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生きようとするから好きなことが出来なくなる、が彼の最後の言葉だった

親友が遠い場所へ行ってしまいました。まだ亡くなったわけではありませんが、「世間から身を隠して誰にも会わないことにする」という行動は計画的な自殺の一段階なんじゃないかと僕はとらえています。

彼(大学院生・博士課程です)が世間から身を隠す表向きの理由の「好きなことをやる(研究に集中する)」も、嘘ではないでしょう。

実際にそうするのだろうなと思ってますが、その先にはやはり死が強く意識されていたように見えました。周りの人へ迷惑や負担をかけない死に方の話とか、何度もした記憶があります。

研究に集中したその先に、研究者として生きていける可能性が皆無だとは彼自身も思っていないようでした。しかしその可能性は極めて小さいとも認識しているようでした。

その姿は成功を夢見ているというより、死に方を選ぼうとしているように見えました。

本人の言葉でもありますが、彼は普通の人の普通の暮らしができるようなタイプじゃなかったから。


彼と僕は中学生のときから顔見知りでしたが、よく話すようになったのは高校生の頃でした。そこからカウントしても、十年以上の密な交流があります。


以前から僕は、彼が周囲への負担を最小にするための計画的な自殺をしようとしているのではないかという線を疑っていました。

そして最後に会ったとき(おととい)の様子とか、最後に通話したときの感じを考えると、彼が遠くへ行った後、もといた場所へ帰ってくるという未来は期待できそうにないと思いました。


おとといは、共通の友人も含めて合計六人ほどでお酒を飲みました。

お互いの近況を話し合う中で、彼が四月から音信不通になることも話題に上りました。

しかし表向きは「研究に集中するため」という隠れ蓑をかぶせてあるので、深刻な雰囲気にはなりませんでした。計画的ですね。

和やかなムードで笑い合って解散しました。まるで単なる楽しい一日のようですね。

僕が肉眼で見た彼の最後の姿は、電車を降りていく瞬間でした。

これは何度かここでも話題に出している、この友達グループの別の友人が自殺したときも同じでした。


彼は熟慮した上で自分の人生の残りをどう使うか決断したように思えたので、言葉ではいろいろ質問してみたり自分の気持ちを伝えたりもしたけど、それ以上のやり方で止めることが僕には出来ませんでした。

この人は衝動的に死のうとしているわけじゃないし、すぐ死のうとしているわけでもない。

引き止めるというのは、彼のことを考えた判断ではなく、自分のそばからいなくならないで欲しいというエゴでしかないように思えました。


「四月になれば世間から姿を消すことを決めてから、僕は幸せだ。好きなことがやれるのだから」と彼は言っていました。

「多くの人が好きなことを出来ないのは、善く生きられないのは、生きようとしているからだ」と彼は言っていました。

生命の存続を考えなければ、みんな好きなことに集中していられるのだそうです。なぜみんなそんなに生きようとしているか不思議に思うのだそうです。

死ぬことはそれほど特別なことじゃない。生まれたということによって人間は不幸になる。死ぬことは悪いことじゃない。

みんなには幸せになってほしい。他人の不幸は嫌だ。自分を最も苦しめた母親ですら幸せになってほしいと願っている。

苦しみが存在しないでほしい。仮に周りが全員が幸せであっても、違う惑星の違う種族が苦しんでいるということが許せない。


彼と別れた後、僕はLINEで「最後に少しだけ通話するぞ」とメッセージを送信しました。

彼は「いいよ。ただし2時になったら絶対に終わる。」と返信してきました。

こうして通話が始まりました。現在時刻は3月31日の0時50分です。


「今日はありがとう。すごく楽しかった。最後に可能性を広げてくれて助かった。」僕は言いました。

「それは良かった。いつもたくさんのことを感じているみたいだから、もやもやしてないか心配だった。」彼は言いました。

「今日は単純に楽しかったよ。気になることは特になかった。」

「本当に?」

「うん。」

「僕もすごく楽しかった。」


「今日みたいに楽しいことをやるだけじゃ、そんなに足りない? どうしても去らないといけないの?」

「感情は間違う。楽しいことをやるだけでいいのなら、麻薬をやればいい。」

「人体に害がなければそれも一つの選択だと思うけど。」

「楽しいことは、だいたい害がある。」

「例えば3月に何回かやったボードゲームって、とくに害はなくない?」

「時間が失われる。」

「楽しいことよりやるべきことをやるほうが重要なのはなぜ?」

「それは好みなのかもしれない。結局、僕は永遠や真理に属するものに関心があって、偶然的なものを心から好きになることは出来なかった。とくに人間は好きになれなかった。」

「声を震わせながらそういうことを言うのは、不思議な感じがする。」

「感情は間違う。それに会わなくたって、気になる人のことは気にし続けるよ。」

「そっか。やっぱり、今日会ったのが人生で最後なんだろうな。」

「そうだね……。」


そして最後の通話のほんとうの最後で、彼は僕にこう言いました。

「みんな生きようとしすぎてる。もっと死んでいい。我慢しないでほしい。本当にやりたいことをやってほしい。生きようとするから、好きなことができなくなる。自分は今は幸せだよ。好きなことができるんだから。普通の幸せって、本当に必要? よく考えてみてほしい」と。

直接的な言葉にはしませんでしたが、彼は「好きなことをやりきって死んでほしい」と伝えたかったように聞こえました。ちょうど今から自分自身がやろうとしているように。

これが正しいあり方なのだという信念を強く持っているようでした。

彼の周辺の困難な事情なども勘案すると、その考えは一つの冷静で合理的な判断であり、尊重されるべきものであるように僕には思えました。

気持ちとしては引き止めたくて仕方なかったのですが。電話をしていて涙をこらえきれなかったのって、いつぶりだろう。書いてる今も泣いてるけど。


そしてついに、一時間ほど続いた通話にも約束の刻限がやってきました。

彼は押しに弱いところがあるので、こちらが粘ればあと三十分くらいは通話を継続できたのかもしれません。

今までに何度もそうしてきたように。本当は良くないことだと思いつつも、寂しかったから。

でもそれを今日という日にやるのは、不理解と非尊重に基づく侮辱的な行為であるように思えた。

それに、長期にわたる密な交流を経ても結局成長してないじゃん、と思われたくなかった。


だから、

「本当に出会えてよかった。中学のときから顔見知りだったけど、よく話すようになったのは高校であの漫画を貸したときがきっかけか。あのとき勇気を出してよかったな。今までありがとう。一番多く良い影響を与えてくれた人だった。じゃあまたね。もう、またねじゃないか。さようなら。」

と告げ、

僕のほうから通話終了のボタンを押しました。

2019年3月31日午前2時のことでした。





頂いたサポートは無駄遣いします。 修学旅行先で買って、以後ほこりをかぶっている木刀くらいのものに使いたい。でもその木刀を3年くらい経ってから夜の公園で素振りしてみたい。そしたらまた詩が生まれそうだ。 ツイッター → https://twitter.com/sdw_konoha