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小説「弦月湯からこんにちは」第13話(全15話)



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第13話


 暦くんの個展が始まる前日、久しぶりに獅子頭の男の夢を見た。そういえば獅子頭の夢を見る頻度が随分と少なくなっていたことに気付き、驚いた。前の社員寮を出ていかなくてはならなかった頃には、夢に喰い殺されるかと本気で怯えていたというのに。

 久しぶりの獅子頭は、草原に座って海を眺めていた。見上げると、青空が広がっている。遠くには観覧車が見える。見覚えがある。ここは……そうだ。葛西臨海公園だ。

 私は、獅子頭の隣に座った。なんとなく、今日は獅子頭と話してみたいような気がしたのだ。

「葛西臨海公園、好きなの?」
「ああ」

 獅子頭のたてがみ、黄金色の毛が風にそよぐ。美しいな、と素直に思えた。獅子頭は、気持ちよさそうに目を細めた。

「いつかこの公園で、母さんが作ってくれたサンドイッチを一緒に食べたことがあったな」
「え?」
「ハムとチーズときゅうりのサンドイッチだった。母さん、張り切ってたくさん作ってくれた。砂糖を入れた甘い紅茶も、魔法瓶に用意してくれたな。イチコ、覚えているかい?」
「……覚えてる」

 そうだ。思い出した。私がまだ幼稚園に通っていた頃。父さんと母さんと3人で葛西臨海公園にピクニックに来たんだ。普段は怖い顔して、とげとげした言葉で罵り合っているふたりが、その日はとても優しかった。夢のように優しかった。

 獅子頭は、シャボン玉を吹いた。虹色のシャボン玉、大きなシャボン玉、小さなシャボン玉が海に向かって飛んでいく。

「小さなイチコは、シャボン玉が大好きだったな」
「……父さんが、私にシャボン玉を買ってくれたからだよ」

 公園の売店に売っていたシャボン玉セットを、父さんが買ってくれた時、とても嬉しかった。もしかしたら、それが初めての父さんからのプレゼントだったかもしれない。海に向かって飛んでいく虹色のシャボン玉が嬉しくて、愛おしくて、私は何度も何度もシャボン玉を吹いた。覚えてる。覚えている。こんなにも、覚えている。

「父さん……」

 顔も思い出せない、父さん。小学校に入る前に母さんが父さんと離婚した後、父さんの写真は我が家から消え去った。気がつくと父さんのことは、口に出せなくなった。

 高校生の頃、父さんが闘病の末に亡くなったと母さんが短い言葉で告げた。自分には悲しむ権利がないような気がして、素っ気ない返事をしたのを覚えている。

「父さん……」

 夕焼け時に、公園でふたりでブランコに乗ったこともあった。そうだ。そうだった。思い出した。その日は珍しく、ふたりで出掛けたんだった。父さんがブランコに乗る私の背中を押してくれた。空が近づいてくるのが、怖いけれど嬉しかった。後ろに父さんが居てくれると思うだけで、安心することができた。

 気がつくと涙が出ている。夢の中でも涙が出るのかと、冷静に思う自分もいる。

 獅子頭は、そっと私の背中に掌を置いた。

「幼いイチコが作り出した父の面影が、儂だった。そのことも、今ならわかるだろう」

 私は、無言で頷いた。

「儂のことは嫌ってもいい。疎んでもいい。だがな、イチコ」

 背中に置かれた掌が、熱くなったような気がした。

「儂はいつでも此処で、お前の心の奥底で、お前を守っているよ。そのことを忘れるな、イチコ。いつでも、お前を守っているよ」───


 目が覚めた。首を左右に動かす。

「父さん」

 つぶやいてみると、口の中が乾いていることに気がついた。水を飲みに行こうかと迷ったが、今日は眠気に勝てない。私は寝返りを打ち、枕を抱きしめた。

 いつか、暦くんといずみさんを誘って、葛西臨海公園にピクニックに行こう。大きなレジャーシートを用意して、みんなでおにぎりや唐揚げを作って、お重に詰めて持っていこう。

 母にも、電話をしよう。ずっと、なんとなく壁があって、無難なLINEのやり取りぐらいしかしてこなかった。けれど、いまの新しい人生のことを自分の声で伝えよう。ツァイトウイルスが落ち着いたら、顔を見に行こう。そして、いつか母とふたりでピクニックをしよう。葛西臨海公園でなくても、どこでも。

 その思いつきは、私の心を温めてくれた。私は再び瞼を閉じた。

 ありがとう、父さん。



(つづく)




つづきのお話


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