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#1 本を読み、春を待つ

はじめに

私はこれまで、本を紹介する記事を書いてこなかった。

なぜなら私はnoteで好きな本のあらすじや自分の解釈を書きたいわけではないし、たとえ私の文章を読んでも、その小説のよさは決して伝わらないだろうと思っていたからだ。

だから何か書こうと試みては、その度に「うーん、ちがう気がする…」となって、編集中の記事を消去することを繰りかえしてきた。

しかしこの度、ようやく小説紹介の記事を書いてみることにする。

すこし話が脱線するけれど、ネット上には小説の最初の一文目だけを見ることができるサイトがある。「本の書き出し」というサイト。私はこのサイトの存在を、大学のお友だちである〈うっかりやさんの彼女〉から教えてもらって知った。

このサイトでは、あらゆる小説の最初の一文が紹介されている。気になった方がおられましたら、ぜひ調べてみてください。とっても楽しいページです。

この「本の書き出し」というページのやり方を踏襲して、私も今後noteで小説を紹介するときには、まず小説冒頭部分を引用してみることにしようと思う。

そうしたらこの記事を読んでくださるみなさんも、私も、楽しく読んだり書いたりできる記事になるような気がするから。

とは言いつつ、もちろんその作品内に点在している、私の好きな文章や場面も同時に引っ張ってくるつもりだ。

なんとなく思いたってはじめたので続くかは分からないけれど、のんびり、ゆるりとやっていこうと思います。もちろん紹介するものは私の好みに偏っているとは思いますが、それこそが小説紹介の醍醐味ではないだろうか。

今回は私が好きだなと思った女性作家の小説をいくつか集めてみました。

どうぞよろしくお願いいたします。


江國香織『つめたいよるに』

江國香織さんの『つめたいよるに』は次の文章から始まる。

 歩きながら、私は涙がとまらなかった。二十一にもなった女が、びょおびょお泣きながら歩いているのだから、他の人たちがいぶかしげに私を見たのも、無理のないことだった。それでも、私は泣きやむことができなかった。
 デュークが死んだ。
 私のデュークが死んでしまった。

「デューク」より

***

彼女の小説が好きだということはどこかで何度か書いたような気がする。

私の本棚にはずらりと江國さんの本が並んでいる。『きらきらひかる』『落下する夕方』『犬とハモニカ』『すいかの匂い』『ぼくの小鳥ちゃん』…

まだまだあるし、どれもだいすきだから何度も読んでいる。最近出たばかりの新刊の情報も、きちんと追いかけている。

しかし、やはり私にとっては短編集『つめたいよるに』に勝るものはないような気がする。

それは私が最初に読んだ江國さんの本がこの『つめたいよるに』だったからに他ならないということもあるし、この本におさめられている物語が色とりどりの宝石のような短編たちだからということもある。

『つめたいよるに』の中に収録されている21編もの物語のうち、私が最も好きなのは「デューク」という短編だ。

本が手元にない状態でぱっと思いつくのがそれだから。

「デューク」は高校3年生のときの現代文のテストに先生が出してくれた。授業の教材自体は「デューク」ではなく、江國さんの別の短編、「晴れた空の下で」(『つめたいよるに』に収録)だったのだけど、先生がその流れで、「デューク」はセンター試験の問題として出題され、すごくいい小説だったねと話題になったから読んでごらん、いや定期テストに出してあげようと言い、本当に出してくれたのだ。

私は国語のテストを小説を読む感覚で気軽に受ける生徒だったから、それはすごく嬉しかった。「デューク」を読んで、私は自分が江國香織が好きだということを確信した。

『つめたいよるに』はショート・ショートと呼ばれる、短い物語の集まりだから、毎晩眠る前にひとつずつ無理なく読むこともできるし、読んだらどれもおもしろい。

いくつか、私がとりわけ好きなものを引用してみよう。

 のう、お客人。あなたも困った方だ。よっぽど好奇心がお強いと見える。まぁもっとも、覗くなといわれれば覗きたくなるのが、人間の心理というやつでしょうがな。おや、汗をかいておられる。御安心なさい。あいつはあの部屋からでてきやしません。それに、あんな姿はしておっても、生身の人間です。天隆といいましてね、修行僧ですよ、この寺の。

「桃子」より

 おふくろは日傘をくるくるまわして、まるで女学生のように頬をそめている。サンダルをつっかけて、僕も庭にでた。
「おはよう、母さん。お客様なの」
 おふくろはびくっとして、しばらく僕の顔をみつめていたが、やがてにっこりと微笑んだ。
「草之丞さんといってね、お父様ですよ、あなたの」

「草之丞の話」より

 千春ちゃんはお風呂上がり。あんず色のスリップに、白いヨットパーカーを羽織っている。このスリップは藤島さんからの贈り物で、千春ちゃんのお気に入りなのだ。
「私って何てスリップが似合うんだろう」
 あの時千春ちゃんは包みをあけ、さっそく着てみてそう言った。
「ほら、豊満だったりガリガリだったりすると、スリップ姿って何かいやらしいでしょ」

「藤島さんの来る日」より

 こういう夜は、ねぎを刻むことにしている。こまかく、こまかく、ほんとうにこまかく。そうすれば、いくら泣いても自分を見失わずにすむのだ。

「ねぎを刻む」より

他にも好きなものがいっぱいあるけれど、特に印象に残っているものを挙げてみた。物語はどれも短くあっさりしているはずなのに、どれもこれも妙な存在感を持って私の心に残っている。日常生活を送っていると、ふと彼女の小説の一文を思い出したりするくらいには。

江國さんの小説を読んだことがあるひともないひとも、『つめたいよるに』を読んでみてほしい。彼女の世界に足を踏みこむにはうってつけの1冊だ。


山田詠美『蝶々の纏足』

次に紹介するのは、山田詠美さんの『蝶々の纏足』。

 十六にして、私、人生を知り尽くした。そんな筈、ないけど、とにかくそう思い込んだ。その時、私にとっての人生っていったい何だったのだろ。男に付随してるすべてのもの?セックスやお酒や煙草や肉体にもたらされる甘い快楽なんかの、少し面倒臭くてもしておかなきゃならない十代の義務?なんて馬鹿。私、何も知らない子供だった。けれど、人を憎むことは知っていた。それだけで、私は十六歳で人生を知る特権を与えられたのだと思う。

「蝶々の纏足」より

***

これもよく考えたら、私が初めて読んだ山田詠美さんの小説。大学生になってから授業で扱ったものだ。この文庫本には「蝶々の纏足」「風葬の教室」「こぎつねこん」の3編が収録されているけれども、私は「蝶々の纏足」が1番好き。

「纏足」というのは、女性の足を折り曲げて小さくする風習のこと。この言葉をはじめて知ったとき、ものすごく痛そうだと思って、私は身体が(というより足が)ぎゅうっとなるような思いがしたので、そういうのが苦手な方はごめんなさいね…気になった方はご自身で調べてみてください。

小説に出てくるのは、主人公の瞳美と、えり子というふたりの女の子。

瞳美を束縛する美しい少女えり子。えり子から逃れたいと願いつつ、逃れられない瞳美。麦生という男の子も大切だけれども、やはりこの『蝶々の纏足』というのは瞳美とえり子の物語だと思う。

ここで、わりと最初の方に出てくる文章も引いてみましょう。

先生が授業中に絶賛していた箇所だ。

 その日、私は西日というものを初めて味わった。私が何度舌で削り取っても、麦生の体には陽がさしていた。男の皮膚に触れたのはそれが最初であったのに、私がまったく落ち着いていられたのは、たぶん、その日向の匂いのせいだったと思う。

この部分。ここは瞳美が麦生とはじめて肉体関係を持ったときの場面なのだけれども、先生は「西日」というものに対して、「味わう」という表現を持ってきているのがすばらしい、と熱心に語っていた。

けれど私の好きな場面は他にある。それは瞳美とえり子がはじめて出会った日だ。瞳美の引っ越して来た隣の家に住んでいるのがえり子で、えり子はそのときアイスクリームを食べている。

それを見つめていた瞳美の視線に気づき、えり子は「あんたも食べたいの?」と問いかける。

「私、アイスクリームのおいしい食べ方知ってるんだ」
 そう言うと彼女は紙のカップに唾を吐き始めた。彼女は小さな口から何度も唾を吐き、そうしながら木の匙で猛烈な勢いでアイスクリームと唾を混ぜ始めた。硬く凍っていたそれは見る間に柔らかく溶け粘り気のある液体に変わっていった。
 驚きで口のきけない私に、えり子はそれを人匙すくい私の口許に持って来た。
「食べてごらん」
 私は軽い吐き気を堪らえながら、したたり落ちる白い液体を啜った。それは生暖かく私の口の中に拡がり、私の下に有無を言わせず喉の奥に流れ込んだ。

『蝶々の纏足』はここに尽きる。私はこの場面がすごく好きだ。官能的ともとれるけれど決していやらしくなく、ふたりの少女の幼さもあり、しかしどこかぞっとする、美しい場面だと思う。

山田詠美さんの文章はくどくなくて読みやすいので、「風葬の教室」「こぎつねこん」も合わせてぜひ読んでみてほしい。


小川洋子『ミーナの行進』

小川洋子さんの小説を読んだことのある方々は多いのではないだろうか。

彼女の小説はたくさんあるけれども、私はここであえて『ミーナの行進』をおすすめしようと思う。『ミーナの行進』は次の文章で始まる。

 私が生まれて初めて乗った乗り物は、はるばるドイツから海を渡って運ばれてきた、真鍮製総レース張りの乳母車だった。

***

小川洋子さんの小説は虚構性が高く、幻想的な雰囲気に包み込まれたものが多いように思う。たとえば、『余白の愛』とか『密やかな結晶』とかはその典型例ではないか。

しかし『ミーナの行進』は時代や場所の設定が明確に定まっている。年号は1972年、舞台となるのは芦屋。実在の年と街を舞台にして進んでいくのだ。さらに主人公の朋子をはじめとし、作中人物にはみんな名前がついている。これは小川洋子の他の小説とはすこし異なる雰囲気を醸し出している。

朋子は家庭の都合で1年ほど母と離れ、芦屋に住んでいる伯母さんの家族とともに1年間を過ごすことになる。日本人とドイツ人の間に生まれた伯父さんはハンサムで、フレッシーという清涼飲料水の会社の社長。伯母さんは煙草とお酒をお供に本の誤植探しをしている。伯父さんのお母さんであるローザおばあさんは、お手伝いの米田さんと双子のようになかよし。

そして朋子の従妹ミーナは大変な美少女で、彼女の髪や顔立ち、華奢で未熟な身体についての繊細な描写は読んでいるだけで楽しい。

 ローザおばあさんの血をひいているからか、あるいは喘息の持病があるからか、ミーナの肌は透明な薄紙のように白く、血管はもちろん血の流れる様子までが透けて見えそうだった。女の子なら誰もが、こんなふうにありたいと願うような美少女だった。

こんな調子。私は小説内における少女の描写がだいすきなので、そういう方はぜひ読んでみてほしいな。ミーナのふわふわの髪の毛の描写もいいよ…

しかしミーナの魅力はその可愛らしさだけではない。

 ミーナという子供を一言で説明しようとすれば、喘息持ちの少女、本好きの少女、コビトカバに乗る少女と、さまざまな言い方ができるだろう。けれど他の誰とも違う、ミーナがミーナである証拠を示そうとするならば、マッチで美しい火を点すことのできる少女、と言わなければならない。

ミーナはいつもマッチをポケットに入れて持ち歩いている。マッチは彼女のポケットの中でカサコソと音を立てる。

芦屋の大きなお屋敷の中では、火を点すのはミーナの仕事で、その様子は朋子に「ミーナが魔法を使ってどこからか明かりを運んできたのではないか」という錯覚を起こさせるほど美しいものなのだ。ミーナと火とは関係づけられて描かれている。

「流れ星は、死んでゆく星なんだよ。知ってた?」
 ミーナが言った。
「えっ、本当?旅行している星かと思った」
「ううん、違うの。流れ星がきれいに光るのんは、地球の引力の引っ張られて、空気との摩擦で燃えてるからなんやって」

それだけではない。

ミーナはたくさんのマッチ箱を集めていて、そのひとつひとつに、マッチ箱の絵にまつわる物語を書きつけている。シーソーに乗った象と子どもたちの物語、三日月に腰掛ける二匹のタツノオトシゴの物語、羽を繕う天使の物語、ガラス瓶に流れ星を集める少女の物語…

小説の中に別の小説や物語が出てくるときは、ちょっと注意して読まなくてはならない、というのは大学で先生に習った鉄則。そう言いつつ、この物語たちはどれもすごく素敵だから、読み返すたびに「なんていいんだろう…!」と感動してしまう。

ミーナはこのマッチ箱たちをベッドの下に大切に隠している。そして、家族をはじめとして誰にも見せていないマッチ箱の物語を、朋子にだけは読ませてくれる。朋子とミーナは従妹でもあるけど、それ以上に大切な友人としての関係性を1年間かけて紡いでいく。

ふたりの少女の物語という点は先ほど紹介した『蝶々の纏足』と共通しているはずなのに、『ミーナの行進』にはまた別の魅力があって、すごくおすすめです。ページのところどころに差し込まれた絵もかわいい。


恩田陸『私の家では何も起こらない』

続いて紹介するのは、恩田陸さんの『私の家では何も起こらない』。

 私は壁の絵を見ている。
 彼の頭の後ろに掛かっている絵を見ている。
 それはひとえに私が退屈しているからなのであるが、彼はいっこうにそのことに気付いてくれない。
 私は醒めた紅茶を一口飲み、欠伸を噛み殺す。

「私の家では何も起こらない」より

***

実は私は恩田陸さんの小説をほとんど読んだことがない。

今はっきりと読んだのを思い出せるのは、この『私の家では何も起こらない』と、『蛇行する川のほとり』という小説だけ。

読んだことがないなりに、この『私の家では何も起こらない』という小説は好きだと思った。確かはじめて読んだのは中学生のときだった。タイトルに惹かれて図書館で借りたのだったと思う。

とある一軒の家にまつわる少々不気味で不思議な物語が連なっていく本作は、すこし肌がぞわっとするくらいの適度なこわさ。

私がいちばん好きなのは「僕の可愛いお気に入り」というやつ。

 本当だよ。みんなは僕は嘘をついていると思っている。そんな女の子なんかいやしないと馬鹿にしている。そのくせ、あの子を紹介するよ、というとみんな後退りをする。露骨にいやな顔をする子もいる。
 みんな、臆病なのさ。

「僕の可愛いお気に入り」

まずこのタイトルが好きなのはもちろんのこと、語り手の少年が狂気じみているのがすごくいい。

読み終わった日の夜にどきどきしながらふとんにもぐりこんだのは、「私は風の音に耳を澄ます」、そして「奴らは夜に這ってくる」というやつだ。

1つ目はともかく、2つ目に挙げた「奴らは夜に這ってくる」なんて、タイトルだけで「えぇ…」となってしまう感じがしますよな。しかし、「私は風の音に耳を澄ます」も最高にゾッとするすばらしいお話なのだ。

 パッと頭上が明るくなりました。
 彼女が戸を開けたのです。久しぶりのことです。突然だったので、ますます秋の陽射しが眩しく感じられます。慌てて外の空気を吸い込もうとしますが、彼女の手は私の隣にあった壜をつかみ、たちまちサッと戸は閉ざされてしまいました。今日も外には出られないようです。…

「私は風の音に耳を澄ます」より

 さあ、ちゃんと毛布を掛けたかな?
 今夜も奴らのことを話してやろう。

「奴らは夜に這ってくる」より

こわいというより、不気味という感じ。

ここでたくさん引用してしまうのはもったいない気がするので、一部だけにしました。物語全体を読んで得ることのできる印象というのはあると思うし、この小説は特にそれが大切だと思うから。

この本のどこかに書かれていた気がするのだけど(違っていたら大変申し訳ない)、ひとが誰も死んだことのない家なんて存在しないらしい。

そういう意味ではどの家も幽霊屋敷なのだという。

私はこのことについて考えたとき、いつもお釈迦さまのある説話を思い出す。子どもを亡くした母親が、お釈迦さまに子どもを生き返らせてほしいと頼むのだ。お釈迦さまはこの女性に対して、「今まで死人を出したことのない家から芥子の実をもらってきたら、子どもを生き返らせてあげよう」と言う。女性は死人を出したことのない家を探しまわるけれど、そんな家はどこにもない。

そしていつかみんな必ず死ぬのだということに気づき、母親はそこでようやく子どもの死を受け入れることができるようになる、という説話。

この説話と『私の家では何も起こらない』には何も関係ないけれども、ともかく、この小説では生と死は同じ空間の内側で、混ざったものとして描かれている。過去と現在も非常にごちゃっとしている。

あまり言いすぎると魅力が損なわれてしまう小説だから、気になる方はぜひ読んでみてください。そしてあなたがどの物語に心惹かれたか、ぜひ教えてください。


吉本ばなな『TUGUMI』

 確かにつぐみは、いやな女の子だった。

第1章「お化けのポスト」より

***

そんな始まり方ある?という冒頭で始まる『TUGUMI』は、私がだいすきな吉本ばななさんの長編小説だ。

そもそも私の母が吉本ばななさんが好きなので、家にはばななさんの小説やエッセイがたくさんある。私は彼女のエッセイが大変好きだけれども、小説だったら『TUGUMI』を真っ先に思い浮かべる。

『TUGUMI』の主人公は白河まりあという名の女の子で、小説タイトルにあるつぐみという名の女の子はまりあの従妹にあたる。

さっき、小川洋子の『ミーナの行進』でもミーナのことを引用したけど、私は小説内における美少女の描写に目がない。

本作のつぐみもかなりの美少女として登場している。

 そう、つぐみは美しかった。
 黒く長い髪、透明に白い肌、ひとえの大きな、大きな瞳にはびっしりと長いまつ毛がはえていて、伏し目にすると淡い影を落とす。血管の浮くような細い腕や足はすらりと長く、全身がきゅっと小さく、彼女はまるで神様が美しくこしらえた人形のような端整な外見をしていた。

第1章「お化けのポスト」より

私の中では、小説内の美少女といえばミーナかつぐみか、という感じ(『蝶々の纏足』のえり子もだけどね…)。

しかしつぐみは口も性格もものすごく悪くて、まるで悪魔のような女の子なのだ。読んだことのある方はお分かりいただけるだろう。

もしつぐみのような従妹がいたら、相当厄介だと思う。

ミーナも話し方から多少は明るくて活発な印象を受けるけど、つぐみはその比ではない。つぐみが、まりあの死んだ祖父の筆跡を懸命に練習してまねてまで、まりあに宛てて手紙を書く冒頭のくだりなんか、もし自分がやられたら絶交するんじゃないかと思うくらいにひどい。

それなのに、なぜだかつぐみは驚くほどに魅力的なのだ。

「あたしは、最後の一葉をいらいらしてむしりとっちまうような奴だけど、その美しさはおぼえてるよ、そういうことかい」

第5章「夜のせい」より

彼女は身体は弱いけれど、それとは裏腹に心はいつでもめらめらと強く燃え立っているような女の子なのだ。そのギャップがいい。やさしくて儚い美少女ならばいくらでもいる。けれどつぐみはそうじゃない。

『TUGUMI』の中にお気に入りの台詞がある。

熱を出したとき、後につぐみのボーイフレンドになる恭一という男の子に対し、つぐみがおねだりをするところがあるのだ。

「何かひとつ話をしてくれ」つぐみは切実にそう告げた。「あたしは子供の頃から新しいお話をひとつ聞かないと眠れないんだ」

第6章「告白」より

この直後にまりあは「うそをつけ」と胸の中でつっこみを入れるけど、それでもそのつぐみの「新しいお話」という言葉について、可愛らしくてよい香りがする単語だ、とも感じている。ここがだいすき。

『TUGUMI』は夏のお話だから、夏に読むのもいいかもしれない。

まだまだ夏は先だけど、きらきら輝く海に出かけたり、夜にこっそり抜け出してお散歩をしたり、畳でごろごろしながらオレンジジュースを飲んだりしたくなるような、そんな小説です。


川上弘美『蛇を踏む』

続いては、川上弘美さんの『蛇を踏む』。

ミドリ公園に行く途中の藪で、蛇を踏んでしまった。

***

なんと、この小説も一文目からいきなりこれだ。

小説のタイトルを回収するのが最初の行というのは、ある意味珍しいのではないだろうか。夏目漱石の『吾輩は猫である』くらいしか思いつかなかった。もっとあるんだろうけど…(何かあったら教えてください)。

ともかく、主人公はいきなり蛇を踏む。

 蛇は柔らかく、踏んでも踏んでもきりがない感じだった。
「踏まれたらおしまいですね」と、そのうちに蛇が言い、それからどろりと溶けて形を失った。煙のような靄のような曖昧なものが少しの間たちこめ、もう一度蛇の声で「おしまいですね」と言ってから人間のかたちが現れた。
「踏まれたので仕方ありません」
 今度は人間の声で言い、私の住む部屋のある方角へさっさと歩いていってしまった。人間のかたちになった蛇は、五十歳くらいの女性に見えた。

「蛇を踏む」より

この小説は大学の授業で扱ったもののひとつ。

女になった蛇は主人公ヒワ子の部屋に居座って、自分を彼女の母だと言い張り、家事をして過ごす。そしてヒワ子に対して、蛇にならないか、としつこく誘うのだ。

「ヒワ子ちゃん、どうして蛇の世界に来ないの」女がかきくどく。
(中略)
「こちらに来ればわかるのよ。来ないで何を言うの」
「行くも行かないも、そんな世界はないんだから」
「ヒワ子ちゃん、だってあたしはあなたのお母さんなのよ」

「蛇を踏む」より

先生はこの小説について、異類婚姻譚という観点に着目しながら読むことができると話していた。

異類婚姻譚というのは、人間と人間ではない生きものとが結婚するという類の物語の総称だ。例を挙げるときりがないし、ここで書いてしまうとつまらないので、ぜひあれこれ考えてみてください。世界は異類婚姻譚であふれているらしいから、楽しいかもしれない。

手元に授業プリントがないのでちょっと忘れたけれども、異類婚姻譚には男が人間で女が異類の場合と、男が異類で女が人間の場合がある。どちらも最後はうまくいかない。

正体が発覚すると、女が異類の場合は男のもとを去るけれど、男が異類の場合はひどい扱い(殺されるとか)を受けるものが多いという。

そして『蛇を踏む』には異類婚姻譚の要素が散りばめられている。鳥と暮らしていたヒワ子の曾祖父の話だとか、ヒワ子の働いている数珠屋さん「カナカナ堂」の店主コスガさんと、その妻のニシ子さんとの馴れ初めだとか…

もうひとつ。

先生は小説内に出てくる蛇状のものを探してみなさいと私たちに言い、授業中に実際に探させた。小説のタイトルというのはやはり非常に重要なものらしく、タイトルにも「蛇」が登場している本作は、蛇に着目するのが妥当らしい。

しかし、この「蛇状のもの」というのが難しい。蛇というのはにょろにょろと直線的でもあるし、とぐろを巻けば螺旋になるし、ウロボロスという輪のモチーフになったりもする。

ほぼほぼ先生の受け売りになってしまったけれども、どうぞ作中で蛇状のものを探してみてください。

そして私がこの小説で何より印象に残っているのは、ごはんの描写だ。

「おかえり」女はあたりまえの声で言った。
「ただいま」返すと、女は立ち上がって造りつけの小さな炊事コーナーに立っていき、鍋の蓋をあけていい匂いをさせた。
「ヒワ子ちゃんの好きなつくね団子を煮たやつよ」女はいそいそとダイニングテーブルの上を台布巾で拭き、箸や茶碗を並べた。(中略)つくね団子といんげんを煮たものやおからや刺身が見る間に並べられた。コップも出してきてビールの蓋を栓抜きで開ける。

「蛇を踏む」より

この生活感に満ちた料理がたまらない。

仮にこの小説に出てくるごはんがオムライスとかハンバーグとかだったら、私はそれほど魅力を感じなかっただろうと思う。つくね団子といんげんの煮ものとか、おからとか、お刺身とか、そういう田舎っぽくて実家で食べるごはんみたいなのが出てくる感じが、なんだか素朴で好ましい。

『蛇を踏む』後半部は、より不思議で謎に満ちた感じになっていくけど、小説内の食事の場面というのはすごくいいなと思う。

尾崎翠『第七官界彷徨』

尾崎翠の『第七官界彷徨』をご存知だろうか。

 よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけての短い期間を、私は、変な家庭の一員としてすごした。そしてそのあいだに私はひとつの恋をしたようである。

***

これまた私が初めて読んだ、尾崎翠の小説である『第七官界彷徨』。

どうやら考えてみると、今回私が書いている小説はそのほとんどが、その作家を知ってからはじめて読んだ作品らしい。

この小説はすごく不思議な感じがするので、好みが別れやすいかもしれない。主人公の名前は小野町子。赤いちぢれ毛を持つ痩せた女の子だ。

分裂心理を学ぶ長兄・一助、蘚(こけ)の恋愛について研究する次兄・二助、そして音楽を学んでいる従兄の佐田三五郎の住む家で炊事係をすることになった町子は、風変がわりな家で日々を送る。

そんな彼女は、自分の名を詩人のような名だと感じていて、詩を書くことを目標にしている。しかし彼女が書こうとしているのは単純な詩ではない。

 私はひとつ、人間の第七官にひびくような詩を書いてやりましょう。そして部厚なノオトが一冊たまった時には、ああ、そのときには、細かい字でいっぱい詩のつまったこのノオトを書留小包につくり、誰かいちばん第七官の発達した先生のところに郵便で送ろう。

町子は人間の五感と第六感を越えたその先にある、第七官に響くような詩を書きたいと願っているのだ。それがこの小説のタイトルである『第七官界彷徨』と結びついている。

蘚の恋愛についての話が出てくるくらいなので、この小説の中で恋愛というのは大切ではないだろうか。さきほど引用した小説冒頭において、既に「私はひとつの恋をしたようである」と町子が言っていることもあるし、一助も二助もそれぞれ恋をしている。

ここで言ってしまうけど、町子は従兄の三五郎に淡い恋心を抱いている。

しかしこの三五郎が大変ルーズですごく適当な男の子なので、読んでいても「ん~!?」となってしまうところがたくさんある。

町子が「くびまき」が欲しいから買ってきてほしい、と頼んだときには、三五郎は買えなかったから来月にしてくれないかと言って、代わりに買ってきたボヘミアンネクタイと鋏を取り出す。

そしてその鋏で町子の長い髪を切り、おかっぱにしてしまうのだ。

三五郎の説得に一度は頷いた町子だけれども、髪を切る間に静かに涙を流し、その涙は眼から顎へと流れ落ちる。そして髪を切っている途中で、動揺してその場から逃げ出してしまう。

三五郎は町子を追いかけて行って髪をきれいに切りそろえ、その間に町子はすっかり平常心を取り戻す。この家にたったひとりしかいない女の子が泣くのは大事件らしく、二助は町子を気にして香水を与えるし、三五郎は若干慌てる。

これだけ読むとわけが分からないかもしれないけれど、髪を切った張本人である三五郎は、町子がもうなんとも思っていないことも知らず、散髪が済んでから彼女に対して次のように話しかける。

「こんな晩には、あれだね、あのう、植物の恋の助手では、あれなんだよ。つまり、つまらないんだよ。しかし、あのう、じつはこうなんだ。蘚の恋愛って、変なものだね。おやすみ」
 彼はいきなり私の頸に接吻をひとつした。

さっぱり分からないでしょう。

しかし私はわけの分からなさも含めてこの場面が大変好きなのだ。これは読んでみなければ分からない類のものだろう。

そして蘚の花粉、切られて飛び散った町子の細かい粉のような髪というように、粉にまつわる描写が私はすごく心に残っている。これに関してはあくまで私の感覚的な好みなのだが、なんだかいいな、といつも思う。

朝っぱらからピアノを弾きながら歌を歌う三五郎や、一助と二助のテンポのよい議論も見どころだけれども、引用すると長くなってしまうからやめておきましょう。余計に混乱を招くかもしれないしな…

それでは、物語最後に登場する、私の好きな柳浩六氏(一助の同僚の医者)が町子にかける言葉を引用して、この小説の紹介を終えようと思う。

「僕の好きな詩人に似ている女の子に何か買ってやろう。いちばん欲しいものは何か言ってごらん」

町子は一体何を買ってもらったのか、そして町子がしたという「ひとつの恋」とは一体どの恋なのか。

そういうことに着目しながら読んでみてほしい、不思議な小説です。

山尾悠子『夢の棲む街』

 街の噂の運び屋の一人、〈夢喰い虫〉のバクは、その日も徒労のまま劇場の奈落から這い出し、その途中ひどい立ち眩みを起こした。
 劇場が一切の活動を停止して以来、すでに数箇月たつ。他の仲間たちはとうに劇場に見切りをつけて別の河岸へ移っていき、ぶ厚く埃の積もった円形劇場の通路に足跡をつけるのは、今ではバクただ一人になっていた。

「1〈夢喰い虫〉のバクが登場する」より

***

山尾悠子の小説をはじめて読んだのは去年の暮れのことだった。

卒論執筆途中で、真っ赤な口紅の院生の先輩に「青葉ちゃん、絶対好きだと思う。先生持ってると思うから聞いて読んでみな?」と言われ、先生にねだってコピーさせてもらった『夢の棲む街』。

澁澤龍彥で卒論を書いた私が山尾悠子に出会うことは、最初から決定づけられていたのだと思う。なぜなら、山尾悠子は澁澤龍彥に大きな影響を受けているらしいから。

この1年間、卒論の小説『高丘親王航海記』をはじめ澁澤さんの文章を毎日のように読んできた私は、先ほど引用した『夢の棲む街』冒頭の文章を目にしただけで、あっという間に山尾悠子の虜になった。分かるひとは分かるだろうけれど、小説にバクを出してくる時点で既に澁澤みを感じるのだ。

しかし山尾悠子さんの文章は、澁澤さんの文章よりもっと繊細で、より幻想的で、ふわふわとつかみどころがない。いくつか私のお気に入りの本文を紹介してみる。

 街の夜空、プラネタリウムの偽の夜空のように街を半球型に覆った夜空は、いつも降るような星空だった。ここでは、星は星座を形造るためのみに在る。一個ずつが点として独立しているのではなく、数十個数百個が隙間なく連なりあって白い線となり、季節季節の星座、例えば人面花、天の海豚、番の蜻蛉、笛吹き男、天の気流を計る風見鶏、等々の輪郭を形づくっているのだった。

5「街の噂・星の話」より

今夜は帰れませんよ。羽根が降り始めましたからね。

8「浮遊生物の下降と羽根の沈殿」より

『夢の棲む街』は世界観が本当に独特で、これは好きなひとにはたまらないと思う。意味も何回か読んだだけではさっぱり分からない。

正直、私はまだ山尾悠子さんの作品を理解する段階まで来ていない。しかし、私の中で今いちばん流行しているのは間違いなく山尾悠子さんである。

彼女の創造する世界に強く惹かれたので、『夢の棲む街』だけではなく、彼女の他の短編集も読むつもり。実は手元に購入したばかりの『歪み真珠』と『ラピスラズリ』という小説があるのだけど、まだ読んでいない。

ああ、はやく読みたいな…

『夢の棲む街』は、それほど長い小説ではない。この濃厚な文章世界を余すことなくみなさんに味わってもらいたいので、本文はこれ以上引用しない。

その代わりに、短い本作の章タイトルを順番に書き起こしておく。

1〈夢喰い虫〉のバクが登場する
2〈薔薇色の脚〉の逃走と帰還及びその変身
3  嗜眠症の侏儒はどんな夢を見るか
4  屋根裏部屋の天使の群に異変が起きること
5  街の噂・星の話
6  街の噂・海の話
7〈禁断の部屋〉の女
8  浮遊生物の下降と羽根の沈殿
9  地下室の人魚の話
10  カタストロフ・崩壊と飛翔

この章立てに心がときめいた方々、ぜひ読んでみてください。単行本は少し高いから、もしお近くの図書館に彼女の小説があったら、それを借りてみるとよいかもしれません。

一緒に山尾悠子の世界を訪ねましょう。

岡本かの子『生々流転』

最後に紹介するのは、岡本かの子の『生々流転』という小説。

 遁れて都を出ました。鉄道線路のガードの下を潜り橋を渡りました。わたくしは尚それまで、振り払うようにして来たわたくしの袂の端を摑む二本の重い男の腕を感じておりましたが、ガードを抜けて急に泥のにおいのする水っぽい闇に向き合うころからその袂はだんだん軽くなりました。これが物事に醒めるとか冷静になったとかいうことでしょうか。…

***

同期の女の子がこの小説で卒論を書いたので、貸してもらって読んだ。

岡本かの子という女性は、かの有名な「太陽の塔」をつくった岡本太郎のお母さんにあたるひとだけれども、私の文学の先生曰く、「岡本かの子は息子の太郎よりよっぽど変わってると思います」。

夫と息子がいながら、愛人を家に連れてきてみんなで一緒に暮らしていたというエピソードがある岡本かの子。それでも夫や息子、愛人は文句を言わずに暮らしていたらしいから、すごいと思う。

私は彼女の『越年』という短編集を以前に読んだことがある。卒論の小説を決めるときに先生に勧められ、「金魚繚乱」と「家霊」を読んだのだった(私は「金魚繚乱」の方が好きだった)。

ただ、今回読んだ『生々流転』は非常に長い小説で、ちくま文学全集の単行本だとおおよそ500ページ近くもある。岡本かの子の遺作だけれど、後半部は夫の岡本一平が加筆したのではないかという話もあるようだ。

つまり、どこまでが岡本かの子の文章で、どこが岡本一平の加筆部分なのかはよく分かっていないらしいのだ。

本作の主人公は、乞食生まれの父と、その妾の母との間に生まれた少女である蝶子。

内容の前に、私はこの蝶子という名が本当に好き。しかも作中の人物たちは蝶子のことを「お蝶」と呼んだり「蝶ちゃん」と呼んだりする。より愛らしさが増している気がする。

この蝶子という娘は美しく魅惑的で、男のひとを惹きつけてやまない。

蝶ちゃん、あんたは、あんた自身はまだ知らない。しかし、こういう弱い果が却って強い果になる。蝶ちゃん、あんた自身には知れないで、あんたの中に潜んでいる不思議な力があるのだ。そして僕は、あの声を聞いてから、眼の前の色も香もあるふだんの蝶ちゃんには少しうとましい感じがして来た。

上の引用は、蝶子の婚約者である池上という青年が蝶子について語っている部分だ。そして私がとりわけ好きなのは、蝶子のふんわりした魅力が出ている次の文章。

もっともわたくしとしても、年齢からいってそろそろ人恋しい時代で、心の中にうずく痛痒い情緒につれ、学課の暇には歎きの面持で花畑をさまよったり、遣る瀬ない肩の落し方をして果樹園を縫い歩いたりしないことはありません。(中略)だがわたくしが人恋しがる気持はそんな単純なものではありましょうか。それならまことに始末がよいのですけれども。

「歎きの面持で花畑をさまよったり」、「遣る瀬ない肩の落し方をして果樹園を縫い歩いたり」する蝶子、最高。そしてこの表現も最高。

しかし蝶子はなかなか強かな女の子で、自分の女としての魅力をきちんと理解している。そして家に出入りしているお金持ちの青年池上、蝶子の通う学園の園芸手葛岡というふたりの男性との三角関係について、次のように考える。

敢えて恋とか愛とかそんなものでなく、ただ頼もしい男性の友だちというものを得られたら、わたくしはどんなに嬉しいでしょう。

それどころか蝶子ちゃん、葛岡が園芸手をクビになったときには、池上をうまく言いくるめて、自分だけではなく葛岡の世話をさせようとするのだから、とんでもない。

それも葛岡と池上とどちらかと結婚するというわけでなく、ふたりと「頼もしい男性の友だち」、言うなら恋愛関係ではない友人関係として仲よく助け合って生きていけたらいいのに、などと本気で考えているのだからすごい。

これだけだと「一体蝶子ちゃんはどんな子なのよ…」と思われるかもしれないのだが、私は蝶子がとても好きである。

ここまで紹介してきた他の小説の少女たちのように、蝶子もまた魅力的な女の子だから、そこは誤解なきようにお願いします。

作中で私がいちばん好きなのは、妾の子として育った、幼い日の蝶子が、父の正妻に育ちを馬鹿にされ、「おうちへ帰るう—」と言って泣きじゃくるシーン。そこが一番好きだったな。胸がきゅうとなるのだ。

本作は恋愛の要素がいっぱいあり、かなり長くてややこしいけれど、小説のあちこちに見られる比喩や日本語の表現がすごくきれいで情緒豊かなので、ぜひ読んでみてほしい。

読み切るのに骨が折れる分、よい読書の時間を得ることができると思う。


おわりに

いかがでしたでしょうか。

思った以上に長くなってしまって、自分でもびっくしています。もうすこしコンパクトにまとめる予定だったのだけど、気がついたらこんなことになってしまいました。

大学の同期がいつぞやに言っていたけれど、「世界は広いというより、深い」らしい。読書の世界だってきっと同じだろう。

みなさんの知っている小説、知らない小説、様々かもしれないけれど、この記事を読んでくださったみなさんの世界が広がり、深まりますように。

そのきっかけになれたら幸いです。

私ももっと世界を広げたり、深めたりするために読書の旅を続けていきます。もし「この小説が好きならこれも絶対好きだと思う!」とか、「その本読んだならこれも読んでみてほしい!」とかありましたら、何らかの方法でぜひ教えてください。大喜びします。

そして夏ごろには、また本に関する記事を出せたらいいなあ。

それではみなさん、よい読書の春を!

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