大極殿の変遷について①【温故知新PJ①】
「歴史好きSE」といっているのに、歴史についてあまり書いていないな、とふと思いました。
それなら、今まで学んできたことのメモやレポートから、組み立て直して、アウトプットしたらいいのでは?
ということで、「古き(過去)を振り返って、新しいインサイトを得る」という意味を込めて【温故知新PJ】を始めます!
第一弾は、日本史ということで、「大極殿」について書いていきます。
大極殿は、古代日本において、政務と儀式が行われる場所でした。
わかりやすいところでいうと、奈良の平城宮や京都の平安宮です。
大極殿跡は、京都の千本今出川にあります。
本当に跡地として指標があるだけで、わかりにくいかもしれませんが、大体の場所をつかめると思います。
近い方は、見に行ってみるのも良いかもしれません。
まず、大極殿って何なのでしょうか?
第一に、大極殿とは王権の正統性を象徴する南北軸線構造に統合された殿舎配置の基点となる宮城正殿である。第二に、切石で、外装された基壇を有する碇石建ち、瓦葺き建築という恒久的施設であること、さらに第三に、それが四面廂という固有の構造をとることなどが重要な視点となり、第四に、その欠かせぬ用例として即位儀礼と元日朝賀がある。そしてそれが、時代とともに可変的である。
引用元:積山洋著『古代の都城と東アジア<大極殿と難波京>』清文堂 2013年
大極殿は、建造物としての特長のほかに、そこで即位儀礼や元日朝賀といった儀式が行われるか、が必須の要素でした。
「大極殿」の初出は、『日本書紀』皇極4年6月戊申条にみえる「天皇御大極殿」です。
(引用箇所に返り点があるのですが、横書きでは表現出来ないため白文にしました。)
皇極天皇は、日本の第35代天皇および第37代天皇(斉明天皇として重祚)です。
史上初の重祚で、2回天皇になった女性です。
舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女・天武天皇の母でもあります。
天智天皇や天武天皇が登場してくる、とても重要な時期に「大極殿」の概念が表出したのです。
しかも、皇極4年(645)といえば、大化の改新(乙巳の変)が起きた年です。
朝廷の動乱の中で、天皇がおわす場所について、「大極殿」の概念が固められていったのです。
また、皇極4年のあとに、日本初の元号である「大化」が定められました。
「大化」以前は、「天皇の名前+○年」(例えば推古2年など)でした。
中国王朝を意識している現れとも考えられています。
そんな転換期に現れた「大極殿」。
長く同じ場所にあったわけではなく、平安宮まで様々な場所に移っていました。
さて、「大極殿」の場所がどのように変わっていったのでしょうか。
①前期難波宮 652年(白雉3)~8世紀末
② 後飛鳥岡本宮 656年(斉明2)~不明
③ 飛鳥浄御原宮 672年(天武2)~694年(持統8)
④藤原宮 694年(持統8)~710年(和銅3)
⑤平城宮第一次 715年(和銅8)~740年(天平12)
(後期難波宮)
⑥恭仁宮 740年(天平12)~745年(天平17)
⑦平城宮第二次 745年(天平17)~784年(延暦3)
⑧長岡宮 784(延暦3)~794年(延暦13)
⑨平安宮 794年(延暦13)~1869年(明治2)
参照文献:笠山晴生編『古代を考える 平安の都』吉川弘文館 平成3年
平城宮と平安宮にいたるまでに、ここまで場所が変わっていたのです。
奈良や京都を転々としていました。
転々とするたびに1からつくっていたのではなく、前の大極殿の材木を使うので、前の場所は寂れていきました。
大極殿の場所をめぐる天皇のお話も面白いのですが、話が長くなってしまうので、今日はここまでとします。
※本来であれば、年号も漢数字で書くべきですが、横書きなので、読みやすさを重視してアラビア数字にしております。
また更新していきますので、気が向きましたらのぞきに来てください!