飛べない

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最近の記事

人生1

1997年 私は冬に生まれた。 寒さの中、何を思って生まれてきたんだろう。 テンプレの祝福を受けて産声をあげたのだろうか。 私は生まれてしまったことが悲しくて泣いていたんだと今思う。 のちにあの(皆さんご存知)虐待おじさんな父が私が生まれた当時、涙を流していたとフィリピン人の母から聞いた。 父はきっと取り返しのつかないことをしてしまったことを悔いて泣いていたんだと思う。 * 父は私はあまり泣かない子だったと言っていた。 200?年 多分3,4歳の頃だと思う。一番古い記憶だ。

    • 小5 夫婦喧嘩 警察 別居

      小5の時、なんかよくわからんが親が喧嘩をしていた。 私は学校で文化部だか文芸部だかに入っていた。そこで覚えた折り紙を折っていた。鶴じゃなかったけど折り紙を折りながら「喧嘩が収まりますように」と祈っていたのを覚えてる。 そんな祈りも虚しく喧嘩は激化した。 もうあまり覚えてない。 両親が取っ組み合いになって、母が私に対して電話の子機を持ちながら 「警察は何番か」 聞いてきた。 110だよ覚えろよバカ外人がよって思いながら、いや当時は思ってなかったけど、 「110!」 と叫んだら、

      • 今日見た夢から自分を分析する

        出してもらってる眠剤のせいか悪夢を頻繁に見る。 私が定義する悪夢のほとんどは登場人物「父」「母」は確定だ。 今日見た夢はこうだ。 母が車を運転をしている。(フィリピンでの免許は持ってるらしいが日本での免許は持っていない) ↓ ぶつかりそうなのにブレーキを踏まない ↓ 後部座席のペーパードライバーの私が「ブレーキ!ブレーキ!左の!左の!」とブチ切れ ↓ 結果他の車とぶつかり母を無理やり退かして私がその辺の駐車場に停める ↓ 警察を呼ぶが母はニヤニヤしていて、警察は私の証言を

        • パチ依存の父と母

          人生で1番古い記憶の景色のほとんどは狭いアパートのリビングでテレビを眺めているところだ。 父は私に退屈をさせぬようにケーブルテレビの有料チャンネルをいくつか契約していた。 そこから幼稚園や学校が休みの時は日中それで時間を潰していた。その割に見ていたアニメの内容はよく思い出せない。 空調は初めから調整されていたけど冬だけはストーブもコタツがあっても酷く寒く、辛かった。なにより心細かった。寒さがあるとそれがより一層酷く感じられた。 父と母はパチ閉店時間前後にやっと帰ってくる

          限界A型作業所に通っていた話

          正式に書くと「就労継続支援A型事業所」らしいが、界隈の方々には「A型」や「A型作業所」と言われている。 私は東京で無職をしていた。だがそのままじゃ生活できない。貯金も底をつきそうな頃、私はハローワークの障害者コーナーの門をたたいた。 前々からツイッターで目にしていた「A型作業所」の名を担当の職員に出した。A型は最低賃金は貰える。対してB型は時給でなく工賃だ。時給にするとしたら100円とかそんくらいだ。とてもじゃないが生活できない。だから最初からA型を希望したが、担当の職員

          限界A型作業所に通っていた話

          学校給食への恨み

          地域によって給食の量に違いがあることに大人になってから気づいた。 インターネットをふらっと覗いているときはいろんなものが目に入る。 ある日私はどこかの学校給食の画像を見て「え!こんなに少ないの!?」と驚いた。 私が通っていた幼稚園小学校中学校の給食は量が多かった。 「お残し」は当たり前だった。 凄く薄い記憶だが私はほぼ毎日幼稚園での給食を残していた。 私だけではなく教室内のほとんどの生徒がそうしていたと思う。記憶の中に「お残し」をするために先生の前に並び、一人ずつ

          学校給食への恨み

          父と近親相姦をしていた話

          東京。 私はある一室に暮らしてた。 貰い物の布団に寝ていた。寝心地のとても良い上質なマットだったのに悪夢ばかりを見ていた。 夢の内容は父との近親相姦だった。 最初に見た時は「うえー気持ち悪い」という感想で流していたが、妙なことに何度も夢の中で父と近親相姦をしていた。 断っておくが本当に近親相姦をした記憶はない。 記憶がないだけで実際にはしたことがあるのでは?と自分でも疑問に思ったが、私はかなり父に生理的に嫌われていたので父が私を抱くことはないと結論付けた。 じゃ

          父と近親相姦をしていた話

          なぜ鬱病の私が20キロ太ったのか

          よく鬱病患者は薬の副作用で太りやすい、と聞いていた。 何度か私は病院を変えたがどの先生も女性だからと太りやすい薬は避けてくれた。 だから太った原因が薬のせいとは考えていない。 これから説明する私の鬱病患者生活を見れば肥った理由が納得できると思う。 私は田舎から東京へ逃げていた。 親に反対されていてずっと行けなかった心療内科にやっと通えたり、アルバイトで罵倒されたり役に立たなかったりして、病んだままだったが以前ほどではなかった。 東京は夜でも眩しくて、タバコのような匂

          なぜ鬱病の私が20キロ太ったのか

          呑気症が授業中に爆音を鳴らした話

          中学生の頃、呑気症だった。 きっかけは授業中の空腹だった。 当時肥満気味だった私は授業中の空腹音が心配になった。 朝はしっかりめの量を食べて家を出る。 しかし空腹音の心配はその2時間後くらいからもう既に始まる。 空腹を感じ、お腹に力を入れて誤魔化してやり過ごす。もちろん授業になんて集中できずにお腹のことばかり気にしている。 そして給食にありつき、また2時間もしないうちにお腹の音が気になり出す。空腹音だけでなく消化音も鳴るのだ。 授業中何度もお腹に力を入れて「鳴らないで

          呑気症が授業中に爆音を鳴らした話

          散歩が怖い

          東京に住んでいた時は深夜でも車ビュンビュンな大きな道路が近くにあった。環七だかカンパチだか知らないが。 昼夜逆転と過食のせいで太ったので主治医の勧めもあって「散歩」をすることにした。 しかし如何せんデブで多汗症なのであって汗かきのデブなんて見苦しいだろうと昼間は怖くて外に出れなかった。 そこで思いついたのが夜の散歩だった。 例の大きな道路は地下鉄線沿いだったため退勤ラッシュの人が少ないだろう時間を狙った。 しかしそれでも現実は厳しい。 人がすれ違うのがやっとな狭い歩道

          散歩が怖い

          返事と相槌が嫌い

          私は返事をするのが苦手だ。 たとえば「お風呂入ってくるねー」に「はーい」と返事するのも苦手だ。というかしたくない。 「お風呂入ってくるねー」と言われて「はい(了解)」以外でなにかあるだろうか。 もっというと私は相槌を打つのが嫌いだ。 たとえば「(テレビの人に対して)この人老けたね」に「うん」など。 心底どうでもいいし、興味が無い。 そう、興味が無い。幼い頃からだけど何に対しても興味が薄かった。 だから他人の興味のない何かに自分の喉や口や首を使って応えるのが億劫で仕方がな

          返事と相槌が嫌い

          独りでご飯を食べてた話

          学生時代、私は所謂ぼっちだった。 ぼっちなのでもちろんお昼休みは独りだった。 小中学校ではコミュニケーション能力上昇目的なのか4、5人で机を強制的にくっつけさせられて給食を食べていた。 それが高校となると、もうそんな見せかけの仲良しごっこはしない。 皆本当に仲の良い人達だけで固まって自由な席取りで食べる。 私はそんな中、ぽつんと自分の席から動かずそのまま机にお弁当を広げて黙々と食べていた。 苦痛に思ったことがない。 なぜなら物心つく時から独りで食事をするのが当たり前だ

          独りでご飯を食べてた話

          アブラカレイ

          物心つく頃からパチンコに依存し、家を空けていた父は気まぐれに手料理を振る舞うことがあった。 好きな具材だけ入れてこれでもかと炒めた男らしさ溢れるメニューの中に、アブラカレイがあった。もちろん男飯なもんで味付けして焼くだけだった。 廃棄前のコンビニ弁当やスーパーの巻き寿司や近くで買うマックも好きだったが、単純でメニュー名のつけようもない父の手料理が好きだった。 20歳のときに私は両親に愛想をつかして最低限の荷物を持って失踪したのだが、たまに父の料理が恋しくなっていた。

          アブラカレイ