小説「弦月湯からこんにちは」第2話(全15話)
これまでのお話
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第2話
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久しぶりに外に出た私は、あてもなくふらふらと歩いた。足がまるで借り物のようだ。この2週間ほど、ずっとテレビの前で座りっぱなしだったから、筋肉も少し落ちたのかもしれない。すれ違う人はいない。普段ならこの時間は、駅に向かう人でいっぱいだったはずなのに。春の名残の葉桜の並木道を通りながら、私は知らない外国の町を歩いているような気がした。
この時間帯はいつも、うちの店でモーニングの準備をしていた。メニュー刷新前のうちの店では、スペイン風の朝ご飯を出していて、メニュー開発に関わった私にとっては、それがささやかな誇りだった。スペインの朝ご飯は、他のヨーロッパの国と同様に、コーヒーと甘いパンという軽い組み合わせも、確かにある。パンにトマトペーストとオリーブオイルという塩気のきいた組み合わせも、私は好きだった。
けれど、一番のお気に入りを挙げるとしたら、チュロスとホットチョコレートの組み合わせ。チュロスというと、舞浜の夢の国の長い棒のようなお菓子のイメージが強いと思うけれど、実はスペインのチュロスには砂糖が付いていない。その代わり、ホットチョコレートに浸したりしながら、自分で味を調節することが出来る。
チュロスとホットチョコレートの組み合わせを推したのは、私のこだわりでもあった。初めてスペインに視察に行った時、マドリードでの自由行動の一日の最初に、街の中央近くのカフェで食べたのが、チュロスとホットチョコレートだったのだ。揚げたてのチュロスと、濃厚なホットチョコレートは、自由な一日のはじまりを告げる味になった。それは私にとってスペインの朝を象徴する味となり、朝ご飯のメニュー開発の時にも力を入れてプレゼンした。非番の朝もわざわざ店まで出向いて、チュロスとホットチョコレートのセットを注文することもあった。大きな窓から差し込む朝の光の中、スペイン風の朝食を食べに来てくれるお客様の顔を見ながら、少しスパイスのきいたホットチョコレートを片手に、これからの未来に向けてマーケティング戦略を練っていくのは、私にとって幸せな時間だった。
でも、もうあの味を愉しむことは出来ない。昨年度からの度重なるメニュー刷新で、スペイン風の朝ご飯を売りにしていた方針は変更となり、ドリンクバーの導入と共に、8枚切りの食パンのトーストを提供するような店になってしまった。チュロスも、ホットチョコレートも、手間とコストがかかるという理由で、メニューからは消えてしまった。うちの店で出していたあのチュロスとホットチョコレートとは、もう世界のどこを探しても巡り会うことは出来ない。
そんなことを考えているうちに、お腹が鳴った。どうやら、お腹が空いたらしい。私は周りを見回す。横断歩道を渡った所に、コンビニがあった。店を閉めて帰った日から、ずうっと敷きっぱなしの布団が待つあの部屋に、戻る勇気はまだ持てなかった。けれどこんな時勢だから、外で食べるわけにもいかない。ちょっと考えて、私はコンビニで豆乳コーヒーを買った。どこか景色のいいところがあったら、5秒ほどで飲み干してしまおう。幸いなことに、トートバッグには以前買った手ピカジェルが入れっぱなしだった。豆乳コーヒーを飲む前には、これで消毒しよう。
久しぶりに体を動かしていると、停まったままだった思考も感情も動き出す。私は、スタッフの皆が幸せな顔をしていた頃を思い返した。北三日月町店の経営が軌道に乗ってきて、3年目に入ったあたりが、もしかしたらうちの店の全盛期だったのかもしれない。私もまだ若かったし、北三日月町から電車で一本の池袋に通う学生さんや、近くの主婦の方が働いてくれて、まるで部活のような感じで、毎日ワイワイと賑やかに働いていた。「オラー!」や「ムーチャスグラシアス!」など、みんな慣れないスペイン語の挨拶をしながら、忙しく厨房で手を動かしたり、料理を運んだりしていた。誕生日を迎えた子がいると、バックヤードに入った時にみんなでクラッカーを鳴らしたり、集合写真のチェキを撮ったりしていた。いわゆる陽キャが多かったのかもしれないな、と微笑ましく思う。
そういえば、そんな中に忘れられないスタッフさんがいた。名字は忘れてしまったけれど、たしか暦くんという名前だった。高校時代までは女の子だったという彼は、ひょろっとした細長い手足を持っていて、生まれつきという鮮やかな紅茶色の髪をしていた。少年のようなナイーブな雰囲気を持つ暦くんは、隠れた気遣いと気配りの人だったので、スタッフの誰からも愛されていた。スタッフみんなの誕生日をしっかり覚えていてくれて、一週間前になると「壱子さん、来週の水曜日はアイツの誕生日っすよ」とぼそっと呟き、みんなを巻き込む準備を始めてくれた。店の備品としてクラッカーやチェキを導入するようになったのも、彼の進言あってのことだった。
そんな彼は、自分の誕生日を頑として明かさなかった。その話題になると、「いや、自分の誕生日なんて、いいんすよ」と、いつも照れて逃げた。そこで、私は一計を案じた。彼自身の誕生日を祝えないなら、なんでもない日を一緒に祝えばいい。『不思議な国のアリス』の、「誕生日じゃない日、おめでとう!」の精神で、なんでもない一日を特別な日に出来ればいい。私はスタッフみんなに声を掛けた。みんなも、彼の繊細な気配りにはいつも感謝をしていたので、とんとん拍子に話は進んだ。
そして、当日を迎えた。仕事を終えて、バックヤードに入ってきた彼を待ち構えて、みんなでクラッカーを鳴らした。
「な、なに?」
「暦くん、誕生日じゃない日、おめでとう!!」
みんなの大きな声にあっけに取られていた彼は、しばらくして、腹を抱えて笑い出した。
「誕生日じゃない日、おめでとうって……アリス・イン・ワンダーランドっすか」
そして、彼は涙を溜めながら、笑い転げた。そんな彼を気にも掛けず、みんなは祝いとねぎらいの言葉を暦くんにかけていく。
「ああ、おかしい。誕生日じゃない日、なんてアイディア、壱子さんでしょう」
「……ばれたか」
「バレバレっすよ、壱子さんの考えることなんて。ああ、おかしい。でも……嬉しい。ありがとうございます」
暦くんは、涙目で私を見つめ、にっこり笑った。私もつられて、笑い返した。
「こよみー、みんなでチェキ撮ろー!」
「おお、撮ろうぜー」
そして、暦くんは集合写真を撮りに向かった。私は、クラッカーの紙吹雪を片付けながら、みんなの様子を微笑ましく眺めた。
「壱子さん、何してるんすか」
「片付け」
「なんで、写真入らないんすか」
「私はいいじゃない、みんなで、ね」
「いやいや、壱子さんも入りましょうよ、ほら」
半ば強引に暦くんに引き入れられ、私は集合写真に入った。暦くんがおどけて声をかけて、写真を撮る瞬間には、みんな笑い転げた。2枚撮って、1枚は暦くんが持って帰って、もう1枚は……そうだ、私がもらったんだった。いつもは集合写真に入らない私が入ったものだから、写真係の女の子がもう1枚記念に撮ってくれたんだった。大事に、部屋のデスクの前に飾った。
そんな大事な思い出も霞んでしまうぐらい、最近はあらゆるものに擂り潰されていたのか……と、改めて気付く。物語の中の出来事のように、甘く、美しい思い出。あの頃と、何もかもが変わってしまった。あの頃のスタッフさんで最近まで残っていた人は、もう誰もいない。芸大の美術学部を卒業してからはフリーランスでデザインの仕事をして、その合間に働いてくれていた暦くんも、定時勤務のデザイン会社で働くことが決まってから、いつの間にか姿を消した。とても律儀な人で、最後は自分がデザインしたというマグカップを御礼にくれた。そうだ、今も使い続けているマグカップは、暦くんがくれたものだった。そんなことすら、気がつくと頭の中から消えてしまっていた。マグカップも毎日、ざざっと洗うしかしておらず、茶渋がこびりついていたのを思い出した。帰ったら、しっかり洗って、磨こう。
そんなことをつらつらと思いながら、緩やかな坂を登っていくと、坂の上の公民館の隣に小さな公園を見つけた。ああ、ここで豆乳コーヒーを飲もう。ベンチに腰を下ろす。手ピカジェルで手を消毒して、紙パックの豆乳コーヒーにストローを刺し、一気に吸う。ぞぞぞぞぞ、という音と共に、最後の一滴を吸い込む。ふう。豆乳コーヒーの甘みが、頭に痺れるように響いた。
人心地ついたところで、周りを見回す。考えてみたら近所なのに、駅の反対側のこっちまで来たことは殆どなかった。店への通勤に便利なようにと、北三日月町に引っ越したけれど、ほとんど家と店の往復、それに加えて駅前の同業他社の視察しかしていなかったな……と思い返す。余暇を楽しむなんてこと、この7年間したことがなかったかもしれない。でも、今は時間は売るほど有り余っている。私は深いため息をついた。首を左右に曲げると、パキパキと音が鳴った。
ふと見ると、公園の奥に煉瓦作りの古びた建物がある。興味を惹かれて、近付く。煉瓦作りの古びた建物の入り口は広く、紺色の暖簾がかかっている。暖簾を見ると、「弦月湯」と書いてある。こんなところに、銭湯が?と驚き、少し下がって空を見上げる。空には、大きな煙突がそびえていた。どうやらたしかに、銭湯らしい。
おそるおそる暖簾の中を覗いてみる。磨りガラスのはまった木の扉の奥に、おそらくは番台があるのだと思うけれど、ここからはちょっとわからない。左側は、昔ながらの木の札のついた靴ロッカー。右側には傘立てと、張り紙。張り紙には「朝湯、毎日7時半より」と書いてある。朝湯……?
うっすらと興味を惹かれた。そういえば、お風呂に入ったのはいつのことだっけ。一昨日だっけ、その前だったっけ……? 敷きっぱなしの布団に溶けるように眠り込む毎日の中、気がつけばお風呂に入るのも億劫になって、下着を変えるだけという生活が続いていたのを思い出した。そんな自分を客観的に眺めて、ぞっとした。風呂にも入らず、目覚ましをかけずに惰眠をむさぼり、食事といえばカップヌードルだけで、日がな一日テレビをずっと見ている……、そんな毎日を思い返すと、自分という人間の輪郭がどろどろに溶けて、まるでスライムみたいに流れていくような気がした。
私は、矢も盾もたまらず、靴を脱ぎ、ロッカーに入れ、木の札を抜いた。そして、磨りガラスの木の引き戸をからからと開けた。
(つづく)
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