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アヴィニヨンの危険な橋(フランス恋物語71)


Provence

8月の終わり、ニコラとの衝撃的な恋の終わりを経験した私は、フランス生活にもすっかり疲れてしまった。

ワーホリ期限は12月末まであったのだが、帰国も10月末に早めた。

9・10月は、パリを拠点にひたすら旅三昧の日々を送ろうと思っていた。

「帰国するまでは恋愛を自粛」というのも、新たな目標にした。

恋愛依存症の私が、果たしてそれを封印できるのかどうか・・・。


9月17日、私は3泊4日の南仏プロヴァンスの一人旅に出発した。

本来一人旅は好きではないのだが、一緒に行く友達がつかまらなかったのだから仕方がない。

ただ、在仏歴も9ケ月の私はフランス語にもだいぶ慣れ、電子辞書なしで旅できるくらいにはなっていた。

今回の旅で、自分のフランス語力がここまで試されることになるには夢にも思わなかったが・・・。

Avignon

旅の初日に選んだのは、世界文化遺産にもなっているアヴィニヨンだ。

パリからTGVに乗って、昼頃アヴィニヨンの地に着くと、外はまだ夏の陽気だった。

パリの感覚で長袖のシャツを着ているとすごく暑く、まだサングラスが必需品なくらいの日差しで、私はフランスの国土の大きさを実感した。

夏好きの私は、パリでは感じられなかった”残暑”という言葉を、この地で噛みしめた。

教皇庁や市庁舎などがあるアヴィニヨンの中心街は城壁で囲まれて、道は石畳が敷き詰められ、中世の雰囲気をそのまま残している。

Palais des papes d'Avignon

まずは、一番のお目当てである法王庁宮殿に向かった。

歴史好きな私が”アヴィニヨン”と聞いて初めに思い出すのは、「教皇のバビロン捕囚」である。

【教皇のバビロン捕囚】
1309年、ローマ教皇がフランス王の手でアヴィニヨンに移され、1377年までの68年間、教皇がローマを離れたことを、旧約聖書に出てくるユダヤ人の「バビロン捕囚」になぞらえてこう呼んだ。
「アヴィニヨン捕囚」ともいう。
 1303年のアナーニ事件でローマ教皇のボニファティウス8世が憤死した後、フランス人でボルドー司教だったクレメンス5世が教皇に選出された。
1309年、フランス王フィリップ4世はクレメンス5世に圧力をかけ、南フランスのアヴィニヨンに教皇庁を移させた。
それ以後、1377年まで約70年間、ローマ教皇はローマを離れ、アヴィニヨンに居ることとなる。
 また、1309~1377年の間のアヴィニヨンのローマ教皇の歴代はフランス人に占められた。
1377年に教皇はローマに帰還したが、翌年からはローマとアヴィニヨンに教皇が併存する「大分裂」の時代となる。

当時教皇の居城だった所は、現在博物館を兼ねた観光名所になっている。

嬉しかったのが、日本語のオーディオガイドがあって細かい説明もしっかり聞けたところだ。

日本語の観光案内を見かけると、この地には日本人観光客がたくさん来てるんだなと実感する。

ここは宮殿というより要塞といった雰囲気で、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂とは似ても似つかない。

どちらかというと、修道院→要塞→監獄とその時代によって用途が変遷していったモン・サン・ミッシェルを想起させる、そんな印象を持った。

当時の教皇も”捕囚”という名の通り、このものものしい建物で軟禁状態のような生活を強いられたのだろうか・・・。

【PepeとPapa】
フランスに住んでいると、キリスト教に関するフランス語も自然と覚えていくようになる。
教皇はフランス語でPape(パプ)というのだが、初めて聞いた時パパに似ているのが強く印象的に残った。
ちなみにフランス語の「父」はPère(ペール)だが、子どもが父親を”Papa”(パパ)と呼ぶことは普通にある。
調べてみると、どちらもギリシャ語の”父=papas”が語源らしい。
こういった語源の成り立ちを知ると、言語学習も楽しいものとなる。

Pont St. Bénézet

教皇庁宮殿を出ると、「アヴィニヨンの橋の上で」という邦題の童謡で日本でも有名な、サン・ベネゼ橋に行った。

【Pont St. Bénézet】(サン・ベネゼ橋)
12世紀に建てられ、1226年にアルビジョア十字軍により破壊された。
その後再建されるもローヌ川の氾濫によって何度も損害を受け17世紀には修復されなくなった。
現在は半壊のまま整備され、川の途中まで渡ることができる。
歩行者と騎馬通行者のために作られたものなので、橋の幅が非常に狭く、また前述のように老朽化も著しいので、童謡の歌詞にあるように”橋の上でみんなで輪になって踊る”のは不可能である。
実際に歌ったり踊ったりしていた場所は橋の下の島であったといわれる。

ベネゼ橋はかつて22のアーチをもつ立派な橋だったが、現在は、4本の橋脚と、2階建ての小さなサン・ニコラ礼拝堂が橋の途中に残っているだけだった。

私は橋を歩きながら、「橋が決壊したまま遺跡化してるのが、また趣があっていいのではないか」と前向きに捉えた。

Place des châtaignes

”Musée Calvet avignon”(カルヴェ美術館)を鑑賞した後、早めのディナーを取ることにした。

ディナーの場所は、教皇庁の横の小道を抜け、”Basilique Saint Pierre”(サン・ピエール教会)の裏手にある”Place des châtaignes”(プラス・デ・シャテーニュ)のレストランを選んだ。

プラス・デ・シャテーニュは小さな広場だが、周りにたくさんのレストランがあり、天気のいい日はテラス席で食事をすることができる。

私は食事そのものの内容より、緑と歴史的建造物に囲まれた景観に惹かれて、ここを選んだ。

Dragueur

私は一つの席に座り、ロゼワインと、プロヴァンス地方の郷土料理である”ratatouille”(ラタトゥイユ)と、牛肉を赤ワインで煮込んだ”daube de beouf”(ドーブ・ド・ブフ)を注文した。


料理を食べ始めると、横のテーブルに座っていた青年が、「あなたが食べている物は何ですか?美味しい?」と聞いてきた。

私が料理名と共に「C'est bon.」(美味しいよ)と告げると、彼も同じ料理を店員に注文したようだ。

フランス人の方がフランス料理に詳しいはずなのに、なんでアジア人の私にそんなことを聞くのだろう?

そう思っていると、その青年はテーブルと椅子を私に近付け、しきりに話しかけるようになった。

なんだ、ナンパか・・・。

私はできる範囲で質問に答えながら、彼を見た。

どちらかといえばタイプだが、「今は恋愛しない」と決めている。

しかも、ここは旅先で、何か間違いを起こしてしまうと、ゆきずりの恋になってしまう。

彼と話していくうちに少しづつ楽しい気持ちを感じながらも、「これ以上親しくなってはいけない」と思った。

私は自分の食事を終えるとさっさと会計を済ませ「Au revoir.」(さようなら)と言って逃げた。

まだ食事中の彼はあっけに取られ、引き留める暇もなかったようだ。


前日の睡眠不足と久しぶりに味わう暑さで、私はこの日すごく疲れていた。

アヴィニヨンの夜景の写真を撮りたかったが、一旦ホテルに戻って一眠りすることにした。

Retrouvailles

20時に携帯のアラームで起きると、夜景の写真を撮りにまた街へ出かけた。

この辺りは暗くなっても観光客がたくさん歩いているので、女一人で歩いても大丈夫そうだ。

法王庁宮殿もサン・ベネゼ橋もライトアップされて、昼とはまた違った幻想的な雰囲気でとても美しかった。


サンピエール教会に行こうとプラス・デ・シャテーニュを通ると、「Excusez-moi.」(すみません)という声が聞こえる。

振り返ると、ディナーの時ナンパしてきた青年が立っていた。

驚く私を前に、その青年はこう言った。

「ディナーの時、君を見かけて一目惚れしたんだ。

また会えて嬉しいよ。

さぁ、一緒に散歩しよう。」

ディナーで話した時、彼の印象は悪くなかった。

かといって、今日知り合ったばかりの男性と夜道を二人っきりで歩くのはさすがに危険だと感じ、私は丁重にお断りした。

彼はしぶしぶ諦めてくれたみたいでホッとした。


サンピエール教会の写真を撮ると私はホテルに戻った。

シャワーを浴びると、明日のアルル観光に備えて早めに寝た。

どうか、明日のアルルは無事に過ごせますように。


しかし、翌日のアルルで、私はもっと怖い目に遭うのである・・・。


ーフランス恋物語72に続くー

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