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ACT.71『更なる長い道』

旭川へ

 朝の普通列車に乗車し、のんびりと旭川駅に向かって進んでいく。既にH100形にも旅の案内人のような気持ちというか落ち着いた感覚が芽生え、安心感のようなものさえ同時に感じてくる。
 このまま麗かな日差しに身を委ね、30分程度で列車は旭川に到着する。今回は再び旭川に戻って…からの更に長い道を歩んで道東、北見市に向かい歩みを進めていく。何となしに、稚内まで既に行ったからなのか肩の荷が既に砂になってサラサラと流れていくような気持ちにもなった。
 冒頭画像は、そんな富良野線の朝の車窓の一部。旭川まではこうしたのんびりした車窓が車内を照らし、心地の良い朝を迎えて目的地に向かう事が出来る。しかし、訪問した時間のうちの大半は夜中を突っ切っての乗車だったのでこうした車窓に触れる時間は少なかったのである。

 改めて。現在乗車しているH100形。既に北海道内では標準的な形式に成長し、旭川では富良野線・そして石北本線に。また、宗谷本線の名寄までも活躍し、急速に活躍範囲を拡大させている。
 車両は自然環境をメインに走行する自然派な車両よろしく、ゴツゴツとした前照灯の主張が目立っている。4灯も光らせたその姿は、雪の中だろうと霧の中だろうと、ドライバーに乗客に逞しく守ってくれそうな逞しさをも感じるのであった。
 既に乗車している富良野線は、偶然の宿泊先の運によって既に4回目の乗車となる。訪問時期の富良野の象徴・ラベンダー畑に関しては全く目を触れる事もなく、そのまま用を終えて自分だけの観光コースに終始没頭していた。
 特段の用事もなければ、鉄道以外の目的から逸れる事はあまりないかもしれない。ラベンダーの喧騒には大半触れず、旭川が近づこうとしていた。

 富良野線の終点、旭川に到着した。富良野線を走行する普通列車は、富良野・美瑛方面から旭川までを走行している。頑なに(?)系統分離が実施されており、そのまま旭川を貫いて函館本線に乗り入れる等の列車は存在しない。
 観光客たちを輸送している札幌方面からの列車とは異なり、富良野線の普通列車は堅実な輸送の姿を見せている。
 8時を過ぎて旭川に到着すると、次の列車までの時間に余裕ができる。
 再び、電球色の照らす美しい駅の中を。そして木の暖かさが包む旭川の構内を進んで、次に乗車する列車を確認した。
 現在の旭川は、高校生向けのインターハイが開催中である。現在の北海道は、日本全国の学生たちのスポーツの研鑽の場を披露する場所として。日々の鍛錬の積み重ねを発揮する場として、若々しきエネルギーに満ち溢れている。
「自分はこんな歳の頃、何も出来なかったんだよな…」
という回想が、そうした装飾の中を歩いていると支配してくるばかりだ。折角の旅路の中でも、余計な邪念に後髪を引かれそうになる。

ハイパー・ディーゼルエクスプレス

 次に乗車する列車が、早速表示されている。改札の外からその列車名が表示された駅構内のLCDを撮影しようとカメラを向けた。
 特急・オホーツク号/網走行き。この旭川の駅から、鉄道有数の難所である常紋峠越えに挑み、最終的には石北本線の終着駅である網走に向かって走る列車だ。
 石北本線をそのまま進み、最終的には遠軽や美幌などで1泊するのであれば、ここまで早い列車に乗車する必要は発生しないのだが、今日の予定はそのまま旭川から北見へ。そして北見から札幌方面に戻って、札幌で1夜を過ごす事になっているのである。北見市ではピンポンダッシュ程度の滞在時間しか考えていなかった。…いや、そこまでは言い過ぎなのだけど。
 この特急・オホーツクは札幌を6時50分に発車する。そして7時台に岩見沢・美唄・砂川・滝川に停車。そして8時台に深川に停車し、8時30分頃に写真の発車標が示すように旭川に到着する。
 ここから石北本線。上川に9時台。白滝にまた停車し、丸瀬布に入って10時台。遠軽。生田原と停車する。留辺蘂で11時を迎え、自分の目的地となる北見には11時23分に到着だ。
 しかし、まだ列車は駆け抜ける。美幌に停車し、女満別に。最終的な終点、網走に到着するのは12時12分だ。6時間もかけて全力で駆け抜ける列車に、今回は乗車する。

 8時27分、旭川駅。列車が到着した。特急オホーツク1号・網走行き。ここでもまだ旅路は半分に到達したか否かな状態である。
 車両はキハ283系。かつての主力車両であったキハ183系の引退に伴って、置換え車両として到来した高運転台の気動車特急である。
 キハ283系自体はかつて、石勝線の特急列車である『おおぞら』に充当され、自慢の瞬足と振り子の走りを持ち味にして高規格な路線を活躍していた。
 しかし、キハ261系が石勝線特急の座につき。そして同時に石北本線からキハ183系が老朽化などによって撤退する事が決まると、まるで余生を過ごすかのような形でこの長距離の職務に入るようになった。
 現在はこうして規格の統一されたような車両が道内の特急列車の運用を固め、そして高運転台の車両は特急網を支える定番の顔となった。
 しかしかつては国鉄時代の晩年に製造された車両で、6時間にも近い長距離を走行していたのがこうして新しい主役に接してみると遠い時代のように感じられる。
 自分はあと少しでそうしたキハ183系による石北本線の特急列車時代に接する事が出来なかったが、実際に国鉄形の車両で旅をする石北本線はどのように映ったのだろうか。
 今となっては憧れの1ページに刻まれた幻である。

かき鳴らせ!!

 さて、キハ283系による石北本線の旅路が始まった。
 旭川を発つと、車窓には運転所に宗谷本線の線路に、少し細々とした情報の多い景色が映る。そうした街中のような情景を掠め、列車は一気に大地を蹴り上げるかのような力強さと。そして軽やかなエキゾーストを奏で、石北本線の自然美豊かな風景に飛び込んでいった。
 車両に積載しているエンジンは、制御付き自然振り子の全国普及。そして世界初となる『制御付き自然振り子』を搭載した気動車の開発に成功した『富士重工』の車両であり、現在も四国でなお活躍する四国2000系気動車と同じ、コマツ製のエンジンである。
 四国2000系に関してはそのエンジンサウンドに魅了され、土讃線での現役活躍時(現在も高知以南では普通に走っている)には足繁く通って聴きに行ったものだった。
 キハ283系に搭載しているエンジンは、直列6気筒のエンジン。N-DMF11HZA形だ。気動車の心臓であり、電車がパンタグラフから電気を得て走行するのに対して、気動車はこのエンジンを頼りにして走行する。そしてそのエンジンから放たれるパワーは、車両の息吹となり客席に座っていても力として体感する事が可能である。
 キュイィィィィィィィィィン…ゴォォォォォアァァァッ…
 あの感動と同じような気持ちが。四国で自分を魅了した懐かしさに近いものが迫り上がってきた。
 既にこうした事は先ほども記したように、夢の一翼でしかないのだが。この車両が石勝線の高規格な線路を全力で走行する時に乗車してみたかった。思いはその中に到達するのだが、この石北本線での転職でもその勢いは変化していない。
 写真は、道内でよく食べたお菓子、サイコロキャラメルと車窓。乗車時に抹茶味の饅頭と共に購入し、合計で400円。もう既に北海道のキオスクにも慣れてしまった自分がいる。そして216円というサイコロキャラメルの値段にも、
「旅の席だし北海道だから良いか」
なんて気持ちで、容赦なく買い続けやめられないでいる。胃のなかにポカポカ放り込み、気づけば北海道のお菓子購入で欠かせなくなっていた。

初見殺し?

 石北本線は、旭川から網走までに伸びるJR北海道の一大幹線だ。道東と都心を結ぶ為には必要不可欠な鉄道路線である。
 その距離は230キロ近くにも伸び、道内の果てしない長さの象徴のようなものとして君臨している。そしてその中には、いかにも初見殺しのような駅が存在しているのだ。
 旭川を朝の7時30分手前に乗車して、列車は上川・白滝・丸瀬布に停車する。そして次の駅に到着だ。
『まもなく、遠軽、遠軽です。停車時間は僅かです。お降りのお客様は、お忘れ物のないよう。早めの御支度をお願いします。ドア付近にお立ちのお客様は、開くドアにお気を付けください。また、お降りの際は足元にご注意ください。遠軽の次は、生田原に止まります。』
ここまでは通常通り。大橋俊夫氏による、いつもと変化のない特急列車の車内放送である。
『遠軽からは、進む方向が変わります。前後のお客さまとお話の上、座席の向きを変えてご利用ください。遠軽では、3分ほど停車いたします。ホーム上にある、飲み物やお菓子類の自動販売機を御利用のお客様は、お乗り遅れのないよう、発車時刻にご注意ください。まもなく、遠軽です。』
…っと…コレは自分の中でもよく事前調査をして正解だったなと足元を救われた話題だった。というか助かった。絶対に初見なら困った事は間違いない。
 そう。このもうすぐ停車する遠軽では、列車の進行方向が変化するのだ。その為、座席の転換をしないといけない。(任意であるかもだろうが)
 写真は遠軽停車中に撮影した記念の写真だが、こうして座席を転換して乗客の協力を仰ぐためにも。そして石北本線の構造上の問題として。この遠軽は頭端式の駅になっている。しかしながら最初実際に遭遇すると本当に戸惑う。

※写真のJR四国・特急『うずしお』はなんと2回も方向転換をする事で有名な列車だ。岡山〜宇多津。宇多津〜高松。高松〜徳島とこの3つの区間で方向が異なり、乗車しているだけでも面白い…のだが、実際に乗り通している乗客にとっては落ち着きたい気持ちに水を刺される気分だろう。

 実際、こうした途中に方向転換をする特急列車はJR北海道の『大雪』・『オホーツク』に限定された話ではない。日豊本線のJR九州・ソニックに予讃線と本四備讃線を経由して瀬戸大橋を渡り、岡山に向かうJR四国・うずしお。そして智頭急行との直通の為に上郡で岡山からの方向転換をするJR西日本・スーパーいなば。
 幾つか乗車してきたが、やはり初見での方向転換を伴う列車の乗車には焦らされるというのか
「おぉ、ちょっと腰を上げるかぁ…」
といった重たい気分にさせられる。
 特に現代の人間にとっては、こうした部分で人の細かい付き合いやコミュニケーションでも大きな幅を感じてくる。
 少しだけ億劫だったが、前後が空席ならそこまで苦労はしない。難所をどうにかクリアした。

※その再会はまさに運命としか言いようがないだろう。遠軽での方向転換中に、稚内で相席した旅人に再会したのであった。
(注:この写真は相手の許可を得て使用しております)

 そして、遠軽は自分にとって再会の場所でもあった。方向転換を軽く済ませ、駅を少しだけ眺めていると。
 手を振って自分に向かってのアクションをして下さる方がいた。お?と軽く反応すると、まさかの最長片道切符での旅路に向かっている方だった。ここで稚内〜旭川以来の再会になったのだ。
「え?こんな偶然あります?」
「同じ列車でしたね。笑」
「いやぁ本当に…意外すぎです…」
旭川四条付近のネットカフェで夜を越し、石北本線を更に南下しているところに遭遇した。
 更に話をし、近かったのに何故遭遇しなかったのか…という話になったのだが、どうやら指定席に向こうは座っているようだった。そりゃあ遭遇しないわけだ。遅れたが、自分は自由席に着座中。いよいよ北見までの旅路は終盤を迎える。

名所を乗り越えて

 最後、北見までの旅路の中に北海道…ひいては鉄道界全体にその名を轟かせた有名な場所をこの列車は通過する。
 常紋峠だ。北海道鉄道屈指の山間部突破に関する難所であり、この区間の突破へ向けて幾つもの名車たちが挑んでいった。
 遠軽を越えると少しだけ手持ち無沙汰な気分になり、何か吹っ切れるような感覚からの全体の力が抜けていくような気持ちで外を眺めていた。
 と、こうして車窓を撮影しての暇つぶしなど。山間部を列車は突き抜けていく。突き抜けてゆくエンジンの鼓動が、脱力した身体を打ち付けたのであった。

※石北本線の難所、常紋信号場から先。生田原に向かうまでの常紋越えは蒸気機関車が主流の時代から難所であった。大正の貨物機・9600形が後輩となったD51形の仕事を助け、難所を駆け上がる姿は多くの鉄道ファンを魅了した蒸気時代の北海道鉄道の1ページである。(写真は倶知安の9600形)

 さて。少しだけ常紋峠に関して解説しておこう。
 常紋峠。それは石北本線を語るに欠かせない難所である。
 石北本線の生田原付近に聳える難所で、貨物用蒸気機関車たちはこの場所で力を全力で振り絞って喘いだ歴史を持つ。
 常紋信号場から勾配は25‰。‰…パーミルと読むのだが、コレは『列車が1,000メートル進む毎によって25度の傾斜と地平との差が待ち受ける』という事を示している。
 石北本線の蒸気機関車時代には、貨物列車に全国ヒットした貨物用のD51形を主に投じていた。そんなD51形を支えるように、後方から押し上げて山を登っていったのは大正からの堅実な老兵・9600形だったのである。主に9600形の石北本線補機の運用は、生田原から留辺蘂の間で行われた。後にこの仕事は、入換の仕事やローカル線の牽引で力を尽くしたディーゼル機関車・DE10形に交代する事になる。
 現代もこの区間では貨物列車が主ではあるが、列車の最後部に補機を装備し、常紋信号場・生田原・留辺蘂の強烈な山々に挑んでいる。
 旅客営業となるJR北海道は高出力なディーゼル車を投入し、この峠に。難所に立ち向かったが貨物列車は先頭の機関車だけの力では足りず、後方に補機を併結している。この策を実施する事によって、常紋峠での出力強化で楽に峠の突破が可能な他、途中の遠軽では機回しの必要性がなくなる。一石二鳥の策でもあるのだ。

常紋を登った先に

 キハ283系の突き抜けていくエンジンサウンドに魅了され、そして力を抜いてリラックスしている間に、列車は常紋峠に挑み生田原・留辺蘂を乗り越え石北本線の難所を突破した。
 夏晴れの空に出迎えられ、北海道有数の都市である北見に到着した。今でも鮮明に記憶しているのだが、この時の空は誇張表現抜きで滞在中抜群に良い空だったと思う。順光線・逆光線がここまでハッキリする夏の状況もないのではという位、太陽の力が漲る空模様だったと思う。
 北見に到着したのは11時23分。特急列車でもこんなに時間がかかるのか、と列車は身を持ってして教授してくれる。
 特急オホーツクは車掌のテキパキとした動作を済ませ、常紋峠越えの小休止もそこまでに網走に向かい発車していった。
 記事を記している今、網走・オホーツク海岸の方面は流氷観光に冬季の季節が最も盛りを迎える時期だろう。そんな中、雪も全くない北海道の情景を淡々と打ち込んでいる状況。もう少し長い目でお付き合い頂きたい。

 駅を早速、物色していく。
 反対側のホームに、見慣れない朱色の気動車が停車していた。
 キハ40形である。しかも朱色という事は、首都圏色であり往時の姿を再現した復刻の装いである。滞在時間にそこまでの余裕はない(もう既に断言)中での訪問になるのだが、そんな中で遭遇したのは奇跡である。
 他にJR北海道ではキハ40形にダークな色調の宗谷急行色。そしてツートンカラーと復刻色を多くキハ40形に採用している。
 決して多くはないが、出会えると嬉しい存在。特に国鉄が好きな自分にとっては、嬉しいものになった。

 北見に下車して、最初に目に飛び込んだ首都圏朱色の姿がこれである。
 駅のホーロー看板。そして鉄道の演出に買っているのではないかというくらいの美しさを伝承するような駅の柱の組まれし美しさが、この車両との出会いと感動を大きく動かしている。
 前面の胸元のような部分に書き記された白文字の検査表記。そして車両番号。コレが北海道の首都圏色の特徴である。他では見られない、この大地独自の姿なのだ。(現在でも並行して現塗装で実施しているが)
 ちなみに、だがこの色に関しては鉄道ファンの多く多用する『タラコ』呼びではなく、公式な鉄道用語に近い『首都圏色』ないしは特徴である『朱色』と自分は頑なに呼称する事を決めている。
 何か特段なプライドの支配などがあるわけではないのだが、こうして呼んだ方が何故か心に馴染みというか響く日本語の音の美しさを感じられるのだ。(自分だけだろうけど)

 駅の跨線橋を渡りながら撮影した1枚。
 後方には同じ形式のキハ40形が併結されている。この白を基調にし、黄緑の帯を巻いた姿は現在の塗装である。キハ40形の分割民営化後の継承された事を現代に語り継ぐスタイルだ。
 首都圏色との併結も、、大いに絵になってくる。鉄オタとしての映え写真を狙わずとも…何か脳にスイッチが入ったかのように車両を。駅を追っかけて自動的にカメラの電源を投じてシャッターを切っていく自分がいる。
 カンカン照りの夏空には相応しくない逆光の状況下だが、車両を折角なら撮影しておこうという気持ちで自分は溢れていた。

昭和を探して

 北見自体が昭和の鉄道のような佇まいを見せているが、入線する普通列車の車両自体も昭和らしい空気を保っている。
 この中にかつては特急運用としてキハ183系が使用されていたというのだから、その環境は更に絵になったのだろう。そんな事も考えてしまう。
 ホームを移った時に、こうした写真も撮影した。
 北海道のキハ40形は、現在でもサボを使用した行先の表示を実施している。車両にここまで手が入っておらず。そして国鉄時代からの伝統を頑なに(?)継承した姿だとは思わなかった。
 拡大気味にして撮影していく。
 車両がこうして見ると、何かキハ40形ではない別の何かに見えてくるものだ。
 それこそ、浅田次郎の小説・鉄道員に登場し冒頭の美しい冬の情景に花を添えているキハ22形のようにも見える。
 まさにこの写真は、JR北海道ではなく『国鉄時代』のカプセルのような写真だ。

 車両の検査表記と車両番号の表記。この表記方法に遭遇すると、何かこう北海道らしさというのか北海道の国鉄車両を撮影した気分にさせられる。
 車両に関しては、苗穂工場ではなく釧路車両センターで検査・点検を実施しているのだろうか。そうした部分も気になった。
 実はこのキハ40-1758。北海道のキハ40形としてはある運命的な経歴を持つ車両なのである。

 こちらの写真はキハ40形の改造歴やキハ40形の所属区所などを示す銘板だ。国鉄車両の中では標準装備の銘板になるのだが、車両の中ではこの銘板が大量に貼られ、所属区表記や銘板の数がとんでもない数になっている車両も存在する。(北条鉄道のキハ40形とか凄いのですが…)
 で、このキハ40-1758に関して。
 この車両、かつては分割民営化後にJR北海道色を身に纏っていた。しかし、ある出来事が転機となる。
 映画『鉄道員』の撮影だ。この連載記事でも多く取り上げている浅田次郎氏による小説なのだが、この小説の舞台が幌舞。そしてその幌舞の地のモデル…ロケ地となったのが幾寅駅だったのである。現在でも根強い人気がある…のだが、この映画撮影などによってキハ40形は一定の転機を迎えた。
 まず。原作に登場するキハ22形風に改造されたキハ40形の登場。キハ40-764がキハ20系列のような見た目の姿に改造され、首都圏色を身に纏い映画撮影に起用された。その後、根室・旭川方面で通常通りの営業に入った事は有名である。前面のキハ22形風な姿は勿論の事、車両側面に関してもバス窓のような雰囲気を出す為に改造され、相当なテコ入れが入った。
 そんなキハ40-764。車両としては映画『鉄道員』のブームの牽引役のような存在として、その後は平成11年から快速『ぽっぽや号』として根室本線で活躍していく。

 ここでキハ40-1758の出番だ。
 車両としては基本的にキハ22形風に改造されたキハ40-764だけの登板だったのだが、映画撮影後、幾寅周辺のロケ地としての人気は高まり、改造され劇中で使用した車両だけでは運用不足に陥ってくる。
 その中で起用された助っ人に、キハ40-1758が居たのである。映画撮影用に改造されたキハ40-764宜しく、キハ40-1758は首都圏色の姿になり、姿を揃えたのである。多客期の増結だけであったが、この車両の首都圏色…朱色のアイデンティティはここから強い縁の結び付きを発揮するのだ。
 そして、平成11年から運転された快速『ぽっぽや』号が平成13年に終了。ここで歴史は一旦終了し、再びJR北海道色に。鉄道員のフィーバーを見届けるようにして、彼は首都圏色を解除し、再び日常の姿に戻ったのである。

 そして、再び転機がやってくる。平成22年の事だ。検査出場の際、再び朱色の首都圏色を身に纏って帰還したのである。
 この復活は非常に大きいものだった。
 再びの首都圏色採用によって、キハ40-1758は鉄道ファンからの人気を再び呼び、通常の営業にも入りつつ、昭和の空気をそのまま閉じ込めた車両としてイベントにも起用されるなどの大活躍を見せている。直近ではこれもまた石北本線になるが、団体臨時列車の『上川駅開業100周年号』に起用され話題を呼んだ。
 平成11年の鉄道員ブームを知った計らいだったのか、奇跡的な首都圏色での再起用は話題を集める存在になっていった。
 撮影しているだけでも昭和らしさ。そして往時の北海道の鉄道が持つノスタルジックを引き出せ、その思いに耽る事の出来る首都圏色に遭遇できた事は非常に運が良い。
 そもそも、事後になって知ったのだが(京都に帰ってから)石北本線は、北海道有数のキハ40形運用の場所であり、鉄道ファンからは聖地のような路線になっているのであった。
 しかし、この歴史にもそろそろ終焉が迫っているようである。H100形の置換えの手がそろそろこの場所にも迫っており、令和6年3月のダイヤ改正で引退する車両が一部発生する事になった。
 国鉄の姿を楽しめる石北本線が少しだけ覗けたこの奇跡の時間は、自分にとって大きいものだったかもしれない。
 改めて北見で遭遇したこの夏の奇跡の時間に感謝をしたい。

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