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◆愛しい人の生死に直面したときの負エネルギーを涙以外に変えた方法① 〜心と肉体の果てに残るもの〜

「わたし、あと十年で命を限ろうと思っているの」

大事な人に不意に伝えてみる

そんなこと言わないでと泣きそうになる人
ただ、うつむき黙ってしまう人
自分もそうしたいと賛同するふりする人
またかと呆れて話題を逸らす人
大きな腕で抱きしめてくれる人

みんなわたしを理解しようと接してくれる大切な人

でもどの言葉もわたしの思考を止める力にはなり得ない
わたしの真意を理解してくれる人はいないのだと

笑顔で「ありがとう」と返す

生きるために死が必要なのに
どうして死=最期であると書くのかしら

わたしは、命の限りは「褒美」であることを、「余命の仮宣告」記事でお伝えしました。

輝き生きるために命の限りを目標として設定するのです。

先日、同じような目標設定している方とお話しをしました。

「俺は六十歳で死ぬと思う」

彼はまだ二十代です。
四十年後を見据えて、具体的な未来設計がすでに完了していました。まちがいなく、彼は六十歳前後で命を限るのだろうと感じ得ました。なぜなら彼の日々生活における「食」「睡眠」「思考」は相当に滅茶苦茶だからです。こういった生き方を仮に四十年継続していくならば、どうしたって人間の脆い肉体生命エネルギーは到底平均寿命とやらに到達前には使い切ってしまうのでしょう。

彼には大きな夢があります。

夢を確実な成功画へと描き切るために命のエネルギーをどう使うか自分の人生を計算しつくしている結果なのです。

食事を摂る時間すら勿体なく、睡眠時間を削って作業することに価値があり、常識的な思考を切り捨てて、痛みを感じつつも体が動く限り走り尽くす。次第に本当に身体の限界がくれば、自然にストップがかかり、倒れ込むようにして休息に入ります。

わたしもずっと続けている生活です。
もちろん彼ほどストイックにはできませんが、常識的な食生活、睡眠時間はわたしの心身の健康には関係なく、むしろ他人に心配されることは余計なお世話にさえなりうるのです。どこまで無理をすれば倒れるのか、動かなくなるのか、自分の思考と体の限界は把握し切っています。命の限りと決めた年数の間、正常に稼働し続けることを想定した長距離マラソンだから、ゴール後、それ以上走る生きる必要がないのです。

でも彼のあまりの生活ぶりに、「無理しないでね」とつい口を開きかけてしまった自分に気づきました。

そういう命の使い方には一番理解ができると思っていたのに、わたしは本当に彼の生命の時間が一日でも延びることを望んで発言しようとしたのかと、己の痴鈍さに一気に恥ずかしさを覚えました。

命の時間の長さと幸せは比例しない
ただ延命することには価値はない

それでも、

大切な人と
一日でもそばにいて、
一時間でも長く隣で、
一分でも話を聞いて、
一秒でも触れていたい

自分の究極なエゴイズムに人間臭さを感じてしまいます。
大切な人の愛をこういった形でしか感じ得られない自身の不器用さにも気づきました。

今度彼にも話してみようと思います。

「わたし、あと十年で命を限ろうと思っているの」

彼はわたしの人生を素直に応援してくれるのでしょうか。


***


今回の「◆愛しい人の生死に直面したときの負エネルギーを涙以外に変えた方法」は、実はクロユリマガジンの最期を締めくくろうと思っていた、最終日に発表する予定だった記事です。

先に発表することになった経緯には、先日身内の死に直面した背景があります。
気持ちを振り返り、整理する中で記事として綴り発表することは、せめて四十九日を迎えてからと良識が働くはずでしたが、落ち着いて四十九日を迎える前に、さらに愛しい人の死も受け入れなければならなくなったのです。

「死」に限らず「生」に対しても
真剣に向き合うことには苦難が付きまといます。

ただ涙を流すことでは昇華しきれない思いを、不器用ながらも指が赴くままに描いていきますので、お付き合いくださいませ。


▶︎「死」を間近に感じる経験がない事実に、怯えていた幼少期

不惑の人生も振り返れば、どれだけ甘く愛されていた道だったのかしらと現在の足元を見て実感します。

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