小説「弦月湯からこんにちは」第7話(全15話)
これまでのお話
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第7話
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暦くんが、立っている。
紅茶色の髪をして、少年のような空気を身にまとった暦くんが、目の前にすっくと立っている。
どういうこと? 現実を飲み込めない。私はマグカップを胸に抱えたまま、後ずさりした。水を飲んだばかりなのに、口がからからになっている。目をつぶって、頭を振る。夢だ。きっと夢に違いない。
「壱子さん……? いー、ちー、こー、さん!」
目を開けると、暦くんが笑顔で手を振っている。思わず唇の端を少し引き上げて、小さく手を振り返す。蛍光灯に照らされた暦くんの笑顔が大きくなった。
「ああ、よかった。壱子さん、笑顔になってくれた」
「暦くん……? ほんとうに、暦くんなの……? どうしてここに……」
「ここに住んでいるんですよ。番台のいずみさんは、自分の従姉なんです」
「え!」
そういえば、さっきいずみさんが言ってたっけ。従弟さんが昔、うちの店で働いていたって。うっかり聞き逃していたけれど、いまようやく繋がった。そういえば暦くんの名字、若月だった。面接の時に、珍しい名字だなと思ったんだ。すべて繋がった。思い出した。
「うちの店で働いていたって……まさか、暦くんだったのね」
「ご挨拶が遅くなって、申し訳ありませんでした」
暦くんは、頭を下げた。私も慌てて、頭を下げる。やっぱり、律儀な人だ。ちっとも変わっていない。けれど、私は変わってしまった。暦くんと一緒に働いていたあの店も、もうどこにもない。暦くんと一緒に働いていた頃の自分とは、もう違うのだ。
なんと言えばいいのだろう。なんと切り出せばいいのだろう。予想外の出来事に心が追いつかず、頭がまったく働かない。
「暦くん、あのね……」
「夕飯、冷めちゃいますよ! せっかくだから、一緒に食べましょう」
「あ、うん……」
「ほら、早く早く」
暦くんに促されて隣の和室に行くと、ちゃぶ台の上にほかほかの豚汁が入った大鍋が載っている。卵焼きと、水菜のサラダと、漬物も、それぞれ大皿に盛ってある。そして、海苔で巻かれたたくさんの大きなおむすびも。
「わあ……!」
「どうぞ、座ってください」
「ありがとう……これ、暦くんが?」
「おにぎりは、ねーちゃんと一緒に……、あ、自分、いずみさんのことをねーちゃんって呼んでるんすが、ともかくいずみさんと一緒に作りました。豚汁は、自分の自信作です。台所、こっちは家族用なんですが、住み込みさん用にもうひとつ大きなものがあるので、そっちで作りました。さあ、座った座った」
暦くんに促されて、座布団に腰をおろす。暦くんは大鍋から豚汁をよそい、私に手渡した。豚汁を両手で包み込む。温かい。
「壱子さんが来てから、歓迎会をしていなかったって気づいたんですよ。それで、ねーちゃんと一緒に、ちょっとしたもんですけど作ってみました」
「そう……だったのね」
「自分もタイミング合わなくて、ずっと壱子さんにご挨拶出来ていなかったんで、いい機会だと思って張り切っちゃいました。サプライズ成功っすね!」
そう言って、暦くんはニッと笑った。私もつられて笑顔になる。
「ただ、ねーちゃんは番台なので、今日は自分だけですが」
「あ、ううん、全然」
「そのうち定休日に、またあらためて三人で飯食いましょう」
「ありがとう」
「ほんじゃ、食べましょうか。いただきます!」
「……いただきます」
手を合わせて、目の前に用意された丁寧な食卓を見つめる。卵焼きもふっくらと仕上がっていて、とても美味しそうだ。誰かと食卓を囲むって、いつ以来のことだろう。実家の母と会ったのも、ずいぶん前のことだ。少なくとも、今年の正月は帰っていないから、一年は会っていない。
「壱子さん、おにぎりどれがいいですか? 梅と、鮭フレークと、焼きたらこ」
「あ……じゃあ焼きたらこ」
「オッケー」
「……ありがとう」
「鮭フレークのも、皿に載せちゃいますね。まだまだたくさんあるんで、遠慮なく食べてください。余ったら、明日の朝飯にしますんで。ちゃんと食わないと、ダメっすよ」
暦くんは、おにぎりをてきぱきと皿に盛ってくれる。ついでに卵焼きと水菜のサラダ、漬物も手際よく盛ってくれた。
よく見ると、皿を持つ手がかすかに震えているのに気がついた。もしかしたら、暦くんも久しぶりの再会に緊張しているのかもしれない。それでも、あえて普通に明るく接してくれているのかもしれない。そう気がつくと、店でチェキを準備してくれたり、皆の誕生日を祝う準備を率先してやってくれていた彼の繊細な気遣いのすべてが、この食卓と合致した。
いずみさんも、もしかしたら気を遣ってくださって、いま番台に詰めているのかもしれない。さっきの状態だった私と、ご自分が顔を合わせるのが申し訳ないと思ってくださっているのかもしれない。それで、この食卓を暦くんに任せてくれたのかもしれない。
私は豚汁のお椀に視線を落とした。こんなことを考えながら、暦くんと話したら、また涙が出てきてしまう。まずは落ち着かないと。そう思って、豚汁をひとくち啜った。
「あ……」
美味しい。控えめに言って、ものすごく美味しい。人参、こんにゃく、里芋、しいたけ、豚肉をごま油で炒めて、かつおと昆布の合わせ出汁で煮込んで、麦味噌で味を整えてある。薬味の青ねぎと生姜もアクセントになっている。シンプルだけど、丁寧に作られていて、ものすごく美味しい。
お腹が、ぐうと鳴った。どんな状況でもお腹は空くらしい。私はお椀を置いて、おにぎりに手を伸ばした。ばくりと大きな口でかじりつく。直火で炙られた、たらこだ。美味しい。ごはんも、粒が立っていて、つやつやしていて甘みがある。そういえば、弦月湯で炊いてくれるごはんは、いつも美味しいのを思い出した。ばくり、ばくり。美味しさで体の細胞が満たされていく。何も考えず、物を食べる喜びを体いっぱいで感じられている。
たらこのおにぎりを食べ終わって、豚汁をもう一口啜る。ふう、とため息が漏れる。あらためて、食卓を眺める。暦くんといずみさんが、私のために準備してくれた心尽くしの食卓。自分のために準備された食卓というのは、なんと有り難いものだろうか。
見上げると、暦くんがにこにこしながら眺めている。何も言わず、がつがつと食べる様子を見られていたのだろうか。恥ずかしい。耳が熱くなるのを感じながら、きゅうりの古漬けに箸を伸ばした。
「壱子さん、豚汁うまいでしょう」
「うん……美味しい。すごく、すごく美味しい。暦くん、いい腕してるね」
「アルコイリスで鍛えられましたからね」
私は笑った。そう、アルコイリス。スペイン語で「虹」を指すこの単語が、うちの店の名前だった。
「それでも、暦くんは最初から何でも手際がよかったじゃない」
「見様見真似ですよ。先輩方がみんな、自分によくしてくれたんで、それでいろんな基本を学ぶことができました」
「そっか」
「壱子さんも、そうですよ。……自分がいま、こうして毎日生きていられるのも、壱子さんが自分のことを、最初に受け入れてくれたおかげです」
「え……?」
暦くんは、畳に投げ出していた足を戻し、正座になった。私もつられて、正座になる。
「最初の面接で、自分、高校まで女性だったって言ったじゃないですか」
「うん」
「でも、性自認が男性というわけでもなくて、性のない存在として生きていきたいとも言ったじゃないですか」
「うん」
──そうだ。その面接のことは、よく覚えている。暦くんが持参してくれた履歴書でも、性別欄では真ん中の「・」に丸がしてあった。そういうこともあるだろうなと単純に受け入れて、緊張した面持ちの暦くんと、面接を淡々と進めた。順調に採用が決まり、シフトの確認をして、最後になにか質問があるかと尋ねた。そうすると暦くんは、そうだ、今のように居住まいを正して、私に問い掛けたのだ。
「自分、問題ないんですか?」
「はい……?」
「えっと……自分は高校まで女性として生きてきました。けれど、女性ではないということを、ずっと感じています。……って、こんな話をしても、大丈夫ですか」
「続けてください」
「……ありがとうございます。女性ではないという自覚はあるんですけれど、かといって男性として生きていきたい訳でもないんです。どちらかと言うと、性のない存在として、これからの人生を生きていきたいんです」
「そうですか」
「だけど……問題ないんでしょうか」
暦くんは、膝の上で拳を握りしめていた。その拳は、先ほどの皿を持つ手のように細かく震えていた。
「私は、まったく問題ないと思うのですが、それではいけませんか」
「え?」
「女性であれ、男性であれ、そうでない性であれ、大事なのは人間としてどう生きているかということですよ」
「人間として……」
「短い面接でしたが、若月さんの人となりは自分なりに理解したつもりです。そのうえで、ご一緒に働きたいという判断を下したのですが、いかがでしょうか」
暦くんは、あっけにとられた表情をした。しばらく無言でいたかと思うと、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます……! どうぞよろしくお願いします!」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いします。制服は、ズボンでよろしいでしょうか? あと、着替えですが、よければこちらのバックヤードをお使いくださいね」
「……はい、ズボンでお願いします。着替えのことも、ありがとうございます」
そして、暦くんはアルコイシス北三日月町店にとってなくてはならない人材となった。便宜上、「彼」と呼んではいたのは、のちのち「どちらかと言えば、精神的には男寄りだと思うんですけどね、男の体になりたいわけでは決してないんです」と暦くんが言っていたからだ。そして、そういうものだろうと、単純に受け入れていたからだ。──
いま、あらためて暦くんを見つめる。暦くんは面接の時と同じように、正座をした太ももの上に握りこぶしを乗せている。
「ああやって、自分のことを打ち明けたのは、あの面接が初めてだったんです。履歴書も、迷いながら、女でもない男でもない真ん中に丸をつけて。だから、落ちるの覚悟で受けてたんです」
「そうだったの?」
「そりゃそうですよ。何をふざけてるのかって怒鳴られて、門前払いになるかもしれないって覚悟決めてました」
暦くんの握りこぶしが震えているかどうかは、見なくてもわかる。
「でも、壱子さんがあの面接で自分を受け入れてくれたから。だから、自分はここまで生きてこられたんです。……本当に、ありがとうございます」
「私は、なにも……」
暦くんは、深々とお辞儀をした。私はなんだか、鼻のあたりが熱くなってくるのを感じた。このままだと、また泣いちゃう。駄目だよ、暦くん。反則だよ。私は豚汁のお椀に目を落とした。お椀の中のにんじんとこんにゃくが、ぼやけて見える。
「壱子さんは、自分の人生の恩人ですから。だから、弦月湯に気が済むまでいてください。ねーちゃんも、そう言ってます」
こらえきれず、ちゃぶ台に水滴がひとしずく零れた。駄目だよ、暦くん。駄目ですよ、いずみさん。そんなの、泣いちゃうじゃないですか。うちの会社に入ってこの方、泣いたことなんて一度もなかったのに、このところの私は何かが変わってしまったみたい。自分ではない人生を生きているみたい。
けれど、もう「うちの会社」ではない。私がいまいるのは、ここ、弦月湯だ。いま一緒にいるのは、いずみさんと暦くんだ。ここで、この場所で、新しいやり方で自分の人生を生きていくほかないのだ。
「さ、メシの続き! 壱子さん、梅も食ってくださいね!」
皿の上に、大きなおにぎりがどんと載せられた。私は返答のかわりに、そのおにぎりに勢いよくかぶりついた。
(つづく)
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