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ACT.61『深川下りて』

留萌の隆盛にて

 かつて、留萌本線は北海道を代表する1幹線・1支線の1つであった。キハ22形による準急『るもい』・急行『はぼろ』。北海道の更に北を目指す路線の代表格として君臨した。
 昭和30年以降、昭和40年を近くしてこの場所は大いに活気を呼んだという。そして、こうした優等列車の走行する環境の中で留萌は増毛〜深川を結ぶ留萌本線においての中核としての機能を果たした。貨物・旅客。両面の発展はこの留萌で活気づいた。
 前回の項にて、留萌線ではなく『羽幌線』という単語が出現したのを見てくださった方は居るだろうか。(是非とも読んでください)この羽幌線は、留萌本線と共に大事な北海道北方面の産業として石炭関係。鉱石関係で留萌本線を支えた。留萌から分岐し、宗谷本線は幌延まで至っていたかつての留萌本線における動脈・静脈のような関係になっていた。しかし、羽幌鉱山は昭和45年に閉山してしまい留萌機関区の機関車運用に影響を与えてしまう。だが、この路線の存在は大きく廃線までは一時的に鉱山閉鎖までの昭和45年の時刻表には留萌本線と羽幌線は同じ路線としての扱いを受けていた。
 記事写真には、前回に書いた蒸気機関車・D61形の画像を再び掲載している。留萌本線は国鉄時代も地味な存在であったが、この留萌本線を鉄道ファンに知らしめたのがこのD61形蒸気機関車であった。D51形蒸気機関車を改造し、通常の路線よりも低規格な路線に合わせた蒸気機関車として留萌本線で活躍したのが、このD61形である。低規格な留萌本線の走行にあたっては(羽幌線も同様)従台車の2軸化改造を施行していた。
 そし、留萌には昔に炭鉱鉄道の活気も存在した。恵比島より分岐した留萌炭鉱鉄道に羽幌線の築別からの羽幌炭鉱鉄道の存在だ。分岐したこれらの鉄道は、芦別に赤平にと北海道の資源を輸送する為に大活躍した。
 鉱山の閉鎖があってからは、D61形は1両だけが最後の命を留萌でD51形と共通運用にしながら活躍したという。
 そして、こうした鉄道の存在や希少な蒸気機関車の存在が留萌に活気を更に起こしていたのだった。駅に周辺の町中は旅客に貨物の往来で大いに湧いていたのだそうな。

※当時の多層建気動車急行の一例。始発駅の都市で3つ近くの列車を連結し、分岐駅が近くなると分割してそれぞれの駅を目指した。

 留萌は大いに栄えた。
 そうした中で、当時の国鉄からは気動車列車・客車列車でも実施されていた(主には気動車がメイン)の多層建列車の目的地でもあった。
 離島ブームへの花として、こうした多層建列車に『天売観光号』が定期列車に併結されて運行されていた。現在では優等列車の影も全く無くなってしまったのだが、かつての盛況ぶりと鉄道の存在の大きさを感じるものである。
 本数も現在の片手間で終わってしまうような勢いではなく、かつての留萌本線は本数が10往復以上も存在していたのだから北海道北部に与えていた影響は本当に大きかったのだろう。現在は鉄道の資本…稼ぎ頭となっている通学輸送(高校生中心)も留萌駅から高校までの遠さ(道立・北海道留萌高等学校)が駅から2キロ近い遠さで影響を与えており、鉄道の力は太刀打ちができない。
 D61形を眺め、こうした隆盛に栄えた北部の町に思いを携えて。深川方面へと戻る事にした。バス停に向かって再び静かな街を歩いていく。しかし公園で遊んでいる親子を見かけた以外。バスの乗客以外。あまり本当にこの留萌周辺で人を見た…住民らしき人を見た記憶が今も本当に残っていない。鉄道の残した大きな存在。そして鉄道の残した功労を突きつけられ、バスへの道を歩むのだった。

暑さも抱えて

 石狩沼田・深川の方へ戻る為にバス停にやってきた。掲示されているバス路線を見てみると、どうやら留萌を通るバスの中には増毛は勿論として宗谷本線の豊富に向かうバスもあった。路線図を見たあの時にはよく分からなかったが、今で思うと少しだけでも羽幌線に対しての代替要素があるのだろうかと感じてしまう。こうして現在にもかつての活気の一部を感じられるのは幸せな事だ。
 暑さが自分を打ち付ける。バス停内に自販機を発見した時には心から安心した。思わず、炭酸飲料を購入してしまう。
 関西では中々見なくなった『アンバサ』を買った。カルピス系の飲料とは異なり、更に酸味を足したような。その中に於いてキュッと締まった甘さが喉を刺激する。そこに追っかけてくる炭酸のはじける感触。この瞬間がただただ安心だった。
 少し引き締まったようなこの甘さの感触、また何処かで体感したいものだ。自販機のあったバス停の向かい側に向かってバスを待機する。

 反対側バス停に向かうと、バス停に思わず驚いてしまった。ん…?な。なんのキャラクター?
 どうやら、この路線を管轄する沿岸バスのキャラクターだそうな。下調べの際にもこの沿岸バスのキャラクターがサイト内に登場し驚いたのだが、実際に現地でも遭遇すると更なる驚きを感じてしまう。しかもこうして、乗り場案内までしているとは。がっちりとした根の張り方に目を奪われてしまう。
 この1番乗り場の横は待合室…そして切符の販売も出来る窓口を備えている。自分が待合室内に入った時も地元らしきお婆さんが旭川方面に向かう為に切符を買っている様子があったのだが、それとの対比が非常にえげつない。
 利用者層的な?事を考えるととんでもない落差を感じてしまうのだが、そんな事はお構いなしにキャラクターがいる。バスを松高齢者に観光客に交じりながら、沿岸バスのキャラクターをじっくり眺めていた。日本に観光しにきた外国人なら
「流石はマンガの国だ!!」
と喜んでくれるに違いなさそうな雰囲気まである。鉄道を失った悲しみが少し何処かに消えていきそうになった。

※かつては本州⇄北海道の寝台列車走行が一定にあった。写真は上野から札幌を目指していたカシオペア。北海道新幹線の開業でその職業をクルーズに切り換えたが、こうした寝台列車は交通の進展によって。また新幹線・飛行機にその使命を譲って退役してしまう。

 かつての寝台特急ブームは、新幹線・飛行機に追随して『高速バスの台頭』があり、次々に廃止に。そして窮地へと追われその存在を失った。
 しかし、自分の今滞在している留萌まで来てしまうとその留萌ですら高速バスの地位は非常に低いものになってしまった。
 先ほど路線図を見上げた中に、札幌まで向かう『高速るもい号』という高速バスを発見した。こうしたバスの存在は非常に留萌にとって都市進出。そして中心部との繋がりを感じられる良いキッカケであるが、運賃は鉄道よりも安く…ではあるものの存在は劣勢である。
 往路に乗車したバスでもそうだったが、乗客数は疎であった。隣席に関しては空席で、窓が少し埋まる程度。
 留萌方面のバス交通を担う沿岸バスによると、
『留萌旭川線は生活路線として国および北海道より多額の補助金の交付を受けて維持していますが、著しい需要減退により2020年度に続いて再度運行回数を削減する』
との事だった。乗客の乗車は旭川駅前で一定にあり、そして留萌方面で何人かが同行動を取るかのように下車する。乗車したバスはそうして増毛に向かっていった。
 現在は留萌本線の石狩沼田方面以北をキャッチして運用されているが、今後の維持に関してはどのようになっていくのだろうか。

後を託して

 沿岸バスの待合室内で、様々な掲示物を見て。そして路線図などを見て時間を過ごしている。
 広大な路線図は宗谷岬付近、そして豊富に近い区画まで進んでおり自分が北海道の北部に滞在している事を改めて再認識した。
 沿岸バス待合室はなんというか、マンガやドラマに登場しそうな年季の入った昭和の空気を保っている。鉄道のあった場所は開発され、鉄道の跡地には地域のコミュニティセンターや庁舎を設置していく計画なのだという。鉄道の終焉が近くに接近しているのを感じた。それにしても、この周辺で滞在していると『寂しい』といった気持ちや何かを失った感覚を濃く感じてしまう。鉄道の背負っていた偉大さは大きなものだ。

 帰り「。深川方面に向かうバスが増毛からやってきた。沿岸バスの運行で設定されている路線だが、車両は道北バスであった。往路・旭川バスタッチから乗車した時と同じくして車両は観光・高速形の車両である。このバスに乗車して留萌本線の廃線区画を並走しつつ、鉄道へとルートを戻していこう。乗車し、再び座席に座り込む。キャラクターだらけかつ少しシュールであり、少し昭和らしさの残っていた留萌を去る。再び、あの駅舎を見かけたのだが駅舎の姿を目に映すたび、鉄道の失った町の痛烈な打撃を感じて仕方がない。
 バスは来た道と同様に軽快な走りを見せていく。山間部の留萌付近の道は、鉄道じゃなくてもマイペースに?走れるものだ。
 もちろん、高速の車両なので再び電源を突き刺して充電をする。鉄道からバスに転換されて少し良くなった事を挙げるのであれば、個人的には
・充電環境の確保
という点を挙げるだろう。北海道の交通手段で充電機構を装備する車両が少ないので、こうした装備の装着はバスだろうと鉄道だろうと装着されているだけで現代の旅人として恩恵に預かってしまう。

 JR北海道の社歌、『北の大地』にこんな歌詞がある。
緑が萌える 平野をまっしぐら
線路は伸びる 列車は走る
まさに、そんな歌詞が相応しいような緑の光景をバスは映して走っていく。車窓が本当に、窓を開けてこの風景を眺めていると心地よいだろうと感じさせてくれる光景であった。(開けなかったが)
 足りない事を言ってしまうのであれば、やはり線路がない事だろうか。この辺りを除外して考えても、この社歌の描く情景
我は今 北海道
がそのまま当てはまる。バスはそのまま突っ走っていった。
 留萌方面を走行するバスが駆け抜けていく深川留萌自動車道。この自動車道は道央自動車道と分岐してこの町の血流となり、平成10年に深川方面まで最初の区間を開通させた。平成25年を近くすると、留萌まで自動車道は達する。大和田まで開通したのであった。時代は流れて令和2年になり、いよいよ道路は留萌まで全通した。この自動車道は深川西ICk留萌に向かっては通行料金がかからない。法定速度を遵守して走行してもこの区間を通過するには1時間少しの70分しかかからず、そして旭川までは110分だ。冬季の除雪対策もしっかり実施されている。
 バスに関しては公共交通として鉄道と同じような補助金頼り、そしてまた窮地に追われた経営が続いているのだがこの留萌自動車道のもたらした影響は非常に大きい。
 留萌自動車道。そして時代が追いかけ少子高齢化も手伝った。昭和40年の4万人近くを数えた人口数は少しづつ減少し、遂に2万人に減少した。
 こうした人口減少と少子高齢化。また住民の都市進出が進行しその中には一般道の開発も手伝う。そうした中、女性の就労数が向上した。就労数の向上は同時に運転免許の普及率の向上でもある。こうした影響が共々に鉄道・バスと公共の交通機関に影響を与えた。本当に留萌の乗り物は現状、大変な状況での生活を日々余儀なくされているのである。

 バスに乗車していると、留萌本線の石狩沼田から留萌に向けたJR北海道の先に廃止を宣告した区間が目に飛び込んでくる。
 いつ剥がされても…といった感覚で撮影していたのだが、チラッと街で目にした留萌駅もそうとしてやはり廃線の姿は残酷に目に映されるものである。時々目に入る、JR北海道による
『危険・線路内侵入注意』
と敷地への侵入を警告する看板が見えたのが余計に自分の心を抉る。もうこの場所に鉄道は来ないのだ。鉄道はこの街を去ってしまったのだ、と本格的な心の覚悟を保った。
 目にある駅舎の写真が飛び込んできたので、写真を撮影した。留萌本線の駅舎なのだが、大和田の駅舎だ。留萌本線では数少ない貨車駅舎であり、このデザインの貨車駅舎は大和田駅が営業を終えると事実上の終焉になってしまう。
「北海道の無人駅というと、この帯を巻いた灰色の貨車駅舎」
というコメントもあるような。そんな駅舎だったのだがそうした駅舎も無くなってしまった。時代の進行を思うばかりである。

※貨車駅舎の代表例。しなの鉄道・平原駅である。ヨ5500形という車掌車を再利用した貨車駅舎だ。全国の貨車駅舎が建替えや廃止を迎える中で現在も健在である。

 遠景で分からなかった…と思うので、この駅舎が参考までに全景でどうなっているのかを少しだけ。
 この駅舎は『貨車駅舎』としてその名が呼ばれているように、『貨車を駅舎に、建造物に転用した駅舎』なのである。
 全国的にもJR・私鉄を問わずこうした貨車転用の駅舎は一定数あるのだが留萌本線はその中でも貨車駅舎の存在が多い路線であった。
 留萌本線は石狩沼田〜留萌と増毛方面に向かっていく中でも、恵比島・幌糠・大和田・瀬越・礼受・舎熊とその存在があった。
 そして、そんな留萌本線の駅舎を語る上で欠かせない貨車駅舎だが…この貨車駅舎に関する話は国鉄末期にまで遡る。時は貨物輸送の転換期。この時、国鉄は貨物輸送のヤード形態を廃止し、コンテナ載せ替え式の輸送に転換する事を決めた。
 貨車を目的地まで連結して、切り離し。そして新しい列車を組成して次の場所に走り出すヤード式貨物列車。そんなヤード式の貨物列車にも、密かに限界が近づいていた。操車場を使用してのこうしたヤード式輸送に終止符が打たれたこの末期の時代、国鉄は貨車の売り出しを開始したのである。まだまだ貨車自体は使用可能だし、頑丈な設計になっている。折角なので、建物や倉庫として使用してもらおうという算段だったのだ。
 この時、貨車駅舎や全国に販売に出された貨車たちは車輪が抜かれ手足がない状態に擬えられる事があった。そうした状況から、この貨車駅舎・貨車転用の建造物に関して『だるま駅舎』と呼ぶ事もある。
 しかし、ダルマ状になっても一部の範囲では貨車の識別や種車時代の経歴が判明するところがある。駅舎や建造物として使用が多いのは遭遇した大和田。そして写真で使用した平原のように車掌車なのだが、中には貨車転用にて有蓋車のワムなどが活用されている事例も存在する。
 北海道では本州に比較して多くの貨車駅舎の活用があった場所だった…のだが、こうした歴史に関しては留萌本線の部分廃止。そして駅舎の一部廃止という時代によって失われようとしている。

 バスは晴天の留萌を心地よく走行していく。鉄道の走る様子も、こうして爽快だったのだろう。バスから見える景色は、見渡していく限りの平野。山、直線的な道路だ。留萌本線が山深い環境を走行していた事が、北海道らしい情景から伝わる。
 だが、こうした情景が留萌本線のネックとも云うべき状況でもあった。留萌本線の生活に向いていない部分とでも言おうか。
 そもそも、留萌本線は前回記事の。そしてD61形蒸気機関車の解説部分でも少し触れているように、元々に背負っている使命が異なるのである。
 留萌本線は、元々が運炭路線として勾配をもっていた。その勾配は10‰。1,000メートル進行すると10メートルの高低差が広がるという単位である。鉄道では勾配を表す際にこうした単位を使用しているのだが、この10‰の勾配は鉄道にとって大きなものであった。
 鉄道にとって、勾配は最大限に緩和して走行したいものだ。重量制限、軸重の制限。はたまた両数の制限だってある。極力、真っ直ぐで平らで障害の少ない線路を走行したいと考えるのは計画時の発想というか必然的なものとでもいうか。
 こうして、留萌本線は上下で起きる1,000メートルに対して10メートルの高低差が生じるこのハンデを少しでも楽にしたかった為、この勾配を緩和する作戦に挑んだ。距離を引き延ばす必要が生じたので、峠方面に差し掛かるとS字を線路が描くのである。

※昭和の頃に北海道で運炭に使用されていた石炭輸送の車両。日本を動かす黒い宝石を満載し、日々この国土を駆け巡っていた。蒸気機関車が何十両もこの貨車を従え日本中を走行する姿は、昭和の経済成長を語るに欠かせない象徴的な景色である。

 S字を描いた線路は、その後鹿の子模様の山林に入っていく。そしてその後は、道なき道をずっと四季の環境によって進んでいくのだ。冬場には線路が雪で行く手を阻んでくるのである。
 そして、こうした運炭鉄道としての構造は沿線の生活に不利な状況・影響を残している。
 留萌市の住宅街を中心とした生活の基礎…は海岸段丘状の土地に広がっているのだ。対して、留萌本線は留萌に向かって山岳を走行し峠道を走っていく鉄道。生活区域との接点がなく、列車は終着に向かって走行していくのである。留萌駅は港湾に近い場所に面しているのだが、その中から中心市街を走行する事なく留萌本線は集結してしまうのだ。
 鉄道利用には中心市街と鉄道の距離が離れた状態となり、日常利用が困難な状態を形成している。高校通学利用もままならないとして、乗客の数も向上せず。利用客の集客も伸びないままに衰退の道を歩いていくのであった。列車通学。そして日常利用の道も限りなく低い状況がこの路線には晒されている。
 そのまま留萌本線を沿うようにして沿岸バスの路線に乗車しているのだが、さて何処で下車しようか。秩父別付近にバス停がある。ここで降車して、留萌本線に乗車しよう。そして深川に向い、鉄道にルートを軌道修正する事にした。

手放して先へ

 秩父別付近で降車して、そのまま留萌本線に乗車する…予定だった。
 しかし、秩父別付近では自分はそのまま転寝しており、時々首が刻々と頷いている…そんな状態であった。すると、バスは降車予定だった秩父別の付近を通過してしまう。降車ボタンも押せず。最終的にはバスでそのまま素通りしてしまう結果となった秩父別だったが、長旅の疲れがしっかりと体には刻まれているのであった。
 結局、乗車できなかったので予定を晒しておくとこの先、秩父別での降車が出来た場合は
・秩父別1丁目降車→秩父別駅まで→駅で待機し、そのまま留萌本線乗車(往復も考えた)
という行程であった。しかし、バスでそのまま秩父別1丁目を通過してしまったのでそのまま深川方面に向かって乗車していく事にした。ある意味で
「充電の時間が増えた」
として少し前向きに時間を捉え、移動していく。この降車ミスに関してはかなり大きく引きずっており、
「あぁ乗車しておけば良かったもんだなぁ」
という後悔というか。
「ちゃんと把握していれば良かった」
として自分に大きく刻み込まれている。石狩沼田から深川方面への廃線はかなり先になってくるのだが、それでも廃線までに乗車できない保証も考えると本当に焦りが帰ってからは募るばかりだ。
 更にはJR北海道のサイトを調べていたところ、石狩沼田駅はJR北海道限定・北の大地の入場券の発売駅。なおさら行かなくてはという後悔や焦りが自分を焦らして押している。もう少し温存した動きをしておけば良かった。また必ず廃線までにこの場所に戻ろう。
 そしてバスの車窓は絶えずこの光景を映し出している。地元・京都では既に
・1週間の休暇
という体で旅に出てきたが、それでもこうした光景…大自然の雄大さを目に映していると脳がぞくっと罪悪感に苛まれるというか、
「あの人は何をしているのだろう」
と少し感じる事がある。まだまだ、この行程を充分に受け入れて回る事が出来ていない自分の存在に気づいてしまうのであった。

 結局、バスは留萌本線と函館本線の分岐する都市駅の付近である深川で降車した。
 少し頑張って走れば、留萌本線の深川始発列車に間に合う感じだったのだがこの列車には走っても間に合わなかった。結果的には写真だけを撮影してこの場の終わりにしたのだが、やはり秩父別から乗車できなかった事はこの旅の中々に堪えた部分であった。
 留萌本線にとって、深川方と留萌方は全く違う。留萌本線の深川方に関しては鉄道の機能した場所であり、旭川に滝川方面に向かう鉄道の利用が盛んな場所なのである。
 深川周辺の市町村に関しても留萌本線の廃止を決める際の会議では鉄道の必要性を大きく訴え、その足の確保と必要性に大きく働いた。留萌本線に並行するバスも実際には鉄道と大半は並行にしての運転…ではなく、石狩沼田を近くすると沿線からは少し離れた北竜町を経由。深川までの通学輸送には対応していないものの、鉄道の存在に関しては大きくその必要性が求められた場所であった。
 結果的にこの場所では留萌本線への乗車は叶わず、廃線区間をバス転換された路線で乗車(バス負担というべきか)しただけであったが、それでも次回訪問した際と深川駅の様子は少し変わっているかもしれないと考え撮影を行った。
 深川の駅舎は、国鉄末期というか何かJRへの直前の建設にして鉄道の存在を大きく訴える街の中心部…ランドマークのような駅舎だと思った。改築された岩見沢に旭川と様々な北海道の駅舎を見ていると、こうして昔ながらの鉄道の伝統のようなものを現在にまで語り継いでいる駅舎の存在は喜びを感じるものである。

記憶縫合

 深川に到着した時、留萌本線の石狩沼田方面に向かう列車がギリギリ間に合いそうな予感がした…のだが、結果はそう上手く行くものではなかった。奥の留萌本線ホームにキハ150形による石狩沼田方面に向かう列車が停車していたのだが、呆気なくエンジンを震わせて発車してしまった。
「秩父別で間違えんと降りてればなぁ…」
という大きな後悔が最も大きく襲った瞬間である。あまりにも呆気なく、留萌本線乗車の夢は零れ落ちた。再履修はいつにしようか。北の大地の入場券に関してもあるのだし。
 結果として、その後の記憶を辿って縫合出来るような写真を幾つか撮影して次の方面に向かう列車を待機する事にした。再び、留萌方面には向かえない。今日中に、宗谷方面に向かわなくてはならないのだ。旭川付近を拠点にする旅は、始まったばかりにしてまだまだ先を数えている状況である。
 ちなみに。ここで少しだけの予備知識として留萌本線の地名に関する由来を掲出しておこう。今回、下車する事に計画していた秩父別…という場所であるが、実はこの場所にはアイヌ語でとある言葉の由来が存在しているのだ。北海道には先住民族・アイヌの人々が残した言葉が定着し、その言葉が日本に併合されてからも現代まで生き残っている。この深川に向かうまで、室蘭本線付近で通過した『ヤリキレナイ川』もアイヌ語が訛って現在に伝来している。
 秩父別…という言葉は、アイヌの言葉で『船の通過する川』という言葉が訛って現代に伝来しているといわれている。

 こうした運賃表の撮影も今回は実施した。かつては増毛まで伸びていた留萌本線の運賃表。少し前までは留萌までと線路の存在を語っていたのだが、そんな駅の存在も今では結果的に寂しいものになった。
 現在は函館本線の主要な駅と。そして旭川方面に伸びている路線が少し悲しげに引いている。略されてはいるのだが、北海道の交通として一定の利用があるのか新千歳空港・小樽・札幌までの運賃表記も存在した。この区間に関しては特急列車の延長上で乗車してそのまま向かっていく乗客も考慮してなのだろうか。
「次来たら、どのくらいになっとるんやろか…」
そんな気持ちを噛みつつの撮影だ。北海道の鉄道は、良くも悪くもどう転がっていくかが分からない。そうしたリスキーな思いが、自分の中に宿りし記録の魂を動かしているのであった。
 少し意外な点をちょっと上げる…とすれば、運賃表に旭川四条の駅名が入っていない事だろうか。この区間に関しては近距離になっていると思ったのだが。

 かつては増毛まで。そして留萌まで伸びていたのが、この先の留萌本線の運賃表である。
 現在は北一已・秩父別・北秩父別・石狩沼田…しか存在せず、いよいよ鉄道の終焉をこうして覗くと直に感じられるばかりだ。
 かつてはこの留萌本線には離島ブーム以外にも、観光列車の運転があった。知る人ぞ知る、観光列車なのだがその列車は『SLすずらん号』という。蒸気機関車を用いて。留萌本線の中にあった一時の観光ブームを引きたてる存在として運転されていたのだが、人気は一過性的なものとして終了してしまった。
 SLすずらん号、とは平成11年に放送されたNHK連続テレビ小説の『すずらん』に因み。そしてその撮影のロケ地として北海道・留萌本線の恵比島駅が使用された事に伴う観光ブームに便乗したものだ。作中の列車シーン撮影に関しては、当初はSLニセコ号で活躍していたC62-3を使用しての撮影を予定していたのだが予定が頓挫。しかし当時のJR北海道では使用できる蒸気機関車が存在しなかった為、なんとNHKの連続ドラマ撮影の為に蒸気機関車として真岡鐵道のC12-66を。そして客車に関してはJR東日本から旧型の客車を手配して留萌本線で撮影用列車として走行させる徹底ぶりだった。
 しかし撮影ではC12形が登壇したのだが、実際にその人気に肖ってロケ地観光・聖地巡礼の手助けをしたのはC11形であった。C11-171とC11-207がその役割を変わり代り担っていたのである。

※実際に真岡鐵道が動体復元したC12形は、遥々海をこえて留萌にやってきた。恵比島を明日萌駅に改称し、一時的にではあったが留萌本線に蒸気機関車のブームを灯した。(写真は真岡鐵道の復元したC12形と同じ形態の機関車)ロケ列車だったとはいえ、鉄道ファンに地元の人々の写真で現在もこの状況は語り継がれており、ロケ列車の走行写真や動画はネットでも見る事が可能である。

 しかし。そうしたNHKのドラマ聖地として留萌本線の恵比島駅が人気になり…と観光ブームを牽引した蒸気機関車の存在は、この路線では大きくならなかった。初年、平成11年では75日の運転日数があった『SLすずらん号』。しかし、運転日に関しては少しずつ減少し、晩年には運転日が1桁へと減少する衰退ぶりであった。
 こうした現象から留萌本線での蒸気機関車運転・『SLすずらん号』は平成18年に廃止。かつては留萌本線の隆盛を築き、聖地への足がかりであった蒸気機関車の汽笛は10年と数年で終了してしまったのだった。
 しかし、現在でも恵比島駅周辺のドラマロケ地(現代で言う聖地)はそのままになっており、昔を懐かしむファンがNHK連続テレビ小説『すずらん』の存在と共に色褪せない記憶になっている。恵比島駅はかつて明日萌駅として活気を起こし。留萌本線への活気を起こした立役者だった事を知る人々はどれだけいるのだろう。
 離島ブームで天北・宗谷方面への第二の道だった留萌本線。その最後に新たに燃え盛るキッカケを作ったNHKの連続テレビ小説の存在は、留萌本線最後の全盛期だったのだろうか。

 列車に乗車する為、深川駅ホームへと移動する。ここからは宗谷方面への移動の為、再び旭川市内に帰らねばならない。少し加工しての撮影になってしまったが、この先に再びの光が差すとすれば。明るい光彩を見る事が出来るとすれば。それは流星が燃え尽きるような廃線の時なのだろうか。そんな思いを抱えて、深川の駅を旭川に向かう。
 鉄道のカウントダウンを、切なくして自分は見届けた。かつては増毛まであり、ニシンに石炭。貨物輸送に栄え、その裏では離島観光のアクセスになり。そして最後はNHKのドラマロケ地となった留萌本線。いよいよ最後を迎えようとしている。

 電灯が示す先は、留萌ではなく石狩沼田だ。表示の貼られた後が、線路の断絶を。時代の幕引きを。少しずつ見せつけているようだった。
 なんとなく乗車できなかったので…として深川駅の留萌本線に関する記録だけでも撮影していたのだが、撮影していると何か余計に大きな寂しさが襲う。
「次は乗車するか…」
そうした気持ちをバネに変えて、関西で今は必死に日常生活に勤しむばかりである。
 いつになれば資金・計画がまとまってくるのか。自分にしてはかなり惜しい事をしたばかりだと思っても仕方ないのだが…あぁ、あまりにも大きな代償だ。

 かつて、この場所から煙を吹き上げてNHK連続テレビ小説の聖地へ向かう乗客たちを。そして離島に向かう乗客を。様々に思い出を詰め込んだ留萌本線の深川駅ホーム。
 現在は惜別の乗客を集め、最後の道へ向かおうとしている。この写真の撮影時には、自分以外にも留萌本線の駅名標を撮影している乗客(鉄道ファン)の姿があった。廃線のカウントダウン。JR北海道の影を見てしまった旅路だった。
 この時。深川駅は市の盛り上がりとして
『クラーク国際高校・夏の高校野球甲子園出場おめでとう!!』
の祝いの装飾に町の晴れやかな空気を改札外では保っていたが。
 しかし一方で改札内に入って列車を待とうとしているその時間は、留萌本線という1つの北海道の鉄路の歴史の終焉を感じる時間でもあった。
 廃線へ。そして北海道の今後を思って。新球場で微笑む若人の姿を心に刻んで。
 その先を目指そう。

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