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小説「弦月湯からこんにちは」第6話(全15話)



これまでのお話


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第6話



「うちのお風呂、ご存じのとおりガウディへのオマージュで作られているでしょう。それもあって、私、大学はスペイン語科に進んだんです。学生時代にバルセロナに短期留学したこともあって、今もスペイン語の翻訳代行の仕事を続けているんです」

 いずみさんが、自分自身のことを話されるのは、この2週間で初めてのことだった。そうか、それで『血の婚礼』を読んでいたのか……と、ぼんやりと思い至る。

「だから、この町にスペイン料理のレストランができるって聞いた時は、すごく嬉しかったんです。今でも、オープン初日に配られたニワトリ型の楊枝入れ、大事にしています」

 そう言って、いずみさんはニワトリ型の楊枝入れを、戸棚から出した。黄色と緑、そして青を中心に彩色された楊枝入れは、私がスペインの業者と交渉して仕入れたものだった。手を伸ばして、指で大事になぞりたいような、でもそうしたら壁に投げつけてしまいそうな、どっちつかずの強い衝動が湧き上がってくるのを、必死に我慢した。

「お店で働く壱子さんのお姿も、お見かけした記憶があります。うちの従弟も、お店で働いていたことがあったと聞きました」
「……そうでしたか」

 顔から火が出そうになって、俯いた。まさか、いずみさんが過去の自分を知っていたとは。そして、2週間近く、素知らぬふりを続けていたとは。

「何があったかは、存じ上げません。ただ、こうしてお手伝いをしていただけて、とても助かっております。いつもありがとうございます」

 そして、いずみさんは深々と頭を下げた。つられて、私も頭を下げた。何を言っていいかわからず、どんな顔をしていずみさんと話せばいいかわからず、私は俯き続けた。

 それじゃあ、最初のあの時から、いずみさんは私のことを分かっていたのだろうか。お店のお客様だったいずみさんに、ぼろぼろの自分を見せ続けていたことが、たまらなく恥ずかしく、このまま布団をかぶって転げ回りたいような心持ちだった。

「あ、あのっ……!」

 たまらず、私は顔を上げて、何を言えばいいかわからないままに口を開き、釈明をしようとした。いずみさんと目が合った。縋るような私を受け止めるように、いずみさんは静かに微笑み、無言で頷いた。私は、何も言えなくなってしまった。

「お団子、食べましょう」
「……はい」

 宙ぶらりんの釈明が、静かに溶けていくのを感じながら、私はみたらし団子に手を伸ばそうとした。けれど、マグカップを抱えた指は動かない。ぴくりとも動かすことができない。

 ──今は、甘えよう。いずみさんは言葉にしないだけで、もっともっとたくさんのことを分かっているし、たくさんのことを考えてきたんだ。そして、私はいま、少しのことも考えられることが出来ない。そういう時季なんだ。ずるいかもしれないけれど、今はいずみさんに甘えよう。動物が安全な場所に身をひそめるように、私はそう思った。

「……ありがとうございます」
「こちらこそ」

 私は両手で抱えたままのマグカップに、顔を沈めた。香り高いグァテマラの湯気が、顔を包んだ。湯気につられて、涙がつうっと流れた。私は、いずみさんに見えないように顔を背けた。けれど、一度流れ始めてしまうと、止めることが出来ない。涙はあとからあとから湧いてきて、私は嗚咽した。

 ややあって、みたらし団子の前にティッシュの箱と、水の入ったコップが置かれた。お礼を言おうとしても、言葉にならない。側にいずみさんの気配を感じるものの、顔を見ることが出来ない。

「そろそろ時間なので、番台に入りますね。たぶん今日はお客さん少ないと思うので、壱子さん、今夜はお休みで。ゆっくり過ごしてください。また明日の朝、よろしくお願いします」

 いずみさんの軽い足音が遠ざかっていくのを感じた。私はティッシュに手を伸ばし、涙を拭い、鼻をかんだ。きっとひどい顔になっている。まずは落ち着こうと珈琲を飲んだ。熱い液体が喉の奥を通っていくと、安心感を覚えた。そういえば、誰かが自分のために淹れてくれた珈琲なんて、随分久しぶりだったことを思い出した。弦月湯に来てから、私はずっと、いずみさんの見えない優しさに守られてきたのかもしれない。その優しさはあまりにもさりげないから、私はずっと気づかずにいたのだ。

 なんだかやりきれない気持ちになって、椅子から立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。そのかわり、涙があとからあとから流れて止まらない。うえっ、うえっと声も洩れる。しかたがない。涙も声も流れるがままに任せた。横隔膜が獰猛に震えている。

 そうだ、私はずっと泣きたかったんだ。魂を注ぎ込んだ仕事がどんどん失われていく中、自分の人生には価値がないと言われたような気がしていたんだ。世界の何処からも、誰からも必要とされていないと告げられたようで、どうすればいいかわからなかったんだ。

 いま、自分が感じているものは絶望なのだろうか。自分のことを客観的に眺めてみると、そうなのかもしれない。大好きだった仕事を失った。住処も失った。なにもかもを失った。いまはよく知らない銭湯に居候の身で、正規の雇用でもなんでもなく、目の前に差し出される食事で文字通り食いつないでいる。

 それでも、絶望の果てに辿り着いたこの弦月湯はとても優しい場所だった。全てを包みこんで、そのまま放っておいてくれている。それが、いまの自分にとってどれだけありがたいことか。私はいずみさんに改めて感謝した。


 気がつくと、あたりが薄暗くなっている。随分と長いこと、放心していたようだ。泣きすぎて、頭が痛いことにも気付く。ちょっと、水でも飲もう。みたらし団子のそばに置かれた水を飲み干す。ついでに、すっかり冷たくなった珈琲も飲み干す。冷えていても香りが高いのは、いずみさんの腕の良さゆえだ。

 立ち上がって、流しの蛍光灯をつける。コップと、暦くんのマグカップを丁寧に洗う。社員寮を出る時には茶渋だらけだった暦くんのマグカップも、弦月湯に来てからはだいぶ綺麗になった。

 蛍光灯の光の中、暦くんのマグカップをじっくりと眺める。飲み口は薄いけれど、全体的に温かみのあるフォルム。桃色のグラデーションの中に、インクを高いところから垂らしたような、色彩豊かな雫が描かれている。今まで考えたことがなかったけれど、すごく手のかかっている特別なマグカップなのかもしれない。何年も経ってから気がつくなんて、暦くんに申し訳ない。

 このマグカップが、店での日々をいつも支えてくれていた。みんなでチェキを撮っていた日も、会議で誰ひとり味方がいなかった日も、北三日月町店の閉店が言い渡された日も。私はマグカップを胸元で抱き締め、目をつむってうつむいた。

「すみません」

 戸口から、声がした。いずみさんの声ではない。私は顔を上げる。

「夕飯できたので、ご一緒にいかがですか。……壱子さん」


 振り返ると、そこには暦くんが立っていた。

 紅茶色の髪をして、少年のような空気を身にまとった暦くんが、すっくと立っていた。





(つづく)




つづきのお話


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