。

 しかし、これは本来私たち人間に与えられている能力なのでしょうか。今の世で大きな力を持つ人々が用意した選択肢であって、すでに用意してある選択肢から選んで生きることが、私たちが生まれてきた理由でしょうか?
 それはそれとして、否定する気は一ミリもなくて、むしろ日頃利用させてもらっているので、感謝しかありませんが、そこしか見えなくなることは少なくとも危険だなと思います。
 本来人間には、人と人との対話の中で自分にはないものを生み出すことができて、その経験は誰しもあると思います。例えば、一人で考えていてもいい案が出なくても、二、三人で会議をすると、一人の意見からさらに重ねるように意見が出て、どんどん思考がクリエイティブになるといったように。
こういった能力は、恐らくAIには真似できないことで、人間に与えられているとてつもない能力(可能性)だと思います。与えられた選択肢の中から選ぶのは、一見自発的な印象ですが、実は真逆で、「選ばさせられている」ことなのかもしれません。ここはとても重要な課題で、一人一人もっと真剣に考えていくべきことです。人に与えられた(持っている)能力とは、そういうものでしょうか?

 僕は人とリアルに触れて、人の人臭い部分を大切にしたいなと思っていますが、皆さんはどう思いますか?


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著書「自宅出産を経て」を全ページ公開しました【第一章:身体の働き】

著書「自宅出産を経て」を全ページ公開しました【第二章:自宅出産】

著書「自宅出産を経て」を全ページ公開しました【第三章:産前産後の過ごし方】

著書「自宅出産を経て」を全ページ公開しました【第四章:大空とは?】

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