見出し画像

アロマンティックの"結婚"について -NHK夜ドラマ「恋せぬふたり」-

NHK夜ドラマ「恋せぬふたり」をみて、アロマの私が思ったことを書き綴る。※ドラマ感想ではありません

私はアロマンティックを自認している。

アロマだとわかったのはここ最近。これまで"恋愛フラグ"が分からなかったり、距離感を間違えたりして、傷つけてしまった人たちにとても申し訳ないと思いつつ、ずっと感じていた世間との微妙なズレはこれか!と大いに納得した。感動すらした。

でも、そこが始まりだった。

恋愛感情がないというのは、例えだれかに恋愛的好意を持ってもらえても応えられないということ。その人がどんなに素敵で魅力的な良い人だとしても、そういう次元の問題ではないのだ。

アロマを知らなければ、「なぜか好きにはなれないけど、でもみんな良い人だと言うし…ただ自分自身の感情に疎いだけなのかもしれないし……」なんてモゴモゴ言い訳して付き合っては相手を傷つける、その繰り返しだったと思う。

それじゃあ、今は「私アロマだから!」と突き放せるかと言われればそんなことはない。

相手の感情に共感できない、分からないというのは存外辛い。私に好意的で優しい人、そして人間としては好きな人であれば尚更だ。傷つけたくない、応えたいという気持ちはあるのに、差し出せるものがない。仮に適当に見繕って差し出したとして、結局のところヒビが入るようにズレが生じて大きな亀裂になることを、これまでの経験で十分に知っている。

それで、私は「ごめん」としか言えなくなる。

一方で結婚したくないのか?と言われれば、そんなことはない。「結婚」というワードは、セクシャルの話をするときにはやや大きすぎるパワーを持っているけれど、細分化してしまうと「他人と生きる」ということだ。しかも法の下に他人を縛る権利が発生する。なんたるシステム。

世間からは、恋愛感情がない=結婚の意思はない、とすら思われたりもするのだけど、私はアロマを自認しながら、他人と生きる幸せを諦めようとは全くこれっぽっちも思っていない。

恋愛というプロセスを経て結婚すべきというロマン主義のなかで、アロマが他人と生きる方法を模索するのはなかなか難しい。正直に言えば、こればかりはお見合い結婚が主流だった時代に羨ましさすら感じる。

でも、ひとりで生きるのはやっぱり寂しい。心細さもある。今は仕事もあり、友人もいて、一人の生活はとても充実しているけれど、先は長いのだ。あるとき「帰宅したときに必ず自分で電気をつけなければならないこと」に心折れる日が来るかもしれない。(あ、この台詞にピンときたあなた、仲間です)

それで、私は私を幸せにするために、なるべく世間的障壁が少なく、これまでのズレの発生時のように誰かを傷つけることもない、他人と生きる方法を探した。そして行き着いたのは「友情結婚」。

友情結婚:恋愛関係にない者同士がお互いの利害の一致・考え方の一致等により、性愛はなくても、友情や愛情など様々な気持ちのつながりでwin-winな婚姻を結ぶこと

なんと有難いシステム。そうそう、これこれ。恋愛や性愛がなくても、家族愛のような絆で人生を共に歩めるようなパートナーがほしいのだ。

恋愛という気持ちの面がない分、むしろ冷静にあらゆることを擦り合わせて上手くやっていけるんじゃないだろうか。願望を込めてそんなことすら思う。

けれど、ここで新たな問題が生じる。友情結婚を求める人と恋愛結婚を望む人(結婚自体を望まない人はここでは省きます、ややこしくなるので)をどう見分ければいいのか、ということだ。恋愛は社会通念として皆念頭にあるので、「シスヘテロなんですけど恋愛結婚希望ですか?」なんて出会いの場で逐一聞かないだろうが、友情結婚の場合、今の世間では確認が必要だ。

「私、アロマンティックなんですけど、あなたの恋愛指向は?」

まったく、人権侵害もいいところな質問だ。ああ面倒くさい。普通に他人と人生を歩みたいだけなのに、なぜスタートラインに立つ前からこんなに苦労をしなきゃならんのだ。いっそアロマだけのマッチングアプリがあれば…

そうネットを回遊していたら、あった。「友情結婚相談所」だ。需要と供給の一致。

しかし、残念なことに(アロマは全国にいるだろうけど)「友情結婚相談所」という人生お助けシステムは一部でしか流通していない。つまり、都心。地方での希望はほぼ皆無だ。

そういうわけで、私は友情結婚のための転職と引越しを真剣に検討している。

アロマがマイノリティであることを認めざるを得ないときはこういうときだ。シスヘテロのマッチングアプリなら、このご時世田舎でも割と流通している。コロナ以降はむしろ主流になった。

アロマ(を自認し、オープンにしている人)が少数派である以上、仕方がないのだろう。マッチングの運営会社だって稼がねばならないだろうし、社会システムとはそういうものだということくらい知っている。

アロマンティックに対する解像度を、社会も、そして私自身も、もっと上げていけばきっと違う世界が待っているに違いない。そんな希望を持って「恋せぬふたり」に期待と不安を寄せつつ、考え事を書き綴っている。

―――――――――――

▼恋せぬふたり感想録

アロマの微妙な世間との"ズレ感"経験について

▼「アロマ」に初めて気づいたあの日の心境について
この名前を知ったとき、これまで色んな人に無邪気に傷つけられてきた私が報われるような気がした。ほっとした。同時に、腹の底がヒヤリとしたけれど、それには気が付かないふりをした。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?