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現役毒親サバイバーが親ガチャを語るvol.1

 最近話題になった「親ガチャ不謹慎」問題。賛否両論ではあったがどうやら「親ガチャ不謹慎派」が叩かれる結果に終わったように思える。そこで当事者に片足突っ込んでる僕が”何故この問題が白熱したのか”を検討していこうと思う。

親ガチャ不謹慎派閥の共通点

テレビ番組,Twitterにおいて親ガチャに対し否定的な意見を述べた人の来歴を見て,その発言の裏の背景を予測してこう。ただ発言だけに注目すると,もしかしたら切り取りをされて真意とは違うように聞こえてしまうかもしれないからだ。こうすることによって,その人が何故そのような発言をしたのかを知ることが出来ると思う。ちょっとめんどくさいけどね。

 とはいったが,名誉棄損になりかねない上にWikipediaというソースもクソもない媒体でしか情報収集が出来ないので,具体的な例は乗っけない。ただ,一応明確に反対をしていると思われる人はちょっと調べてみた。そうすると,共通点が見えてくる。

いや,おたくら親ガチャ成功しとるやん

これに尽きる。当たり前と言えば当たり前だ。そもそも宗教二世や虐待や過干渉で苦しんでる人はこの発言に対して嫌悪感を示さない。自分が実感してるから。また,親ガチャに対して成功していても(成否の言及がない場合も含む)他のガチャで失敗したと自覚している人も反対の意見,否定的な意見はあまり見受けられなかった。(乙武氏のように明確な言及を避けている場合もある)

親ガチャ不謹慎派の発言の根底にある思想

 反対派の発言をざーーーーっと読んで,ある程度共通の思想が根底に存在していることに気が付いた。

「親は貴方の為に言ってくれているのよ」

「親には感謝しなければならないのよ」

という2つの思想である。親ガチャという言葉を使用しているのが,若者だからという事もあるだろう。所謂「あなたも親になったらわかるわよ」という意見も見え隠れしている。

 多分そういう人は”薬が毒になるパターン”や”そもそも毒を投げつけてくるパターン”に遭遇したことがないのではないだろうか?こういう問題って表面化して,その体験が共有できるようになったのはつい最近の事だし,ネットにこそ被害者が溢れていてもリアルでは中々出くわさない。いや,もしかしたら出くわしているかもしれないが,家庭の事なので一定の親密度まで行かないと気が付かないというケースが殆どだろう。

 後,申し訳ないがみんながみんな親が親でいるわけではないし,”あなたの為”という名目の下実際は自分の為なんてこともざらにある。ただそういった事例も前者同様家庭のことだから余程親密にならなければ出くわしても気が付かない。友人や親族がそういったことで苦しんでいたらきっとそういった発言は出て来ないと思う。実際親ガチャ成功と自負する人でも,そういった例を知ってる人間は親ガチャに対して批判的な意見はなかった。(友人だけだから,みんながみんなそうであるとは保障しかねるが)僕も自分含め周りがそういったことで苦しんでいるのを知っているから,口が裂けてもそんなこと言えない。

 批判している人達はお友達含めてみんな幸せな人達なのか或いは,周りの誰かがそういった現状にあっても気が付いていないある意味幸福な人なのか,鈍感な人なのか僕にはよくわからない。

いつまで反抗期やってるの?大人になりなよ

 多分これなんだと思う。批判派のさらに奥深くにある感情は多分これ。”親を否定するのは反抗期までで,そっからは親に感謝して,親孝行する期間”というのが彼らの常識なのかもしれない。だから,”親を否定する=反抗期=子供”なので,”20越えた若者がいつまで反抗期やってるの?”というのが思想の深海にある価値観というか,考えなのではないか。こういう風に考えられるようになったというのは親の教育が良かったからなのだろう。その時点で彼らは親ガチャ成功例のように思う。だからこそ,”親ではない親”や”親もどき”に対する具体的イメージがない。考えの根底に”親は子供の為になることしかしない”という実体験に基づく考えがある為,どうしても否定的になるのかもしれない。この立場は私にとって当事者ではないから,どうしても想像でしか語れないので,何とも言えない。

 このことから,この親ガチャ論争は立場の相違による価値観の相違が切っ掛けとなって争いに発展したものだということが理解できる。

立場の相違による価値観の相違を突き詰めていくと見えるもの

こちらが相手の思想を真の意味で理解し,共感できないと同時にまた相手もこちらの思想を真の意味で理解し,共感することが不可能なのである。

このような立場や環境の相違による争いをひたすらに突き詰めた結果の終点が上記の仮説になる。(少なくとも私の終着点はこれだった。)例えば,虐待を受けていな人は虐待時児の気持ちを理解することは出来ないし,これはいじめにおいても犯罪被害者や犯罪加害者家族においても同様である。

 結局”人は自分が経験した事象と類似した経験を持つ人間としか理解しあうことは出来ない”のではないだろうか。だから,世の中には争いがなくならないし,全人類が幸福になる等程遠い未来であるように思える。

 ではどうすべきか。その理解や共感を埋めて対話を成り立たせるには想像力と敬意,譲歩なのだろう。しかし,これが出来る人は中々いない。現にもしこれが多くの人にとってなされているものであったとしたなら,こういった親ガチャ論争は生まれていなかったように思う。きっと,当該問題に類似する”格差や立場の相違による争い”は今後も生まれる。それがたまたま今回親ガチャという言葉であったからこれで収まったが,きっとこれがもっと相反する立場の力関係が拮抗していてかつ多くの人間に関係のあるものであった時,日本もアメリカのように2つに分かれる日も来てしまうのかもしれない。

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