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小説「弦月湯からこんにちは」第11話(全15話)



これまでのお話


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第11話


「壱子さん、ガリガリ君食べます?」
「……食べる」
「ちょっとひと休みしたほうがいいっすよ。それにしても暑いなあ」
「ちょっと、ここまで終わらせちゃうから待ってて」
「はいはい」

 いつの間にか、季節は巡って7月になった。緊急事態宣言も6月の中旬に解除された。

 今日は定休日。いずみさんは、翻訳している本の打ち合わせがあるとのことで、神保町の出版社に出かけている。私は編集の途中だったnoteの「下書き保存」を押して、大きく伸びをした。向かいでInstagramの画像の編集をしていた暦くんは、冷蔵庫に向かう。いつの間にか弦月湯の台所が、私達のオフィスに変わった。

「こまめに水分摂らないと、熱中症になっちゃいますからね。麦茶も飲みましょう」
「ありがとう」

 シャボンフロンティアからの買収話は、いつの間にか立ち消えとなった。徹夜で準備して臨んだオンラインミーティングで、いずみさんの代わりに私があれやこれやと答えていたら、相手方がどんどん意気消沈してしまったのだ。

───「失礼ですが、山口さんは弦月湯にいらっしゃる前にはどんなお仕事をなさっておいででしたか?」
「飲食の会社で企画部と実店舗におりました」
「山口さん……壱子さん、とおっしゃいましたか」
「ええ」
「もしかして、アルコイリスさんにいらっしゃいましたか?」
「あら、よくご存じで」
「……確か、以前テレビでも取材されておいででしたよね」
「お恥ずかしい、昔のことです」

 そう、アルコイリス北三日月町店がオープンする時、有名なテレビ番組が私の密着取材をしてくれたことがあった。会社側のプロモーション戦略もあったのだろうが、若い女性が新たな挑戦をするというので、絵や物語にしやすいのだろうと客観的に眺めていた。そんな昔のことを持ち出されるなんて、思ってもいなかった。

「アルコイリスのブリュンヒルデ、山口壱子さんと言ったら、我々の業界でも有名です。その山口さんがどうして、弦月湯に?」
「まあ……いろいろとご縁がございまして」
「……今度は銭湯業界に取り組まれるんですね」
「そんな大仰なものではなく、ただ弦月湯さんのお手伝いをさせていただいているだけなんですよ」
「そうですか……」───

 そこから相手はすっかりトーンダウンして、なんだか気の毒になるぐらいしょんぼりしてしまった。オンラインミーティングの後、シャボンフロンティアの担当者からはいずみさんに簡単なメールが届いた。その後はすっかり静かになってしまった。買収話はひとまず落ち着いたのだろうと静観している。

「はい、壱子さんどうぞ」
「ありがとう」

 暦くんが、氷の入った麦茶とガリガリ君を目の前に置いてくれた。私は再び大きく伸びをして、麦茶をひと口飲む。暦くんは水色のアイスをかじりながら、パソコンの画面とにらめっこしている。

「暦くんもひと休みした方がいいよ」

 私は苦笑する。根を詰める癖は昔から変わらない。

「そうでした、つい続きが気になっちゃって」
「音楽でも聞こうか」
「そうですね。壱子さん、やっぱりシューマンがいいですか?」
「ええ」

 徹夜明けに三人で食卓を囲んだ時に流れていた、ジェシー・ノーマンのシューマンがいつの間にか私のお気に入りになっていた。YouTubeでも聞くことは出来るのだが、この台所で聞くCDはなんだか特別に聞こえる。

「クラシックなんて、意識して聞くことなかったんだけど、この人の声がすごく好きになっちゃってね。なんだか落ち着くよね」
「そうですね。ノーマンは、ソプラノの中でも深い響きを持っているから、好き嫌いは分かれるんですけど、自分も好きです」

 私の好きなノラ・ジョーンズもそうだけど、ジェシー・ノーマンもまた、どこか懐の深さと心の柔らかさ、温かさを感じさせる声だ。

 ガリガリ君の冷たさ、そしてジェシー・ノーマンの深く優しい声。その感覚を身体いっぱいで楽しみながらぼーっとしていると、暦くんが口を開いた。

「……自分、いま流れてる《女の愛と生涯》を聞くたびに、責められているような気持ちになった時期がありました」
「え?」
「ばあちゃんが一番好きな歌曲集だったから、高校生の頃からよく聞くようになってたんですけど、一時期聞くのがつらかったことがありましたね」
「それは……」

 どうして? と言いかけて、《女の愛と生涯》という歌曲集に込められた物語に思い至った。言葉を飲み込む。

 この歌曲集は、ひとりの女性が愛する男性と出会い、結婚し、子供を産み、夫を見送るまでの日々を描いたものだ。それは幸せのひとつの形ではあるものの、その形が当てはまらない人間は当然多い。もちろん私の現状も当てはまっていない。そして……もしかしたら思春期の暦くんにとっては、人生や幸せのあるべき姿を定義され、押し付けられているように思うこともあったのかもしれない。それは暦くんにとって、身を切られるようにつらいことだったのかもしれない。

「……この歌曲集、《或る女の愛と生涯》ってタイトルだったらよかったのにね」
「え?」
「愛も生涯も、幸せの形も、人それぞれでいいと思うんだ。自分の思う幸せの形を自由に求めていっていいんだよね」

 高校生の頃の暦くんに届くといいと願いながら、私はゆっくりと言葉を口にした。

 しばらくして暦くんの目に、うっすらと水の膜が張るのがわかった。

「……そうですね。ほんとだ。《或る女の愛と生涯》。女の前に〈或る〉って付くだけで、ずいぶん雰囲気変わりますね」

 暦くんの鼻が少し赤くなっている。すこし声が震えている。少年のような細い肩を両手で包み込みたくなるような気持ちがふっと湧き上がる。そんな自分の衝動に戸惑う。いけない。これ以上踏み込んだら、暦くんに迷惑をかけてしまう。私はガリガリ君を小さくかじりながらそっと話をずらした。

「そういえば暦くんの作ってくれるインスタの投稿、すごく評判いいよね。大学時代は写真作品も制作してたんだものね。やっぱり餅は餅屋だわ」

 徹夜明けの会議から、SNSの担当もそれぞれ割り振った。Instagramは暦くん、noteとTwitterは私。いずみさんには週1回、弦月湯や弦二郎さん、そしてスペインの文化にまつわるコラムを書いてもらっている。そのコラムに暦くんの撮ってくれた写真も加えて、私が編集してnoteで公開している。

 北三日月町駅前のスペイン料理店のご夫妻といずみさんの対談も、noteで記事にした。話は盛り上がり、もう少しウイルスの状況が落ち着いたら弦月湯でスペインフェスタを一緒に開催しようという流れにもなっている。

 会議では、芸大のある上野まで電車で一本という立地を活かせないかという話にもなった。弦二郎さんの思いを継いで、芸術家たちの支援をしていきたいという暦くんの願いを後押ししようとなったのだ。その後、高円寺の小杉湯となりを運営される加藤優一さんにも相談に乗っていただき、事業計画を形にすることができた。

 そして暦くんが美術の後輩たちに声をかけてくれて、クチコミで弦月湯のことが広まり始めた。彫刻家・若月弦二郎の作り上げた風呂場を貸しギャラリーにするというアイディアは、ツァイトウイルスで発表の場を失っていた若いアーティストたちに歓迎された。この取り組みはSNSでも話題になった。

 また、若い音楽家たちとの縁もつながった。暦くんの後輩の同級生という芸大在学中の若手四人組が、風呂場で弦楽四重奏曲を撮った動画がバズったことがきっかけで、弦月湯は音楽関係者からも注目を集めるようになった。風呂場のデザインだけでなく、音響の良さも、音楽家にとっては嬉しい要素だったらしい。

 離れの空き部屋にも、いまは若いアーティストの子たちが入居している。貸しアトリエとして募集を始めたところ、ツァイトウイルス下で新しい創作場所を求めるアーティストでたちまち満室となった。中には、この離れで新しく会社を立ち上げた人もいる。入居しているアーティストの中からは、「弦月湯は北三日月町のカルチェラタンですね」という言葉も聞かれる。〈北三日月町のカルチェラタン〉。それはひそかな狙いにもしていたキーワードだったので、アーティスト側から言ってもらえると、こちらとしても非常に嬉しくありがたい。

 もちろん、朝湯をはじめとして通常の営業も続けている。ありがたいことに、古くからの常連さんは新しい試みを面白がってくれている。

───「弦二郎さんの頃も、いろいろ面白いことやっていたもんな。その頃、思い出すよ。なんだか懐かしいね」
「その頃はどんな催しやっていたんですか?」
「近所の落語家さん呼んで、落語会とか。あと俳句の先生呼んで、句会なんかも定期的に開いたりしていたなあ。俺もそれで俳句始めたんだよ」
「へえ……それも素敵ですね」───

 落語会に、句会か。それも素敵だな、と頭の中にメモを取った。今後のビジョンに組み込んでいけたらいい。

「……インスタ、インスタね。いま順調にフォロワー数も伸びているし、反応もいいからよかったです」

 滲んだ、震える声の暦くんが、返してくれた。弱々しく笑顔を浮かべようとするが、唇が震えている。

 ───暦くんが泣いている。

 はっと思い至った。ああ。高校生の頃の暦くんが泣いているんだ。これまできっと、人の見てないところでたくさん泣いてきたんだろう。そういう人の泣き方だった。

 食べかけのガリガリ君を、包装紙にのせる。私は立ち上がり、暦くんの背中に立った。踏み込む踏み込まないだの、自分の保身なんて、どうでもいい。いまここで、暦くんが泣いているんだ。私は、目を閉じた。

「……暦くん、ちょっと肩に触れさせてね」
「え……はい……」

 ゆっくりと、彼の細い両肩を掌で包み込む。赤ちゃんをあやすように、軽くぽん……ぽん……と叩き続ける。暦くんの身体の緊張が徐々に抜けていくのがわかる。最初はこらえていた暦くんのしゃくり声が、だんだんと大きくなってくる。肩が震えている。背中が波打っている。ずっとこらえていたであろう嗚咽が部屋中に広がっていく。私は目を閉じたまま、暦くんの肩をぽん……ぽん……と叩き続けた。

 ジェシー・ノーマンの深く優しい歌声が、静かに私達を包んでいる。生きることすべてを肯定してくれるような声だ。目を閉じながら、そう感じた。

「暦くんは、暦くんだけの幸せを自由に求めていっていいんだよ。暦くんの生涯を、愛を、自由に求めていっていいんだよ。自由に生きていっていいんだよ」

 届け、届け。高校生の頃の暦くんに。ずっとひとりで涙をこらえてきた暦くんに。いま、目の前で涙を流している暦くんに。届け、届け。呪縛よ、ほどけろ。暦くんに届け、届け。

 暦くんは、小さく頷いた。見なくても、身体の振動でわかる。暦くんは何度も、何度も頷いた。

 目を開くと、ガリガリ君はいつの間にか溶けていた。薄いスカイブルーの水たまりの中に、深く優しい歌声が染み込んでいるような気がした。





(つづく)



つづきのお話


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・第14話はこちら

・第15話(最終話)はこちら


























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