基本的信頼感について 〜自信の元は何処から来るのか〜
東京大学医学部卒の友人医師で、とんでもない強メンタルの男がいます。自己肯定感の塊のような人物で、何があっても落ち込まず、失敗しても何処吹く風で(ちゃんと反省はして同じ失敗は二度と繰り返しません)、誰が相手でも自分の考えを物怖じせずに主張することができます。
元々自己肯定感の低かった私が彼から学んだことはあまりにも多く語り尽くせませんが、本日は彼の「自信」の秘密に迫りたいと思います。
端的には「揺るぎない基本的信頼感の獲得の上に築かれた、成功体験の集積による自己信用の結晶」と考えます。
そんなことを考えていた折、「基本的信頼感」について、フォローさせていただいているakmitaさんが大変興味深い記事を公開してくださいましたので、言葉の定義や実際の育児の最前線につきましては下記リンクをご参照ください。
「自分に対する根拠のない自信」は幼少期の発達の段階で獲得すべき「基本的信頼感」が強く影響しているという学説があります。
これは「自分が自分であるというだけで愛される」という確信であり、他者の思い通りにならなくても自分は無条件に愛されるという根源的な確信です。
彼は間違いなく「揺るぎない基本的信頼感」をもっています。例えば彼が呼吸器内科医になって間もない頃、気管支鏡検査をするのにカメラを180度反対に持ったまま検査を始めようとして指導医から叱られて退場を食らったことがあります。しかし彼は直後に(指導医のいないところで)「一言教えてくれたら分かるのにね。俺、最初だから緊張してたんだなぁ。やればできると思うんだけど。」と飄々としていて驚きました。鋼メンタル超えて彼の心はジュラルミンかハイミスリルで出来ているのでしょう。
このとき彼には「気管支鏡検査」の経験はありませんから、彼の自信は検査における過去の実績を根拠にした「信用」ではありません。自分は出来るという根拠のない自信(=自分への信頼)なんですね。
「基本的信頼感」が「根拠のない自信」に繋がるというのは、かなり信憑性があって理論的には正しいものに思われますが、では「基本的信頼感」を獲得できなかった「私たち」はどうしたらいいのかという問いに明確に解答できません。この理論の範疇のみで考えると、おそらく「手遅れ」という答えになります。
ガガーン。。・゜・(ノД`)・゜・。
「基本的信頼感」を獲得させるために「母親役」などの擬似家族を立てて「育成」しようとするプログラムもあるようですが、どうにも成功する未来がみえません。成長して複雑化した「要求」は、叶えることが難し過ぎるからです。
現実的には発達の過程をなぞるのではなくて、全く別なアプローチが必要ではないかと私は思案しています。
「基本的信頼感」の不足はパーソナリティ障害の背景にもみられるもので、果たして「過去を変えられるか」という命題は、私のテーマのひとつでもあります。
最新の持論としては「要するに『基本的』じゃなくても『信頼感』が獲得できれば良いのではなかろうか」と考えています。
そういう「基本的でない」あるいは「後天的な」信頼感は、親の力を借りずとも獲得可能であって、基本的信頼感よりは脆いけれど強靭なメンタルを作り得ます。これは実体験です。
そして自分への「信頼」を構築していくためには、小さな「信用」を積み重ねていくことが大切であることは、昨日の記事にて提案させていただきました。
さて、貴方の「自信」は如何程でしょうか。
強靭なメンタルに憧れますか?
拙文に最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました。願わくは、いつか貴方が親という過去の呪縛から解き放たれ、自分自身の人生を謳歌できますように。
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