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小説「弦月湯からこんにちは」第12話(全15話)



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第12話


 弦月湯で個展を開きたい。暦くんがそう言ってきたのは、それからしばらくしてからのことだった。

「ねーちゃんからも承諾得てます。空いている期間があったら、2日間とかでもいいんですが」
「ちょっと待ってね」

 弦月湯ギャラリーの予約調整は、私が担当している。Googleカレンダーを見ると11月までまとまった空きはない。けれど、暦くんはいま、心が動き始めている。そして、何かを形にしようとしている。それを考えると、出来るだけ早い時期に個展を設定したい。

「2日間でもいいのね」
「はい」
「制作期間はどれくらい必要?」
「今回は写真作品の個展を予定しています。ひと月、いや3週間あれば形になると思います」
「わかった。そしたら、9月のはじめの水木2日間が空いているから、ひとまずそこで第一弾開催ということにしない? 11月以降にまとまった日程が取れるから、そこであらためて第二弾開催とさせてもらえないかしら。第一弾をプレイベント、第二弾を本イベントとしてプロモーションかけることも出来るから」
「マジっすか。それは嬉しいな」

 暦くんは、ルフィの笑顔になった。やっぱり最強、無敵の笑顔だ。

「テーマやタイトルは決まっているの?」
「決まっているけど、まだ内緒です」
「ケチね」
「まあまあ。フライヤーのデータとか出来たら、すぐに共有しますんで」


 それから暦くんは、弦月湯の番台周りや離れにカメラを持って佇むようになった。常連さんを見かけては、モデルになってもらえないか交渉している。

「暦ちゃん、美人に撮ってちょうだいね」
「加藤さんはいつも美人さんじゃないですか。今日は剛さんは?」
「まだ上がってこないのよ。長風呂でやんなっちゃう」

 アハハ、と笑いながら暦くんはシャッターを切っていく。そこに風呂上がりのお連れ合い、剛さんも加わり、加藤さんは嬉しそうに微笑む。

「加藤さんとこ、ご結婚されてどれくらい経ちますか?」
「もう五十年は経つかしら。子供たちもみんな家庭を持つようになって、お父さんとふたりきりよ」
「新婚生活アゲインですね」
「やっだ、暦ちゃんったら」

 加藤さんは大口を開けて笑った。剛さんも満更ではないご様子だ。

 土曜日になると家族4人でやってくる時任さんご一家にも、暦くんはモデルをお願いしていた。「湯上がりだからすっぴんで恥ずかしいな」と言いながらも、妻のなずなさんは嬉しそうだ。3歳のめぐみちゃんを抱き上げて、鼻をぴったりとくっつけて笑い合っている。夫の聡さんは、1歳の歩くんを抱っこしながら、その様子を笑顔で見守っている。

「まさか、いつもの弦月湯さんで家族写真を撮ってもらえるなんて思わなかったな。いちばん、うちららしい家族写真だね」

 嬉しそうにぽつりともらした、聡さんの言葉が胸に刻まれた。

 離れに暮らす若いアーティスト達も、暦くんは写している。ちょっとデータを見せてもらったら、みんな真剣な表情で作品に向かい合っている。と思えば、休憩時間に裏庭であんぱんと牛乳を持ってぼーっとしている様子なども写していた。なんだか微笑ましい。

「こういう風に、ぼーっとできる時間もないと、作品と自分の距離が近すぎて煮詰まっちゃうんですよ」
「そうなの?」
「壱子さんもありませんでしたか? 仕事と自分の距離が近すぎて、煮詰まっちゃうこと」
「……たしかに、あったかも」

 そうだ、確かに煮詰まっていた。あの店にいた最後の日々は、煮詰まりすぎて焦げ付いていた。

「壱子さんも、根詰めると焦げ付いちゃうタイプですからね」
「暦くんもでしょう」
「そうそう。家系の影響かな、ねーちゃんもそうなんです。アーティストタイプの人はみんなそう。根詰めすぎると、煮詰まりすぎて焦げ付いちゃう」
「私、アーティストじゃないよ」
「壱子さんはアーティストでしょう」
「そうなの?」
「自分から見たら、めちゃくちゃアーティスティックですよ」

 顔が熱くなる。顎にずらしていたマスクを上げて、赤い頬を隠した。

 暦くんは、いずみさんや私も写した。いずみさんも、私も、最初はいやがったのだが、根負けした。まったく、暦くんの粘り強さには脱帽する。

「壱子さんが、風呂場の掃除してるとこ、撮らせてもらってもいいですか」

 暦くんからそう頼まれて、午前中の掃除が撮影タイムになった。

「いいけど、なんで掃除してるところを?」
「仕事してる壱子さんを写したかったんです」
「そうなの?」
「仕事してる時、壱子さんいちばん生き生きしてるから」

 私は笑った。

「確かにそうかもね。仕事、好きよ。前の仕事も、今の仕事も」

 いつの間にか、前の仕事のことを客観的に見られるようになっている自分に気づいた。「前の仕事」、自然にそう思えている。それはきっと、自分にとっては大きな一歩だ。

「暦くん、私ね、前の仕事ほんとうに大好きだったのよ」
「はい」

 ざしざし、ざし。デッキブラシでタイルを擦る音にまぎれて、たまにシャッターを切る音が混ざる。ぱしり。

「仕事好きすぎて、自分には他になにもいらないって思ってた。住んでた社員寮にも食器や着替え以外ほとんどなにもなかったし、食事も全部アルコイリスで済ませてた。文字通り、自分のすべてをあの仕事に注ぎ込んでたの」

 ぱしり。返事のかわりに、シャッターの音が響いた。

「だから、会社から自分はもういらないって言われた時、自分のすべてがなくなっちゃったの。なあんにもなくなって、からっぽになっちゃった。しばらくなんにも出来なくて、2週間ぐらい部屋から出られなかった。それじゃいけないって思って、部屋から飛び出したところで、弦月湯さんと出会ったの」

 そうだ。弦月湯に来て、いずみさんに拾っていただいてから、私の人生は変わり続けている。そして……暦くんにも、また会えた。

「人生ってこれまで、テーマや目標を決めて逆算して、積み重ねていくってことを大事にしてきたんだけど、弦月湯に来てからは、そうじゃないことの連続。まさか、自分が銭湯のことを仕事にするなんて思ってもいなかった。でもね、すごく自分らしい選択を積み重ねた上で、いまここにいるって思ってるよ」

 ぱしり。シャッターの音。暦くんが、全身で聞いてくれている。全身で応えてくれている。

「私、弦月湯さんが好き。いずみさんが好き。そして、暦くんが好きよ」

 ぱしり。ぱしり、ぱしり。ぱしり。

 シャッターの音が速くなった。止まらない。

 気がつくと、私は笑顔になっていた。カメラの向こうには、最強、無敵、麦わらのルフィの笑顔が広がっている。大好きな笑顔が広がっている。

「壱子さん、ありがとう」
「こちらこそ」

 私は笑顔のまま、タイルの床を再び擦り始めた。ざしざし、ざし。ざしざし、ざし。ぱしり。デッキブラシの音に加えて、シャッターの音がたまに混じる。


 それから一週間ほどして、暦くんから個展のフライヤーがデータで送られてきた。データを開いて、思わず笑みが浮かぶ。加藤さんご夫妻。時任さんご一家。大きな口であんぱんをかじる若いアーティスト。番台で本を読むいずみさん。風呂場を掃除する私。色鮮やかな弦月湯のステンドグラスの写真をバックに、セピア色で写されたみんなの写真がコラージュになっている。

 「みんなの愛と生涯」───個展のタイトルは、そう名付けられていた。

 私は胸を衝かれた。ああ、暦くんは答えを探そうとしている。画面の上に浮かび上がったタイトルをもう一度眺める。

 どうか、暦くんの愛と生涯、その答えが見つかる個展になりますように。私は祈りながら、目を瞑った。





(つづく)




つづきのお話


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